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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第2章 空が陥ちる日
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第二十九話 夜明け



スカイタウンの朝は、いつも風から始まっていた。


中央浮遊核 《ゼファーコア》を中心に、大小五十を超える浮遊島群がゆるやかな回転を続けるこの都市では、夜と朝の境界すら地上の町のように単純ではない。東から差し込む日差しが最初に触れるのは、外縁区画の最上層へ架けられた風見塔の羽根であり、その羽根がひとつ、またひとつと金色の光を受けるたび、風路ウィンドレーンに満ちた冷たい高空の空気が細かく震え、街じゅうへ目覚めの合図を送りはじめる。半透明の空中橋スカイブリッジには朝露が薄く結び、居住区ネスト・レーンの浮遊樹の葉先には夜のうちに集められた水分が小さな珠となってぶら下がっている。市場区マーケット・ドリフトの天幕はまだ商人の手が触れていないにもかかわらず、吹き抜ける風に応じて静かに膨らんではしぼみ、今日も都市が無事に呼吸していることを示していた。


それほどまでに、スカイタウンは風とともにあった。


都市が巨大であればあるほど、その秩序は単純な石壁や兵の数では保たれない。どれほど堅牢な外殻を持とうと、空に浮かぶ都市が崩れる時は必ず“流れ”から壊れていく。風脈の乱れ、浮遊礎への負荷偏差、空中橋へ伝わる捻れ、物資輸送の遅滞、航路の目詰まり、住民の心理に走る見えない波紋。スカイタウンの為政者たちは、そのことをよく知っていた。ゆえに彼らは都市を守るという行為を、単に敵を拒む軍事行動とは捉えていなかった。守るとは“風の流れ”を守ることであり、生活の律動を守ることであり、空に誓って築き上げた自由そのものの呼吸を守ることだった。


その日の朝もまた、表面上は何ひとつ変わらないはずだった。


市場区では風果実を運ぶ小型運搬艇が早くも浮遊荷台を滑らせ、焼きたての薄焼きパンと香草の匂いが朝靄へ溶け、訓練区スカイランナー・ドックでは夜明け前から起き出した若い受験者たちが、試験艇の風圧調整値を確認しながら眠気を振り払っていた。エアリア・ギルド本部では、第一鐘の前に提出される気流観測報告の束が整えられ、中央広場セレスティアル・プラザの掃除役たちは、祭典の余韻がまだ残る石畳から花弁の欠片を拾い集めていた。市民たちは、戦争という言葉を知らなかったわけではない。帝国ヨルムンガンドの進出が各地で進んでいることも、ヴェントゥス外縁の漂流島群で不穏な動きがあることも、評議会が中立維持のために水面下で苦しい交渉を続けていることも、まったく知らぬ者ばかりではなかった。けれど知っていることと、現実に自分の頭上へ降ってくることとは、まるで別の話である。人は日常の手触りを失うまでは、破局をどこか遠景として扱う。


異変に最初に気づいたのは、外縁監視塔ガレオン・スパイアの観測士たちだった。


スカイタウンの外周には、自然形成された風のガレオンクラストが層状に存在している。上空から都市へ近づこうとする者は、その乱れた気流帯を避けて航路を選ばねばならず、よほど高度な航法技術を持つ艦でない限り、外縁空域へ安全に侵入することは難しい。観測士たちは、その風の盾に起きる僅かな乱れを、色、温度、音、圧の差として日々記録し続けていた。風は嘘をつかない。人が偽装しても、艦影を隠しても、巨大な質量が空域へ侵入すれば、気流そのものが必ず揺らぐ。


夜明けからしばらく経った頃、北西監視窓の前へ立っていた若い観測士ルウェインは、風見盤の針が一拍だけおかしな震え方をしたことに眉をひそめた。微細な異常であれば、乱気流のうねりや遠方の温度差でも起こりうる。経験の浅い者なら見過ごしただろう。けれど彼は前夜の勤務から引き継いだ観測値に、小さな引っかかりを覚えていた。空域の密度が均一すぎる。風の盾が“自然に揺れている”のではなく、どこかで大きな流れを押しとどめるような、鈍い反発が継続している。


彼は追加観測のため、風紋測定鏡の焦点を遠方へ合わせた。


磨き抜かれた風晶板へ薄く広がる外縁空域の像は、最初、ただの雲海しか映していなかった。乳白色の層、その向こうに並ぶ漂流岩の影、さらに奥でゆっくり盛り上がる高空雲の壁。いつもの朝と変わらぬように見える。ところが、視角をほんのわずか下げた瞬間、その雲の底へ直線があった。自然界に存在しない硬質な線だった。雲の曲線を断ち切る、黒い水平線。一本ではない。二本、三本、さらに奥にも、規則正しく並んでいる。


ルウェインは息を呑んだ。


それが雲ではなく、艦影であることを理解するまで、思考はかえって数拍遅れた。理解した時には、全身の血が一気に冷えていた。彼は反射的に警鐘用の風鈴索へ手を伸ばしかけ、そこで一度だけ迷う。誤報であれば、都市全域の機能を不要に混乱させる。けれどもし本物なら、ためらい一拍ぶんの遅れがそのまま死傷者の数に変わる。


迷いは一瞬だった。


彼は索を強く引いた。


高音と低音が重なった異形の警鐘が、監視塔の内部で炸裂するように鳴り響く。朝の風に溶けるはずだった音は、金属質な緊張を帯びたまま風路を逆流するように都市へ走った。


二度目の鐘が鳴る前に、観測塔の上席士官が駆け込んでくる。


「何が見えた」


「北西外縁三十二度、高度差推定二百。大型艦影群。数、視認範囲内だけで二十以上。後続あり」


「旗は」


「まだ見えません。けれど、あの艦型は――」


最後まで言わずとも、士官の顔色が変わる。


スカイタウンは古くから中立都市を標榜してきた。交易と航路管理で各地と結びつきながら、どの国家にも膝を折らないことを誇りとしてきた。中立であることは、曖昧であることとは違う。力を持たぬ者の中立はただの願望にすぎないが、スカイタウンの中立は、空域を読む技術、風脈を統べる知識、そして何より、侵されれば各地の交易網と飛行航路そのものが混乱するという地政学的な重みを背負って成立していた。だからこそ、多くの者は心のどこかで、帝国ですらここへ露骨な軍事侵攻はしかけまいと信じていた。


その信仰が、観測塔の窓の向こうで音もなく終わろうとしていた。


エアリア・ギルド本部へ第一報が届いた時、評議会の定例朝会はまだ始まったばかりだった。


円卓の上へ並ぶのは、風脈管理局の報告書、外縁漂流島群の巡回記録、浮遊礎の維持予算案、祭典に伴う交通規制解除の申請書、そして、市井の住民から寄せられた細かな要望の束である。中立都市の運営とは、こうした地味で膨大な調整の積み重ねによって成り立っている。どれほど壮麗な都市であろうと、浮遊核が一日でも止まれば人々は落ち着きを失い、食糧搬入が半日遅れれば市場価格は跳ね上がり、水路の気圧差が一箇所狂えば居住区の下層で湿害が広がる。スカイタウンの首脳部は、その現実をよく知る実務家たちで構成されていた。


議長席へ座っていた老評議長サイラスは、駆け込んできた伝令士の顔を見た瞬間、議題を閉じた。


伝令士は形式的な礼もそこそこに、短く告げる。


「北西外縁に帝国艦影。監視塔は最上級警戒を宣言。推定、侵攻隊形です」


空気が変わった。


部屋の温度そのものが数度下がったような静まり方だった。驚きで声を上げる者はいない。驚きは後から来る。長く政治の場にいる者ほど、ほんとうに危険な報せへ接した時、人はまず黙るのだ。言葉を発すれば、それが現実になってしまうからである。


サイラスはすぐ隣のギルド総監へ視線を送る。


総監ルード・ドウェインは、すでに立ち上がっていた。長身の身体を包む濃紺の外套が、まだ完全には解かれていない朝の冷気をわずかに含んで揺れる。彼は前夜まで試験運営と都市防備の両方を睨み続けていたため、目の下にうっすらと疲労の影が差していた。けれどその表情には狼狽より先に、計算が走っている。


「避難段階は」


伝令士が答える。


「まだ第一警戒のみです。観測塔は敵艦の砲列展開を確認できていません」


「確認できていないだけで、していないとは限らない」


ルードは即座に言い切った。


「評議会は防壁結界起動を承認してください。外縁橋梁は閉鎖、非戦闘員は中層以下へ降ろす。市場区の上空航路を止め、訓練区の艇は全機接収。ギルド所属者は戦時編成へ移行します」


評議の一人が眉を上げる。


「宣戦布告もなく結界を上げれば、都市側から交渉を閉ざしたと見なされかねん」


ルードはその言葉を遮らなかった。むしろ相手の言い分を一拍置いて受け止めてから、静かに返した。


「空域に大型艦隊が隊形を維持したまま接近してきている時点で、すでに交渉は扉の外に置かれています。こちらが扉を閉めたのではありません。向こうが、扉の前へ砲を持って立っているのです」


その一言で、円卓の空気が決まった。


サイラスは深く頷き、短く命じる。


「承認する。都市防護はギルド総監ルードへ一時委任。評議会は行政機能の維持と避難誘導に専念する」


決裁印が押される音が、妙に大きく響いた。


その頃、市場区ではまだ何人もの商人が警鐘の意味を正確に理解できずにいた。


風裂祭が近い時期には、試験関連の事故や外縁空域の乱気流によって注意喚起が流れることもある。警鐘の音を聞いて顔を見合わせた露天商たちの中にも、「また上の訓練区で何かあったのか」と首を傾げる者がいた。けれど、通りを走る市衛隊の数と速さがいつもと違うことは、すぐに誰の目にも明らかになった。彼らは住民へ説明する暇もなく区画ごとに空路遮断板を下ろし、浮遊橋の交通を止め、屋台の固定索を強制的に解かせていた。上空ではすでに、私用艇の離発着を禁じる赤色風旗が連続して打ち上げられている。


市場区の中央で香草を売っていた女商人イレナは、固定していた天幕の紐を外しながら、ようやく胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。彼女はスカイタウン生まれではない。若い頃、外縁の小島群を巡る交易船で育ち、十七でこの都市へ腰を落ち着けた。だから彼女は、平和が何もしなくても勝手に続くものではないことを知っていた。戦火は遠くから見る限り、常に“どこか別の場所”の出来事に見える。けれどそれが現実にこちらへ向かっている時、人はまず匂いで察する。鉄と油と焦げの匂いではない。人々の会話が急速に減り、判断の速い者から先に荷を畳み始める時にだけ漂う、空気そのものの味の変化がある。


「何が起きたの」


隣の露天の若者が訊く。


イレナは答えられなかった。代わりに頭上の風路へ目を向ける。


そこには、いつもなら朝の配達艇が忙しく行き交っているはずだった。今日は違う。護衛艇が一直線に西へ飛び、風路標識の一部が緊急閉鎖の黄色光へ切り替わっている。市の空が、生活の色から軍事の色へ変わり始めていた。


訓練区では、受験者たちが困惑と不満をないまぜにした顔で足止めされていた。


統一試験艇の格納庫前へ突然武装したギルド員が並び、参加者は全員その場へ待機を命じられる。昨日まで互いを意識し、試験の順位や次の課題に神経を尖らせていた若者たちは、眼前の事態が自分たちの個人的な夢や競争をあまりに容易く無意味へ変えてしまうことへまだ追いついていない。彼らの多くは、帝国というものを地図上の色と噂話でしか知らなかった。空を走り、未知を目指し、自らの名を空へ刻むためにここへ来たのであって、戦場へ立つために来たわけではない。


ギルド員のひとりが怒鳴るでもなく、しかし逆らう余地を一切与えない声で告げる。


「本日以降、風裂祭の進行は凍結。全受験者は所属・出身別に再編成され、市民避難の補助へ回る者、防衛補助へ回る者、保護区への移送を受ける者に分けられる。質問は後だ。いまは名前を呼ばれた順に並べ」


不満げな視線や、状況説明を求める声が一瞬だけ上がる。けれど、上空を横切った重低音がそのざわめきを押し潰した。


都市の高層空域を、大型の防衛艇編隊が南北へ割れて飛んでいく。普段なら祭典か記念飛行でしか見ない重装備の艇列だった。彼らは都市内部の景観より、外縁空域への射線確保を優先して高度を取っている。つまり、すでに“内部の平穏”より“外部への備え”が上位の判断として下されたのだ。


中央浮遊核ゼファーコアの周辺では、技師たちが防護補助術式の起動へ追われていた。


ゼファーコアは都市全体の浮遊安定と回転制御、風脈分配、気候調整の要だ。ここが落ちればスカイタウンは都市として死ぬ。ゆえに戦時において最も重要なのは、敵を撃退することと同じくらい、この核をいかに保護し、いかに過負荷を防ぎ、いかに暴走を回避するかにあった。外縁結界を最大出力で展開すれば、都市内の風路供給へしわ寄せが行く。避難艇の大量運行を優先すれば、上層の安定浮遊へ微細な偏差が生まれる。重砲結界を展開すれば、浮遊礎にかかる反作用で外縁区画の姿勢制御が乱れる。戦争とは破壊だけでなく、資源配分の連続でもある。


主任技師レオナは、中央制御円盤の上へ立ったまま、汗のにじむ額を袖で乱暴に拭った。彼女の前では十二基の補助結晶塔がひとつずつ点灯し、都市各区画の負荷率が色分けされて浮かび上がっている。まだ大きな破綻はない。けれど、帝国艦隊の規模が観測報告どおりなら、防護結界の持続時間はそう長く見積もれない。問題は砲撃そのものより、都市の上空で起きる大規模な魔力干渉だ。外縁空域に高出力兵器が撃ち込まれれば、自然風脈が乱れ、その余波は必ずゼファーコアの安定へ返ってくる。


「北西面の負荷を一割上げて。代わりに居住区下層の気候制御を切る」


補佐技師が顔をしかめる。


「下層に湿気がこもります」


「いまは洗濯物より浮遊核よ」


短いやりとりの後、制御盤の光が組み替わる。


都市の崩壊は、こういう瞬間に始まるのだとレオナは知っていた。大きな爆発や塔の倒壊は最後に現れる“結果”にすぎない。その前に、誰かが守るべきでないものを切り捨て、守るべきものの優先順位を決め、その判断のひとつひとつが都市の血流を変えていく。戦時の指揮とは、冷酷さを学ぶことでもある。


一方、帝国ヨルムンガンド艦隊の旗艦 《ナーガル・ヴェイン》では、侵攻はすでに“開始済みの作業”として進行していた。


甲板を覆う黒鉄の装甲は冷たく、視界を狭める装飾のない直線が続く。スカイタウンの白銀と風布の建築とは対照的に、帝国の艦は空を航るための美をほとんど放棄していた。そこにあるのは効率と威圧だけである。砲列は外へ剥き出しのまま並び、推進翼は空を裂くより押し潰すためにあるような鈍重な形をしていた。艦橋窓の向こうで広がる空域は、かつて自由の象徴だったはずの風の大陸ヴェントゥスである。艦内の士官たちの多くは、その事実へ何の感慨も抱いていない。彼らにとって地図とは資源と航路と占領効率の一覧表でしかなかった。


艦隊司令グランツ・ヘルムハートは、報告卓の前で腕を組んだまま、前方へ浮かぶスカイタウンの遠景を見つめていた。雲の上で光を受けるその都市は、たしかに美しい。人工物でありながら、自然風脈と共生することであの均衡を保っている点は、軍人である彼から見ても興味深い。興味深いことと、壊すべきことは矛盾しない。むしろ、秩序だったものほど征服の価値がある。


「都市側、結界展開を確認」


副官が告げる。


「想定どおりです。外縁橋梁の可動停止、民間航路は閉鎖」


グランツは薄く頷く。


「抵抗意思あり、と」


「はい」


「結構だ。抵抗してくれた方が、後の統治文書に都合がいい」


副官は表情を変えない。


帝国の戦争は、感情ではなく文書と目的で進む。もちろん現場に激情がないわけではない。兵も将も人間である以上、恐れも憎しみもある。けれど帝国は、それを表へ出すことを好まない。欲望は常に“秩序回復”や“外縁安定化”や“航路保全”といった名目で語られる。スカイタウン侵攻の公式理由は、自由都市が“域外勢力と接触し、ヴェントゥス全域の安定を脅かしている疑いがあるための是正措置”である。真の狙いが何であれ、文書上の語り口はつねに冷静でなければならない。


「第一目標は」


「中央浮遊核へ至る防護層の解析。第二にエアリア・ギルド本部の無力化。第三に都市中枢評議会の身柄確保。必要に応じて一部区画の切り離しも許可済みです」


グランツは視線を細める。


「“必要に応じて”では遅い。浮遊都市は首を落とせば全身が死ぬが、無計画に首を叩けばこちらも残骸しか得られん。優先は制圧、破壊ではない。ゼファーコアは可能な限り生かす」


副官が一礼する。


「《記録戦術班》は」


「第二陣後方に待機。例の女も、すでに別働で行動中とのことです」


グランツの目つきがわずかに変わる。


別働。その単語に込められた意味を、彼はよく理解していた。帝国の中枢は、ときおり通常の戦争目的では説明できぬ命令を、戦場へ持ち込む。《記録》《神核》《断層》《位相》――そうした語彙が作戦書に混ざる時、現場の軍人は理解より服従を選ぶしかない。理解しようとした者ほど、長くは残らない。


「よろしい。前衛艦群、散開陣へ。都市防壁の魔力反射角を測れ。結界に最初の一撃を入れるのは、恐怖のためではない。都市の“呼吸”を乱すためだ」


号令が飛ぶ。


黒鉄の巨艦群が、空そのものへ墨を流すように陣を広げはじめた。


スカイタウンでは、この頃になってようやく大多数の住民が“本当に何かが来た”のだと理解し始めていた。


恐怖は、いつも段階を踏んでやってくる。最初は違和感であり、次は否認であり、その後ようやく現実になる。家へ戻って荷をまとめる者、子どもの手を引いて階段を駆け下りる者、祈祷の帆を取り込みながら呆然と空を見上げる者、広場で家族を探して名を呼び続ける者。都市がまだ完全に機能しているうちほど、人々の動きはかえってばらける。秩序ある避難とは、恐怖が一定以下である時しか成立しない。


中央広場セレスティアル・プラザでは、ギルド員たちが避難経路を確保するため祭壇台座の一部を強制撤去していた。祭典の飾り布が切り裂かれ、祈りの花輪が足元で踏まれ、風鈴は一括して取り外される。都市の象徴である風景が、戦時手順のために壊されていく。破壊はまだ敵の手によって始まってはいない。自ら守るため、自らの美しさを壊さねばならぬという現実が、住民たちの心へ最初の亀裂を入れていた。


ある母親が、広場脇で泣きだした娘を抱き寄せながら、何度も「すぐ終わるから」と繰り返していた。たぶん彼女自身、その言葉を信じてはいない。けれど幼い子どもへ語るにはまだそれしかない。戦争が都市へ来た時、大人は真実より先に耐えられる言葉を探すのだ。


高層の風路では、ギルド所属の戦闘艇が発進準備を整えつつあった。


隊長たちは隊列を確認し、補給員は最後の魔力弾倉を積み込み、艇整備士たちは祈るような手つきで機体の風受け板を撫でている。彼らの多くは、帝国正規艦隊との全面交戦経験など持たない。ヴェントゥスの空に生きる者たちの戦いは、本来、漂流獣の掃討や空域海賊の追跡、嵐の中での救難が主だった。国家規模の艦隊戦は、教本には載っていても、日常にはなかった。だから彼らは、手順の一つ一つへ異様なほど丁寧だった。丁寧であることが、自分たちがまだ訓練ではなく現実にいると理解するための唯一の方法だった。


エアリア・ギルド本部の最上層バルコニーへ立ったノエル・ヴァントは、双眼鏡越しに外縁空域を見つめていた。


見える。黒い艦列。散開陣。高度差を取った第二陣。さらにその上で旋回待機する長距離砲艦。帝国は最初から交渉の時間を与えるつもりがない。威圧のための接近ではない。都市の結界特性を測り、一撃目で最も効率よく“空域の呼吸”を乱すための布陣だ。


「躊躇がないな」


彼女の隣で、副官格の老ギルド員が低く呟く。


ノエルは目を離さぬまま答える。


「躊躇する理由が、向こうには最初から存在していないのでしょう」


「市民避難は完了までまだ半刻かかります」


「半刻は長すぎる」


「承知しています」


ノエルは歯を食いしばった。


戦争の指揮において、最も辛いのは兵を失うことではない。兵は戦うためにここにいる。もちろん誰ひとり失いたくはないが、戦場とは元来そういう場所だ。ほんとうに堪えるのは、守るべき市民のうち、自分の手が届く速度より早く恐怖が広がっていくことだ。都市規模の避難は、戦術ではなく時間との競争になる。ノエルはそれを知っていた。


その時、外縁空域で一条の光が走った。


細い。けれど異様なまでにまっすぐで、曖昧さがない。帝国前衛艦の砲口から放たれた高圧収束魔力が、風の盾 《ガレオンクラスト》へ触れる。


スカイタウンの住民たちの多くは、それを“最初の砲撃”として理解する前に、美しいと感じてしまった。


青と白の中間みたいなその光は、朝の空を横切り、都市外縁の自然風脈層へ突き刺さる。衝突の瞬間、大音響が鳴るかと思いきや、最初に起きたのは沈黙だった。音が消える。風も、鳥の鳴き声も、人々のざわめきも、一瞬だけすべて奪われる。そしてそのあとで、空域そのものが悲鳴を上げた。


風の盾が裂ける。


目に見えぬはずの気流防壁が、可視化された糸みたいに何層もほどけ、都市の上空で複雑に絡み合っていた風路へ衝撃波が走る。空中橋が一斉に震え、風見塔の羽根が逆方向へ弾かれ、広場の旗布が破裂するように膨らんだ。


市民たちはその場でしゃがみ込み、耳を押さえた。


高音と低音が同時に押し寄せる。結界が受けた衝撃が、ゼファーコアと各浮遊礎を経由して都市全体へ伝わっているのだ。これは破壊ではない。帝国は最初の一撃で壁を割るつもりではなく、都市の“律動”を乱しにきたのである。


ノエルはすぐに理解した。


「狙いは共鳴崩し……!」


外縁結界が無事でも、風路が狂えば避難も反撃も鈍る。浮遊都市は静止した城ではない。都市そのものが空域との共鳴で成り立っている以上、その共鳴を乱されれば、防壁の強度も兵の操縦も市民の移動も一斉に精度を失う。


帝国はその最初の一撃で、スカイタウンが“どのように守っているか”を正確に見抜いていた。


二撃目はすぐ来た。


今度は砲撃ではなく、空だった。


帝国艦隊の中央列が割れ、その後方から、さらに巨大な影が雲の層を押し分けながら姿を現す。黒鉄の外殻。階層状に重なった砲列。腹部へいくつもの推進輪を抱え、空域そのものを引きずって進むような異形の巨艦。その影が現れた時、スカイタウン上空の光が一段暗くなった。


「嘘でしょう……」


誰かが呟く。


誰の声かなど、意味を持たない。都市全体の心が、ほとんど同じ言葉を内側で呟いたからだ。


先行艦隊だけでも圧倒的だった。ところが雲の上から現れた巨艦群は、その規模をさらに飲み込んでなお余る。もはや艦隊ではない。一つの空域が、そのまま帝国の意志として押し寄せてきたような威容だった。黒い壁。黒い空。黒い都市。自由都市スカイタウンが誇ってきた開かれた空は、その瞬間、帝国の質量によって上から蓋をされた。


ノエルは、双眼鏡を下ろした。


見なくても分かる。これは局地戦ではない。威嚇でもない。帝国ヨルムンガンドは、今日ここで、スカイタウンという“概念”そのものを折りに来たのだ。


広場では、ようやく泣き声があちこちで上がり始めていた。


市場区では、屋台の一部が外縁結界の共鳴衝撃で倒れ、散乱した風果実が石畳を転がる。居住区では、上層の浮遊樹へ吊るしていた洗濯布がまとめて吹き飛び、子どもを抱えた母親が階段で足を止める。訓練区では接収された艇の一部が制御振動で固定索をきしませ、若い受験者たちがただ呆然と空を見上げている。


そしてそのすべての視線の先にあったのは、スカイタウンの方角ではなく、空の向こうから来る黒い意志だった。



スカイタウンは、崩壊し始めていた。


塔が倒れたわけではない。ゼファーコアが砕けたわけでもない。街路が火の海になったわけでもない。にもかかわらず、都市は確かに崩れ始めていた。人々の呼吸が乱れ、風路がずれ、意思決定が秒単位の遅れへ変わり、空の上に築かれた自由の秩序が、帝国の黒い艦影によって一枚ずつ剥がされていく。



誰かが叫ぶ。


避難経路を空けろ、と。


誰かが祈る。


エアリアよ、と。


誰かが歯を食いしばる。


ここを渡すものか、と。



空は、そのすべてを見下ろしていた。


そして、雲の裂け目からなお現れ続ける巨艦群を前に、スカイタウンの人々はようやく理解する。


本当に来てしまったのだと。


遠い噂ではなく、地図の外の出来事ではなく、自分たちの頭上へ。


風の外側に吹く、《戦火》が。


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