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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第二話 やわらかな風の午後



村の午後は、風が柔らかくなる。


朝のあいだ、断崖や木立や屋根のあいだを鋭く抜けていた気流は、太陽が空の高いところへ昇るにつれて少しずつ角を失い、アストリア全体を大きな掌で撫でるような穏やかさへ変わっていく。空の海に浮かぶ小さな漂流島たちも、昼下がりの光を浴びながら、それぞれに眠気を帯びた生き物のような速度で流れていた。草に覆われた丸い島は雲の縁に腹を寄せ、古びた石柱を一本だけ残した島は影を長く引き、浮遊樹を抱えた島は葉をきらめかせながら、どこへ向かうとも知れぬ空の航路を静かに渡っていく。世界そのものが、ほんのひととき深い呼吸のあいだに身を休めているように見える時間だった。


トレインは、広場の片隅に立つ古い風見塔の中腹へ腰かけ、足を投げ出したまま空を見上げていた。塔は村がまだ今より小さかった時代から残る見張りと観測のための建造物で、風に磨かれた木材は飴色へ変わり、ところどころに補修の跡もある。てっぺんでは大きな風車がゆっくりと回り、そのたびに、キィ、キィ、と細い音を鳴らした。金属の軸が乾ききっているせいだと知ってはいるものの、トレインにはその音が妙に好きだった。新しい物の滑らかな静けさにはない、長く空を見てきたものだけが持つ声に聞こえるからである。


広場では午前の賑わいがひと息つき、屋台の布が緩やかに揺れていた。果実屋の主人は樽にもたれて眠そうに欠伸をし、香草を売る老婆は編みかけの袋を膝へ置いたまま、近所の者とゆっくり話し込んでいる。昼の光は明るいのに、午後の村には朝とは別の静けさがある。仕事の手は止まっていなくても、人々の気持ちにわずかな余白が生まれ、空の広さや風の匂いを、無意識のうちに確かめる時間が混じり込むせいかもしれない。


塔の足元では、年若い子どもたちが木剣を振り回して遊んでいた。枝を削って作っただけの頼りない剣を両手で構え、足をばたつかせながら突進する姿は、とても戦いの真似事には見えない。それでも本人たちは真剣そのもので、ひとりの少年が少し高い石の上へ飛び乗り、胸を張って叫ぶ。


「見て、オレ、スカイランナーみたいだろ!」


その声には、笑ってしまうほど無垢な誇らしさがあった。仲間の子どもたちは一斉に歓声を上げ、誰かが木剣を掲げ、別の誰かは風を切る真似をしながらそのまわりを駆け回る。足元の土を蹴散らし、風灯鳥を驚かせ、転んでは起き上がり、何度失敗しても空へ向かう格好だけはやめようとしない。その様子を見下ろしながら、トレインはふっと頬を緩めた。


かつて自分も、ああだった。


空を割って進む飛行艇の影を見上げては、自分もいつか、あの高みを駆けるのだと、少しも疑わずに信じていた。風が吹けば腕を広げ、断崖の先へ身を乗り出し、雲の流れの上を走る自分の姿を何度も思い描いた。幼いころの夢には、距離も重さもない。空はただ遠く、美しく、そこへ行きたいと願えば、いつか自然に辿り着けるもののように思えた。


そのころの自分へいまの自分が何か言えるとしたら、夢は憧れるだけでは近づかない、と教えるだろう。


風を読む訓練は、思っていたほど格好よいものではなかった。朝露で濡れた草を何度も踏みしめ、断崖の縁で目を閉じ、見えない気流のわずかな変化に神経を尖らせる。浮遊島の流れを記した地図を描かされても、最初のうちは位置を取り違え、潮流の癖を読み間違え、ダリオンに何度も紙を突き返された。訓練用の弓を持てば、風の影響を見誤って矢は思いも寄らぬ方向へ逸れ、短剣を振れば身体の軸が流れに置いていかれ、足場の悪い場所では情けないほど簡単に転ばされた。空に憧れることと、空に認められることのあいだには、想像していたよりずっと広い隔たりがある。トレインはそのことを、何度も息を切らし、悔しさで唇を噛みしめながら学んできた。


風見塔の木柵へ背中を預けながら、彼はそっと拳を握った。


スカイランナーになる。


空を渡る者になる。


そのために自分はここにいるのだということを、何度でも心へ言い聞かせる必要がある。夢は、放っておいても胸の中に灯り続けてくれるほど優しいものではない。日々の小さな疲れや、自分より優れた者を見たときの焦りや、まだ届かない場所の遠さに圧倒されたときの怯えが、その火を簡単に揺らす。揺らぐたび、掌で囲うようにして守り直さなければならない。トレインにとって拳を握るという単純な仕草は、そのための小さな儀式でもあった。


塔の下では、ダリオンが古びた浮遊艇の手入れをしていた。


かつて空を切り裂くように駆けたというその艇は、今では村の荷物運びや近距離の移送に使われるだけになっている。長い年月のあいだに幾度も修理され、元の姿からかなり変わってしまったらしいものの、骨格の美しさは隠しようがなかった。機首は細く流れ、胴体は風を逃がす曲面を持ち、両側に張り出した風受け板は使い込まれて色褪せていても、もともと空を走るために作られた乗り物特有の意志を漂わせている。ダリオンは腰を屈め、工具を手にしたまま黙々と金具の緩みを確かめていた。老いた手つきは遅く見えて、実際には少しも無駄がなく、艇のどこに触れればどんな声を返すかを熟知している者の動きだった。


しばらく見ていると、ダリオンが顔を上げた。目線はトレインではなく、その向こうの遠い空へ向いている。


「風はな、若い者を試すんだ」


ぽつりとこぼれた言葉は、午後の柔らかな空気の中へ静かに沈んでいった。


「お前たちが、どれだけ空を欲しているかをな」


トレインは塔の上から、その背中を見下ろした。ダリオンの言葉は村長として若者を諭す響きだけではなく、もっと昔、自分自身が同じように試された者の実感を含んでいるように思えた。老人もまた、かつては空に恋をした少年だったのだろう。断崖に立って高みを見上げ、自分の名を風へ刻みたいと願い、その願いのために痛みも孤独も呑み込んで走った時代が、確かにあったはずだ。彼の古傷や、ふと遠くを見る横顔に差す翳りは、その名残なのかもしれないとトレインは考えることがある。


午後はそのままゆっくり傾いていった。光が少しずつ金色を増し、漂流島の影が長くなり、村を包む風にも夕方の匂いが混じりはじめる。アストリアの人々は、日が傾くにつれてそれぞれの仕事を切り上げ、家へ戻る支度を始めた。軒先からは香ばしいパンの匂いが漂い、煮込み鍋に入れられた根菜と香草の甘い湯気が風へ溶ける。小さな教会の鐘が鳴り、その音は谷を持たないはずの空の村に、不思議と深い余韻を残しながら広がっていった。


「トレインー!」


母の声がどこかの道の向こうから飛んできた。聞き慣れた、明るくて、少しだけ急かすような響きである。


「いま帰る!」


塔から飛び降りるように降り、トレインは広場を横切って家路についた。風鈴の吊られた軒の下をくぐり、夕食の匂いが満ちる道を駆けると、胸の中のざわめきが少しだけ静まる。家に帰れば、母の手作りのスープが待っている。父は大きな声で笑う人ではないものの、食卓を囲むときの目元の柔らかさは、言葉以上に穏やかなぬくもりを感じさせた。アストリアの家々はどこも似たような構造をしていても、自分の家へ戻ったときにだけ分かる匂いや音がある。鍋の蓋が鳴る音、椅子を引く音、棚に置かれた器の軽い触れ合い。それらはささやかで、だからこそ失いたくない日常の輪郭だった。


小さな食卓の温もりがどれほどかけがえのないものか、トレインは知っている。何か大きな悲劇を経験したからではない。ただ、空を目指す者ほど、いつかこの場を離れる日が来ることを、早いうちからうっすら理解してしまうからだ。


それは嫌悪ではない。退屈でもない。むしろ愛しさに近い。この村を、家族を、夕暮れの匂いを、教会の鐘の余韻を、風見塔の軋みを、幼いころから見上げてきた雲の峰を、自分は確かに大切に思っている。その大切さを知っているからこそ、いつか自分の手で空へ漕ぎ出す日には、背を向けるのではなく、心の中へやさしく仕舞い込むようにして旅立たなければならないのだろう。別れは失うことではなく、胸の内へ持ち運ぶことでもある。そんなふうに考えるようになったのは、いつからだったのか、自分でもはっきり分からない。


夕食のあと、家の外へ出ると、空はゆっくり夜へ変わりつつあった。藍色の深みの中に、星がひとつ、またひとつと灯っていく。風が頬を撫で、水色の髪を揺らした。耳を澄ませば、どこか知らない場所から誰かが呼んでいるような、遠い風の囁きがあるような気がする。具体的な言葉ではない。それでも、手を伸ばせば届きそうで届かない、高みからの招きのようなものが、夜の気配とともに降りてくる。


――空は、きっと、自分を待っている。


そのときのトレインは、そう信じていた。何を根拠にと言われれば説明できない。説明できないからこそ、信じるという形でしか抱えられない感覚だった。


風裂祭まで、あと一週間。


スカイタウンから届いた公式の告知書が、村の広場へ掲示された日を境に、トレインの日常は少しずつ色を変え始めた。告知書は厚手の白紙に青銀の印章が押され、エアリア・ギルドの正式な文言で、開催日程、集合場所、持参規定、参加資格が整然と記されていた。村人たちは昼の仕事の手を止めて広場へ集まり、その紙を何度も見上げた。受験する若者たちは目を輝かせ、年長者たちは懐かしむような、心配するような表情でそれを見守った。たった一枚の紙が、村全体の空気の密度を変えてしまう。そのことにトレインは驚きながらも、自分の中で何かが確かに動き出したのを感じていた。


それからというもの、朝の風の匂いがどこかよそよそしく思える日が増えた。いつもと同じ断崖に立っているはずなのに、風は「いつまでもここにいるもの」としてではなく、「ここから先へ進む者」を見定めるように触れてくる気がする。夕暮れの雲も、これまで見慣れてきたはずの形なのに、見知らぬ地図のように思えることがある。漂流島の影ひとつ、鳥の飛び方ひとつで、胸の奥に小さな波が立った。


期待がある。不安もある。高揚も、怯えもある。


けれど、それらは器用に並んで存在してくれるわけではなかった。ひとつの感情だと思って掴もうとすると、その内側に別の色が混じっている。空へ近づくことへの喜びが、失敗への恐れに触れた途端にざらつきを持ち、緊張を自覚したかと思えば、その真ん中には抑えきれない興奮が灯っている。胸の内側でいくつもの風がぶつかりあって、自分でも何が本音なのかよく分からないまま、一日ごとに締めつける力だけが強くなっていった。


そんなある日、訓練を終えて帰る途中の草原で、トレインは彼女を見つけた。


リリム・クローバー。


アストリアの風見師――ウィンドセンサーの家に生まれた幼馴染であり、風を読むことにかけては村で一番の天才だと、多くの者が口を揃える少女だった。幼いころから感覚の鋭さが群を抜いていて、どの方角からどんな流れが来るか、どこで気圧が緩むか、漂流島の軌道がどのくらいずれるかを、まるで前もって聞いていたかのように言い当てることがある。本人はその評価を少しも誇らなさそうに受け流してしまうため、なおさら掴みどころがない。


そのリリムが、柔らかな草の上に寝転び、腕を組んだまま空を見上げていた。午後の光を含んだ赤茶の髪が風に揺れ、膝の上へ置かれた古ぼけた風見盤が、かすかな気流を受けてカラカラと軽い音を立てている。訓練の最中に真面目な顔で道具を覗き込みつづける姿も知っているだけに、そのあまりにも無防備な格好は、知らない者が見ればただの昼寝にしか見えない。


「……サボりか?」


トレインが草を踏み分けながら声をかけると、リリムは面倒くさそうに顔だけこちらへ向けた。瞳は眠たげに細められているのに、その奥の光だけは妙に澄んでいる。


「違うよ。訓練だもん、これでも。風を聞くには、まず寝っ転がらないと」


「どんな理屈だよ……」


苦笑しながら隣へ腰を下ろす。草の匂いが近くなり、地面のぬくもりが衣服越しに伝わってきた。リリムは反論するでもなく、片手を持ち上げて空を指差す。


「今日の風は北西から来てる。山の匂いを運んできてるよ。たぶん、三日後には雨」


トレインは黙って息を吸い込んだ。


空気の中には、たしかにほんの微かに湿った土と木の皮の匂いが混じっている。普段のアストリアの風はもっと乾いて軽い。いま感じるのは、遠くの高地で冷えた空気が流れを変え、どこかの山腹の匂いをすくってこちらへ運んできたような、薄いけれど確かな変化だった。


「よく分かるな」


「分かるっていうか、いるんだよ。匂いが」


リリムはそう言って、風見盤を指先で軽く弾いた。盤の縁に刻まれた細かな印が、夕方の光を受けてかすかにきらめく。


「ねえ、トレイン。風裂祭は楽しみ?」


問いかけは何気ない口調だった。それでもトレインは、すぐには答えられなかった。


楽しみかと聞かれれば、もちろんそうだ。幼いころから夢見てきた場所へ、自分の足で向かえるのだから嬉しくないはずがない。スカイタウンへ行けることも、ギルドの正式な試験へ挑めることも、空へ名を刻む最初の門に立てることも、ずっと願ってきた。ところが胸の奥には、それとは別の何かが小さく震えている。失敗が怖いのか、自分がどこまで行けるのかを知るのが怖いのか、それとも村を離れる現実が想像以上に重いのか、自分でもうまく言葉にできなかった。


「……まだ、わかんねぇ」


ようやくそう答えると、リリムはふわっと笑った。その笑い方は、相手の迷いを笑うのではなく、その迷いごと受け入れてしまうような軽さを持っている。


「それでいいんじゃない? 風は、先に全部を教えてくれたりしないから」


言葉を置いたあと、彼女はまた空へ視線を戻した。


風は、行き先も、答えも、結末も、最初から整った形では渡してこない。流れの途中でようやく輪郭を持ち、通り過ぎたあとで初めて意味が分かるもののほうが多い。だから人は、見通せないものへ手を伸ばすのだと、リリムはそう言いたげな顔をしていた。


トレインは草を一本引き抜き、指のあいだでいじりながら黙り込んだ。リリムといると、無理に話を繋ごうとしなくても気まずくならない。彼女は沈黙を埋めるための言葉を急がない。そのかわり、何も言わない時間の中にまで風の気配を聞いているようなところがある。幼いころ、二人で断崖近くの草原へ寝転び、雲の形に勝手な名前をつけて遊んだことがあった。そのときリリムは、雲よりもそのあいだを抜ける空気の癖のほうに興味を示していた。変なやつだと思った記憶がある。いまになってみれば、昔から彼女はそうだったのだ。


「お前はどうなんだよ」


トレインは空を見たまま訊ねた。「風裂祭。楽しみなのか」


「うーん」


リリムは少し考えるふりをしたあと、肩をすくめるように笑った。


「楽しみ、もある。面倒くさい、もある。知らない場所に行けるのは好きだけど、人が多いのは疲れるし。試験そのものより、どんな風が吹いてるかのほうが気になる」


いかにも彼女らしい答えだった。普通の受験者なら、競争相手や試験内容、自分が受かるかどうかを真っ先に気にするところを、リリムはそこで吹いている風そのものに意識を向けている。トレインは思わず笑った。


「やっぱり変わってるな」


「トレインに言われたくない」


「なんでだよ」


「朝から夕方まで風のことで頭いっぱいの人にだけは言われたくないってこと」


そんなやり取りを交わしているうちに、胸の中で絡まっていた感情が少しだけほどけた気がした。不安が消えたわけではない。緊張もある。それでも、分からないまま進んでよいのだと誰かに言われることが、こんなにも息をしやすくするとは思わなかった。


しばらく並んで空を見ていたあと、トレインは立ち上がった。腰の短剣を軽く握り直し、草の上に置いていた訓練弓を肩へ担ぐ。身体を止めていると、少し落ち着いた分だけ、もう一度風へ向き合いたい気持ちが強くなってきた。


「……まあ、もう少しトレーニングするよ」


リリムは寝転んだまま片手をひらひら振った。


「うん、行っといで」


膝の上の風見盤が、かすかにきらめいた。そこへ触れる彼女の指先は、空に住む何か小さな生き物と会話しているようにも見える。


トレインは草原を離れ、丘を駆け上がって村の外れへ向かった。午後の風は柔らかい。それでも、柔らかい風には柔らかい風なりの読み方がある。強い流れのように輪郭がはっきりしていない分、身体の置き方を少し誤るだけで感覚が鈍る。足を止めず、呼吸の拍を整え、肩の力を抜いたまま、流れの中へ自分を置いていく。


断崖へ近い開けた場所へ着くと、彼は弓を抜いた。訓練用とはいえ、何度も使い込んだ弓は手に馴染んでいる。的代わりの木板は少し離れた場所に立ててあるものの、今日の狙いは板そのものではない。風を挟んだ先にある一点へ、自分の感覚を通すことだ。弦を引き、頬へ寄せ、目を細める。風が頬の皮膚をどう撫でているか、指先のわずかな震えがどちらへ逃げたがっているか、矢羽が空気にどんな抵抗を受けるか、それらを一息のうちにまとめあげて放つ。矢は乾いた音を立てて飛び、的の中央から少し外れた位置へ刺さった。完璧とは言えない。それでも一本ごとに、自分の身体が風へ馴染んでいくのが分かる。


矢を回収したあとは、短剣を抜いた。風を切るためではなく、風に溶け込むための動き。刃筋を見せつけるのではなく、流れに沿って身体の向きをほどき、重心を移し、斬るというより通り抜ける感覚を磨く。ダリオンはよく、空に生きる者の武器は腕力だけではないと言う。風を敵に回せば、自分の一撃は必ず遅れる。風を味方にできれば、届かないと思っていたところへ刃先が滑り込む。トレインは何度も構えを繰り返し、足裏の置き方を確かめ、空気の薄い変化を拾おうとした。


やがて彼は目を閉じた。


耳を澄ます。


草の擦れる音、遠くの風車の軋み、漂流島の縁を流れる上層気流の低い唸り、村のほうから運ばれてくる鍋の匂い、もっと遠く、高いところで鳴る、まだ言葉にならない何かの気配。世界は静かに見えて、無数の層で同時に動いている。そのすべてを聞き取ることはできなくても、聞こうとする姿勢だけは失いたくないと、トレインは思った。


風裂祭は、もうすぐだ。


遠い空の彼方に、自分を待つ世界がある。そこでは、いまの自分よりもっと大きな流れが渦巻き、村の中だけでは出会えない人々が空を渡り、まだ見ぬ島々や言葉や試練が息づいている。その一歩を踏み出すために、自分は今日も風と向き合う。特別な英雄だからではない。誰にも知られていない一人の少年として、見えないものを信じて手を伸ばすために。


小さな村の、小さな午後だった。


子どもたちは木剣を振り回し、家々の鍋は湯気を立て、古い風見塔は軋みながら回り、幼馴染は草原の上で空を聞いている。その何気ない時間のなかで、トレイン・フェザーネットは、まだ誰も知らない風の入口へ少しずつ近づいていた。


いまの彼にできるのは、走ること、読むこと、息を整えること、目の前の空へ誠実でいることだけである。世界を変えるなどという言葉は、彼の暮らしから見ればあまりにも遠い。けれど、本当に大きな風は、名もない午後の、誰にも気づかれない小さな決意の中から吹きはじめるのかもしれなかった。


トレインはもう一度弓を構えた。


夕暮れへ傾き始めた空の下、矢羽が微かに震える。


彼の前に広がるのは、見慣れたアストリアの空であり、同時に、まだ一度も踏み込んだことのない未来の入り口でもあった。


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