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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第二十七話 風が知る、世界の最初の名



すべての風が、止まった。


つい先ほどまで断崖の縁を撫でていた草の穂も、遠い谷底から這い上がってきていた湿った空気も、古い風車の羽根へ名残のように絡みついていた微細な流れも、ぴたりと動きをやめる。空に浮かんでいた薄明の雲でさえ流れるという行為そのものを忘れてしまったかのように、夕暮れ色の空の上へ静かに縫い留められていた。時間がひとつの“点”へ縫い止められ、その一点の中へ世界の色と音と匂いのすべてが、ひっそりと折り畳まれていくような感覚だった。


トレインは、呼吸を静めた。


胸の中で高鳴っていた鼓動は、いつの間にか戦いの前の昂ぶりではなく、もっと古く、もっと柔らかな懐かしさへ形を変えている。周囲は無音に満たされていた。けれどその静けさは恐ろしい種類のものではなかった。耳を塞ぎたくなるような圧迫でも、胸を締めつけるような孤独でもない。むしろ自分の心の奥底へ沈んでいた何かが、ふと息を吹き返すときの温もりに似ていた。長く閉ざしていた箱の蓋を開けたとき、そこへしまわれていた古い匂いが静かに立ちのぼるように、この沈黙の中には失っていたはずの時間が優しく戻ってくる気配があった。


その時だった。


すぐ隣から、声がした。


「よぉ。だいぶ、背が伸びたな、トレイン」


まるで昨日ぶりに会った友達のような、気さくな調子だった。


あまりにも自然で、あまりにも懐かしいその調子に、トレインは思わず笑ってしまう。驚くより先に笑みがこぼれたことが、自分でも少しおかしかった。十年近く会っていなかったはずの相手へこうして気安く笑えるという事実そのものが、いかにも“あの風”らしかったからだ。


「……なんだよ、その第一声。十年ぶりくらいだろ」


笑いながら返した声には、驚きも戸惑いも、懐かしさも、少しずつ全部混じっていた。


風はくすくすと笑うように、空気をかすかに震わせる。


「時間なんてさ、流れてるようで、実はたいして進んでないもんだよ。きみの中に僕がいたなら、ずっと一緒にいたのと同じだろ?」


その言い方は、昔と少しも変わっていなかった。


理屈めいているようで、理屈からいちばん遠いところへ立っている言葉。子どものころのトレインには半分も分からなくて、それでも不思議と納得だけはできてしまう、あの風の話し方だった。


「……変わらないな。昔と」


トレインが小さく言うと、風は気負いのない声音で答える。


「変わらないさ。僕は“風”だからな。変わらないまま、いろんな場所を吹き抜けて、きみのいる場所に戻ってくるだけ」


その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかへ固く結ばれていたものが、ゆるやかにほどけた気がした。


子どものころ、心が折れそうになった日があった。誰にも言えなかった不安を抱え、何かが決定的に足りない気がして、村のはずれの断崖へひとりで座り込んだ日があった。あのときトレインは、空を見上げながら何時間も風へ話しかけていた。母を失った痛みも、父の沈黙も、自分だけが取り残されているような寂しさも、空へ行きたいと願うことの理由が自分でもうまく説明できないもどかしさも、全部を風へこぼしていた。返事をもらえたのかどうか、今となっては曖昧だ。けれど、聞いてもらえていたという感覚だけはずっと残っていた。


「なあ……聞いてくれるか。俺、ずっと――」


トレインがそう言いかけたところで、風はやさしく言葉を重ねる。


「わかってるよ。僕は“風”だろ? ずっと聞いてたさ。言葉じゃないところから」


その声音には、形がない。


耳へ届いているはずなのに、どこか胸の内側から響いているみたいでもある。明確な発音や高さがあるわけではないのに、懐かしさ、安心、再会のよろこび、そしてほんの少しの寂しさだけは、はっきりと伝わってきた。


トレインは目を細め、断崖の先へ視線を向ける。


夕暮れ色に染まった世界は、子どものころとほとんど変わらない。西の空は赤く、遠くの山々は柔らかな影になり、眼下の渓谷には風が流れて草の穂先を細かく震わせている。この場所だけ、時が足を止めて待っていてくれたみたいだった。


「世界が変わっていってもさ、お前は、ここにいてくれるのか?」


それは昔なら口にしなかった問いだった。子どもは傍にいてくれるものへ「いなくならないか」とはあまり聞かない。失うことを知った人間だけが、その形の問いを持つ。


風は短く、けれど確かな響きで答えた。


「“ここ”ってのは場所じゃないんだ。きみが何を大切にしてるか、その“中心”に、僕はいつも吹いてるよ」


その言葉が胸へ触れたとき、トレインは一瞬、息をするのを忘れた。


風は彼が見失いそうになっていた“原点”そのものだったのだと、ようやく言葉になった気がした。空へ憧れた理由。風へ耳を澄ませることをやめなかった理由。知らない世界へ向かうことを怖れながらも、それでも足を止められなかった理由。それらすべての出発点には、いつも風がいた。進むべき道を見失いかけても、立ち止まっても、傷ついても、風だけは消えなかった。


「なあ……次に進むには、俺、なにを……」


迷いを言葉へするより先に、風がそっと割って入る。


「大丈夫。まだ全部は話さないけど、もうすぐ“空の鍵”が答えてくれる」


その一言には、未来を知っている者の断定があった。


「でもまずは、その心のままで、風を信じて――飛べばいいさ」


その瞬間、止まっていたはずの風が、ふたたび動き始めた。


ゆるやかに、しかし確かに。


断崖の先から吹き上がってきた風が、トレインの背を押す。強くはない。けれど、ためらいをやさしく前へ変えるには十分な強さだった。


「さあ、トレイン。話の続きを始めようか」


雨音にも似た、やわらかなさざめきが耳を掠めていく。


それは遠い昔の砂粒をひとつひとつ拾い集めていくような、静かな旋律だった。トレインは無意識のうちに、昔そうしたように断崖の草へ腰を下ろしていた。座った瞬間、草の匂いと土のぬくもりが身体へ染み込み、いま自分がどれほど遠い場所からどれほど長い回り道をしてここへ戻ってきたのかを、ようやく実感する。


「聞いたことあるかい?」


風がそう言って、少しだけ遠くを見る気配を見せる。


「昔――きみが生まれるよりもずっと前の世界では、今みたいに大陸は分かれていなかった。たったひとつの、大きな大陸だったんだ」


トレインは、静かにうなずいた。


村の古い伝承や、ダリオンが酒の勢いでぽつりと漏らした昔話の中に、世界は昔もっと違う形だったらしい、という気配だけは確かにあった。けれどそれはどれも断片で、神話とも歴史ともつかない曖昧な語られ方しかされていなかった。


風は続ける。


その声はまるで誰かの夢を語るような、遠い時間の響きをまとっていた。


「海もなかった。山々も、まだ寝息を立てていて、空はひとつの光に包まれていた。空と大地と、時間さえも、まだ分かたれていなかった。すべてが繋がっていて……何もかもが“同じ場所”にあった」


その描写はあまりにも壮大で、トレインの頭の中ではうまく形になっていかない。海のない世界。分かたれていない空。時間さえ繋がったままの大地。それは地図では表せない世界だった。けれど風の語りは絵や図ではなく、“感覚”としてその光景を彼の中へ落としていく。境界のない明るさ。どこからどこまでが空で、どこからどこまでが大地か、わざわざ定義する必要のないひとつづきの広がり。そこには、たしかに争いも孤独も“まだ名前を持っていない”静けさがある。


「それが、世界がまだ“壊されて”いなかったころの話なんだ」


風の声は懐かしむようでもあり、失われたものをなぞるようでもあった。


「神々でさえも、まだ輪郭を持っていなかった。存在そのものが歌みたいに空へ流れていて、誰かが“神”と呼ぶより先に、ただ在るものとして在ったんだよ」


トレインは、言葉もなく空を仰ぐ。


目の前の夕空には、子どものころ見上げた星の並びが薄く浮かんでいる。けれどその位置は、昔とどこか違って見えた。空が変わったのではない。自分の見方が変わったのかもしれない。あるいは風がいま語っている遠い昔の“ひとつの空”の残響が、現在の空へ重なって見えているのかもしれなかった。


「でも……変わってしまったんだ」


風の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「“在り方”ってものが、生まれたせいでね」


トレインは眉を寄せる。


「在り方?」


「うん。形が定まれば、境界ができる。名前がつけば、ほかと違うものになる。誰かが“自分”を持とうとした瞬間に、世界はひとつでいられなくなった。心が、時間が、空までもが、分かれはじめた」


風の語るその理は難しいのに、不思議と胸のどこかでは理解できた。


名前を持つということは、自分と他者を分けることでもある。好きと嫌い、ほしいといらない、自分とお前、過去と未来、空と大地。そうした区別は、世界を理解するために必要である一方、世界をひとつでいられなくする始まりでもあるのだと。


その囁きはかすれた詩のようにやわらかく、断崖に立つトレインの耳元を静かにすり抜けた。


「時が、はじめて“逆らい”を覚えた瞬間があったんだ。ほんの小さな裂け目だった。……誰かの心が、未来を恐れた。誰かの想いが、過去を拒んだ。ほんのひとひらの、ひとの願いが、“永遠”を不安定にした」


その言葉に、トレインの胸へ、クロノ・レイヤーの崩壊が重なる。


裂けた天蓋。崩れていく記録。終わりを拒むように立ち上がった竜。世界が壊れるのは、いつだって巨大な憎しみや暴力だけが原因ではないのかもしれない。ほんの小さな“こうであってほしい”という願いが、永遠のような秩序へ初めて抗ったとき、世界は分かれ始めるのだ。


空が、わずかに曇りはじめる。


それは実際に雲が湧いたというより、風の語る記憶へ呼応して、景色そのものがその古い痛みを映したようだった。


「やがて、その裂け目は“問い”になった」


風の声が静かに続く。


「世界はなぜ、ただひとつでなければならないのか。なぜ、すべてがひとつで在り続けなければならないのか。……その問いが、世界そのものを引き裂いたんだ」


トレインは息を呑む。


問いが、世界を引き裂く。


その発想は恐ろしくもあり、同時に、どこか救いの匂いも持っていた。問いとは壊すだけのものではない。新しい道を生むためにも必要なものだ。けれどひとつだった世界にとって最初の問いは、やはり痛みだったのだろう。


「答えはなかった」


風は言う。


「けれど、応じるものたちがいた。意思を宿す“記録の光”たち――それぞれの理を抱く十二の神格が、地上に降りた」


その瞬間、断崖の上を吹き抜ける風が、十二の異なる気配を帯びたようにトレインには感じられた。冷たい風。熱を孕む風。乾いた風。湿り気を含む風。高みから降りる風。地の底から這い上がる風。どれも同じ風でありながら、決して同じではない。


「彼らは世界の断面を分かち、自らの“座”を持った」


風の声は語りというより、目に見えない古い年代記を読み上げるようだった。


「そうして、世界は十二に分かたれた。それは断絶じゃない。ただ、“可能性”としての分岐。すべてが重なっていて、けれど決して交わらない、十二の層――それが《神座界層オーディナル・アストレイア》と呼ばれる、今の世界の本質だよ」


《神座界層》。


その名を聞いた瞬間、トレインの内側で、これまで断片としてしか存在していなかった数々の知識が、薄く繋がった気がした。十二の大陸。神核技術。互いに異なる風土と理を持ちながら、それでもひとつの世界として曖昧に接している各地。あれらは単なる地理的分断ではなかったのだ。それぞれが“世界の別解”として重なりながら、かろうじて接触を避けて存在している層なのだ。


「けれどね、トレイン」


風が小さく息を吐く。断崖の草が、ほろりと揺れる。


「分かたれたままの世界は、やがて“自分が正しい”と叫び始める。それぞれの神座が、それぞれの理で、他を否定しはじめる。そうして少しずつ、少しずつ、かつての『ひとつ』は遠のいていく」


その言葉は、ひどく今の世界に似ていた。


帝国ヨルムンガンド。風の大陸ヴェントゥス。神核を掲げる各地の文明。自由を尊ぶ者と、支配を秩序と呼ぶ者。どれも自分たちの理を“正しい”と信じている。分かたれた世界が長く続けば、境界はいつしか真実になる。そこから先は、隣り合う可能性同士が争うほかなくなるのかもしれない。


空の色が、青から紫へ、そしてかすかな銀へと滲んでいく。


時間帯の変化というより、風の語りが景色へ染み込んで色彩を変えているようだった。


「……それでもね、忘れられてはいなかったんだよ」


風がふと、ひどく懐かしむように言う。


「世界が、まだ“ひとつ”だったころのことを」


その声には、郷愁にも似た震えがあった。


時間の襞をなぞるように、やさしく、切実に。


「君が立っていた“滅びの塔”――あの場所はね、分かたれる前の“座標”を、今もなお宿しているんだ。世界がまだ、風も、空も、命も、すべてが一続きだった頃の、“原初の中心点”……」


断崖の上を吹き抜ける風が、唐突に遠い記憶の気配を帯びる。


トレインの脳裏へ、崩れゆく時計塔の光景が重なった。天を縫いとめるように立っていた巨塔。内部へ眠るクロノ・レイヤー。裂けた天蓋。あれは単なる古代遺跡ではなかったのだ。


「塔が建てられたのは、最初の分岐よりも、もっと以前。何もかもが名を持つ前。理も、争いも、誕生していなかった時代。それは“重なり”が生きていた時代。すべての意思が、すべての魂が、ひとつの流れに在った」


トレインは、目を閉じて想像しようとする。


世界がひとつだった時代。


空も大地も時間も分かれておらず、誰かの夢がそのまま空へ織り込まれていた時代。


そこに建てられた塔。


いや、風の言い方からすれば、建てられたという表現すら適切ではないのかもしれない。


「塔はね、地上の“固定点”じゃない」


風が静かに告げる。


「あれはむしろ、“世界という織物”の中心で、最初に織られた結び目だった」


その一言で、トレインははっとした。


結び目。


それなら、あの塔が空と地を縫い合わせるように存在していた理由も、内部に“記憶の層”を抱えていた理由も、崩壊がただの滅びでは終わらなかった理由も、すべて一本の線へ繋がる。結び目とは終わりではない。ほどけることもあれば、そこから新しく編み直すこともできる場所だ。


「だからこそ、世界が分かたれた後も、塔は揺れながら、ただそこに在り続けた。――それを“滅び”と呼んだのは、誰かが“続き”を拒んだからだ」


その言葉は、妙にやわらかかった。


滅びという響きの中にある冷たさや断絶ではなく、“本当は続くはずだったものが、いったん閉じられてしまっただけ”という含みがある。滅びの塔という名もまた、誰かの解釈に過ぎないのだと、風は言っているのかもしれなかった。


「塔の内部、君たちが見た《クロノ・レイヤー》は、記憶の層と夢の継ぎ目」


風の声は、さらに深いところへ降りていく。


「それはかつて、すべてが一続きだったことの“証明”だった。重なった記録。重なった空。重なった時の名残。……あれこそが、本来の“在り方”だったのかもしれない」


トレインは思い出す。


草原の向こうで、次元竜が天を引き裂いた瞬間を。崩れゆく塔の光景と、そこに渦巻いていた“何かを取り戻そうとする声”を。空が裂けていたのではない。記憶の層が目覚め、閉ざされていた結び目が、ふたたび開こうとしていたのだとしたら――あの崩壊もまた、終わりではなく“再開”だったのかもしれない。


「ねえ、トレイン」


風がふと近づく。頬を撫でる感触が、少しだけ強くなる。


「君が見た崩壊はね、滅びなんかじゃない。あれは、“記憶が目覚めた音”なんだ」


その言葉に、トレインの胸の奥で何かが強く打った。


「世界が、もう一度、自分の始まりを思い出そうとしている音。……そして君も、その中心にいる。風の流れの、最初の座標の、真上に」


断崖の上の空が、ゆっくり波打つ。


遠いどこかで、裂けた天蓋の光がまた瞬き、崩れる塔の影が、夕暮れの景色へ重なりはじめる。


風は、さらに静かに囁く。


「だから、君が歩いた道は、決して“失われたもの”じゃない。君が立っていた塔は、まだ消えてなどいないよ。むしろ、あそこから……“再び世界を編み直す力”が生まれはじめている」


その一言は、重く、あたたかかった。


再び世界を編み直す力。


それが何を意味するのか、トレインにはまだすべては分からない。十二に分かたれた世界を元へ戻すことなのか。あるいは、ひとつへ戻すのではなく、新しい繋がり方を見つけることなのか。クロノ・レイヤーの崩壊が、そのために必要な“目覚め”なのだとしたら、グライアや帝国が奪おうとしていたものは、ただの古代技術などでは済まない。世界そのものの座標を縫い直す権能に関わる何かだ。


「……おれが、その中心にいるって……どういうことなんだ」


トレインは、ようやく絞り出すように問う。


風は、すぐには答えなかった。


答えを選んでいるというより、まだ今は全部を渡せないのだと、そんな気配があった。草のあいだを抜けるさざめきが少しだけ長く続き、断崖の先で渓谷を渡る風がひと筋、深く鳴る。


「きみはね、昔から“聞いていた”んだよ」


やがて風はそう言った。


「人より少しだけ深く、風の中に混じる記録を。空の奥に残っている、まだ言葉になる前の震えを。だから、きみは呼ばれた」


呼ばれた。


その言葉に、幼いころの記憶がまた重なる。断崖の上で感じた“どこにでもいるやつ”の気配。風の中で誰かが笑っていた気がした日々。空の向こうから届いた、まだ名を持たない声。


「きみが風を愛していたからじゃない。もちろんそれも本当だけど、それだけじゃない。……風のほうが、きみに残っていたんだ。昔、世界がまだ重なっていたころの“聞き方”が」


トレインは、息を呑む。


自分が特別だと思ったことは、正直ほとんどなかった。空に惹かれる気持ちはあった。風を聞く訓練も、人より熱心にやってきた自負はある。けれどそれは努力と憧れの結果でしかないと思っていた。今、風はそれとは少し違うことを言っている。もっと古く、もっと彼自身の意志より前から、自分の中へ残されていた何かがあるのだと。


「……おれは、何者なんだ」


問いは半分、自分に向けたものだった。


風はくすりと笑う気配を見せる。


「それを急いで決めなくていい。きみはきみだよ。トレイン・フェザーネット。アストリアの断崖で空を見上げてた、風に名を呼ばれるのを待ってた子ども。そこは何も変わってない」


その答えは肩透かしのようでもあり、同時にひどく救いでもあった。


大きな運命や、古い力や、原初の座標。そうした言葉がいくら積み重なっても、自分が“トレイン”であることまで失うわけではない。風はそこを先に確かめてくれているのだと分かった。


「……なら、どうすればいい?」


今度の問いには、迷いよりも決意が混じっていた。


風は、少しだけ強く吹いた。


断崖の草が揺れ、遠くの風車がぎい、と長く鳴る。


「戻るんだよ」


その声はやわらかいのに、迷いがなかった。


「崩れていく塔へ。裂けた天蓋の下へ。記憶が目覚めようとしている、その場所へ。きみはそこで、見届けるだけじゃなく、選ばなきゃいけない。何を守るのか、どんな世界を編み直したいのかを」


トレインは、ゆっくり立ち上がる。


夕暮れの断崖の景色が、もう薄く透けはじめていた。草原の端には、白銀の裂け目が混じり、遠い山の稜線には時計塔の崩壊する影が重なっている。この場所は記憶であり、避難所ではなく、原点を思い出すための“間”なのだ。長く留まる場所ではない。


風が最後に、そっと言う。


「大丈夫。きみが本当に聞くべき声は、もうすぐ自分から名を名乗る。空の鍵は、開かれたばかりだ」


トレインは断崖の先を見つめたまま、小さく頷く。


胸の中にはまだ不安も恐れもある。けれどそれらを押し流してしまうほど強い確信も、今は確かにあった。滅びの塔は終わりではない。クロノ・レイヤーの崩壊は無意味な喪失ではない。世界は壊れながら、自分の始まりを思い出そうとしている。その中心へ、自分はもう一度戻らなければならない。


風が、背中を押した。


今度の風は、幼い日へ寄り添ってくれたやさしさだけではない。前へ行けと告げる鋭さも持っていた。優しく、それでいて容赦なく、立ち止まるなと告げる風だった。


断崖の景色が、光へほどけていく。


赤い空も、草原も、祠も、古い風車も、すべてがひと筋の風へ溶けていく。最後まで残ったのは、頬へ触れる懐かしいぬくもりと、胸の中で鳴り続ける、まだ名を持たない始まりの鼓動だけだった。


トレインは目を閉じる。


そして、風の吹く方へ一歩、踏み出した。


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