第十一話 風の街を歩く午後
浮遊艇が、ゆっくりと降下を始めた。
高空を駆け抜けていたあの鋭い速度はいまや静かな余韻へ変わり、試験艇の腹を支える風の圧も荒々しく噛みつくものではなく、掌のように穏やかなものへ戻っている。まるで空そのものが激しい試練を終えた挑戦者をようやく腕の中から解き放ち、そっと地上へ返そうとしているみたいだった。トレインは操縦桿へ添えた手の感触を確かめながら、機体の高度が少しずつ下がっていくのを感じていた。耳の奥ではまだ空の牙の咆哮が薄く残響している。けれど実際に頬を撫でている風は驚くほどやさしく、先ほどまでの熾烈な空域が本当に同じ世界の中にあったのかと疑いたくなるほど穏やかだった。
浮遊試験空域のランディングポートが、少しずつ近づいてくる。
白銀のプラットフォームが幾重にも重なり、その外周には減速用の風見帆が緩やかに角度を変えながら帰還してくる試験艇を導いていた。観測塔の上には記録用の風晶板が並び、淡い光を帯びた標識が着陸順を示している。高所に張られた風鈴群は乱流帯の中で聞いた荒々しい響きとはまるで違う静かな音色を奏で、ひとつひとつの挑戦を迎え入れているように見えた。トレインは高度を落としながら、ふと背後を振り返った。
薄い雲をひとつ抜けたところで、ようやく視界の奥にそれが見える。
遥か彼方、空の果てで、まだかすかに揺らめいているスカイファングの影。渦巻いていた大気はすでに静まりはじめており、遠目には巨大な白い傷跡のようにも、風が一度だけ爪を立てた痕のようにも見える。さっきまであの中にいた。あれに呑まれかけ、押し返され、なお抜けてきた。その事実が、遅れて胸の奥へじんわり熱を広げていった。
――あそこを越えたんだ。
声にはしなかった。けれどその思いは言葉より確かに体の中へ沁み込んでくる。自分が何かを成し遂げたのだという手応えは、激しい歓喜としてではなくむしろ静かな熱としてやってくるらしかった。握った手の中にはまだ操縦桿の感触が残り、腕と肩には渦の中で耐えた負荷が鈍い痛みとなって残っている。そのすべてが夢ではない証拠だった。
軽くブレーキをかける。
試験艇の鼻先が上を向き、推進がなだらかに削られていく。着地用の気流が機体の下へ柔らかく入り込み、浮力と重さの境目をちょうどよい場所へ保ってくれる。トレインは呼吸をひとつ整え、最後の数メートルだけ慎重に高度を落とした。
浮遊艇は、地上のプラットフォームへふわりと降り立った。
着地そのものは驚くほど穏やかだった。硬い衝撃はなく、ほんのわずかに膝へ重みが戻ってくるだけで、機体は白銀の床面へ滑るように触れた。柔らかな着地。それでも足裏の奥にはまだ微かな震えと緊張が残っている。空の上で張りつめていた感覚が地面へ戻ってきたからといってすぐ解けるわけではないのだと、トレインはその小さな震えから知った。
機体が完全に停止すると、彼は深く息を吐き、ハンドルからそっと手を離した。
指先にはじんとした痺れが残っていた。そこまで強く握りしめていたつもりはなかったのに、身体は気づかないうちに目いっぱい力を込めていたのだろう。トレインは腰を浮かせ、試験艇から降りる。足が地面へ触れた途端、いつもなら当たり前のはずの「立つ」という感覚が、妙に重く、妙に頼もしく感じられた。空の上では自分の身体の重さは常に風と機体へ分散されていた。いまはそのすべてが足裏へ戻ってきている。地面は動かない。揺れない。その確かさが、逆に少し不思議だった。
彼はその場で立ち止まり、空へ向かって深く一礼した。
ありがとう。
そんな言葉が、自然に胸の中へ湧いてくる。誰かに言うための感謝ではない。声に出したら急に軽くなってしまいそうで、むしろ口にしたくない類の思いだった。あの牙の中を通してくれた空へ。道を示してくれた風へ。見上げるだけではなく、触れ、聴き、越えることを許してくれた高みへ。礼はごく短く、けれど心の中では驚くほど長く続いていた。
すでに何人かの挑戦者たちが先に着陸していた。
プラットフォームのあちらこちらで、それぞれの帰還がそれぞれの形で受け止められている。ある者は着地と同時に拳を突き上げ、息を切らしながらも晴れやかな顔で空を見上げていた。別の者は膝から崩れるように座り込み、耐えていたものが一気にほどけたのか、そのまま地面へ手をついて泣き出している。感情を大きく表に出さず、ただ静かに空を見つめている者もいた。そのどれもが瑞々しく、痛いほどまっすぐで、そして美しかった。結果が出る前の段階であっても、彼らは確かに何かを越えてここへ戻ってきたのだ。空の上で剥き出しになった恐れや願いが、着地の仕方ひとつにそのまま滲んでいるように見えた。
トレインが歩みを進めると、ひときわ目立つ赤い髪が視界へ飛び込んできた。
ミリアだ。
彼女はすでに着陸を終えていたらしく、試験艇から降りたまま腕を組み、周囲の様子を眺めていた。赤髪は風を受けて炎の舌みたいに揺れ、口元にはいつもの勝気な笑みが浮かんでいる。こちらへ気づくと、彼女は鼻を鳴らしながらにやりと笑った。
「やるじゃん、田舎モン」
声音にはあの受付前での軽口と同じ響きがある。けれど、その奥には少しだけ温度があった。からかうだけではない。空の中で実際に走りを見た者だけが持つ、認める気配がそこにはあった。
トレインも肩をすくめて笑う。
「そっちこそな。最後、速かったぞ」
ミリアは得意げに顎を上げた。
「当然。あたしは空の申し子だからな」
その言い方があまりにも堂々としていたせいで、トレインは思わず声を立てて笑ってしまった。無理に作った笑いではない。胸の奥にこわばっていた何かが、その瞬間ふっと緩んだのだ。空の牙の中にいたときは、他人を見る余裕なんてほとんどなかった。それでもあの赤い髪が幾度か視界の端をよぎったことを思い出す。彼女もまた本気でこの空に挑み、本気で越えてきた一人なのだ。
ミリアも釣られるように少しだけ笑う。
「でも、あんた。最後の渦で突っ切ってたろ」
「見えてたのか」
「見えるよ。あれは普通、もっと外を回る。あそこから入る奴は頭がおかしいか、風に好かれてるか、そのどっちかだ」
「ひどい言い方だな」
「褒めてんの」
そう返されると、悪い気はしなかった。むしろ空の上で同じものを見た者同士にしか通じない言葉のようで、少し嬉しかった。
彼らの周囲にも、続々と挑戦者たちが集まってくる。
誰もが埃や霧の粒をまとい、髪も服も風に乱され、疲れたような顔をしている。そのくせどこか涼しげな表情を浮かべている者が多かった。疲労に打ち勝ったというより、空へ全力を出し尽くしたあとにしか訪れない透明な静けさが顔に残っているのだろう。結果がどうであれ、同じ空を越えた者たち。互いの存在が、言葉や仕草より先に温かさを運んでいた。ここにいる誰もが、それぞれ違う生き方と違う癖を抱えながら、あの乱れた高空を本気で走り抜けてきた。その事実だけで、すでに一種の連帯のようなものが生まれている。
やがて、ランディングポートの端に設置された浮遊掲示板へ淡い光がともった。
大きな半透明の板が空中へ浮かび、その表面に数字と記号が浮かび上がっていく。風晶板の中を流れる青白い光が整列し、通過者の番号を順に示しているらしい。ざわめきが一気に集まり、挑戦者たちは自然とそちらへ視線を向けた。トレインも息を詰めるようにして、自分の識別番号を探す。
七四二。
その数字が、確かにそこにあった。
同時に彼の手首へ装着された識別リングが、淡く青く光る。
――試験、第一関門突破。
胸の奥に、小さな火が灯った。
派手な爆発のような歓喜ではない。もっと静かな、けれど確かな火だ。まだほんの小さな火種に過ぎない。それでも空に認められたという感覚と、公式に「通過した」という事実とが重なった瞬間、その火はたしかな温度を持って彼の中心で燃え始めた。
これはまだ始まりにすぎない。
風裂祭はここからさらに厳しい試練を用意しているだろう。空域を走り抜けたからといって、スカイランナーへ近づく道のりが急に短くなったわけではない。知識も、判断も、度胸も、これからまだいくらでも試される。けれど今この瞬間だけは、自分が確かにこの空へ受け入れられたのだと胸を張れる気がしていた。
(さあ……次だ)
ハンドルの感触がまだ残る手を握りしめながら、トレインは静かに歩き出した。
空を見上げ、そしてそっと視線を下ろす。
空だけを見ていれば足を取られる。ダリオンはよくそう言った。空へ憧れる者ほど、足元を忘れるな、と。いま、その言葉の意味がまた少し違う形で分かる。高みを見上げながらも、自分が立っている現在を見失わないこと。おそらく、それが空に生きる者の第一歩なのだ。
ランディングポートを抜けた先の広場には、試験を終えた者たちの安堵と興奮が溢れていた。
観覧席から下りてきた者たち、参加者の仲間や家族、結果を確認しようとする整備員や記録官たちが入り混じり、そこには祭典らしい熱気が渦巻いている。屋台の呼び声まで少し高くなり、風に揺れる旗や布の色もどこか鮮やかに見えた。興奮した声が上がるたび、風鈴の音がその合間へ滑り込み、騒がしさを不思議とひとつの調べへ整えている。風の都らしい雑踏だった。
その中で、トレインは見慣れた姿を見つけた。
柔らかな赤栗色の髪。
風にそよぐ薄手のストール。
そして、こちらへ気づいた途端、ぱっと笑顔を咲かせた少女。
「トレイン!」
リリムだった。
彼女は両手を大きく振りながら、人波をすり抜けてこちらへ駆け寄ってくる。足取りは軽いのに、その勢いにはどうにも隠しきれない焦りと高揚が混じっていて、見ているこっちが少しおかしくなるほどだった。トレインは一瞬だけ足を止める。胸の奥へ、ほっとするような温もりが広がった。
リリムの存在は、彼にとって癒やしだった。
飛び終えたばかりの緊張と興奮を拭う、何気ない日常の息遣い。空の牙の中で凍りつくほど集中していた感覚へ、ふいに故郷の風が吹き込んでくるみたいな感触だった。凝り切った全身の筋肉を、見えない手がやわらかく解きほぐしていくようでもある。
「お疲れさま! すごかったよ、下から見てた!」
駆け寄ってきたリリムは、少し肩で息をしていた。たぶん、彼を見つけた瞬間に抑えきれず走り出したのだろう。整った呼吸を取り戻すより先に、目をきらきらさせながらトレインを見上げている。
「……来てたのかよ」
驚き半分、呆れ半分でそう言うと、リリムは悪びれずに笑う。
「ごめんごめん。行くって言ったら変に気を使わせるでしょ?」
「……別にそんなことはないけど」
「嘘ばっか。前に話したとき、すっごい嫌そうな顔してたくせに」
「そうだっけ?」
「そうだよ。『見に来なくていい』みたいな顔してた」
「それは……その」
言い返そうとして言葉に詰まる。確かに、試験を見られることに少しだけ気恥ずかしさがあった。失敗したら格好がつかないし、妙に意識してしまう気もした。そんな本音を正直に言えるわけもなく、トレインは曖昧に眉をひそめるしかない。
リリムはそれを見て、くすっと笑った。
「まあ、別にいいんだけどさ」
その言い方が軽いのに、どこかやさしかった。責める気配はない。ただ、本当に来たかったから来たのだと、それだけが伝わってくる。
どうやらダリオンに頼み込んで、こっそり会場へ来ていたらしい。試験が始まる前に観覧席へ入り、下からずっと見守っていたのだろう。“スカイランナーになる”という夢の第一歩を踏み出そうとする幼馴染の姿は、彼女にとっても特別な時間だったに違いない。
トレインは後頭部をかきながら、照れくさそうに視線を逸らした。
「まあでも……ありがとな」
その声は、わずかに掠れていた。飛行の疲れだけではない。どう反応していいか分からないまま、それでも嬉しいことだけは隠しきれない、そんな声だった。
リリムは目を細めた。
「うん。ちゃんと聞こえた」
「なにが」
「いまの“ありがとな”」
「別に、そこ強調しなくていいだろ……」
顔が熱くなりそうで、トレインはわざと咳払いをした。リリムはますます面白そうに笑う。その笑い声が、不思議なほど心地よかった。
「このあと時間、少し空くでしょ? お昼はどうするの?」
「昼? ……あー、考えてなかったな」
試験を越えることしか頭になく、そこから先のことはまるで考えていなかった。言われてみれば、空の牙を越えてからこっち、まともに腹が空いたという感覚さえ遅れてきている気がする。
「じゃあせっかくだから、少し街を歩かない?」
リリムはそう言って、柔らかく手を差し出してきた。
唐突なようでいて、どこか自然だった。その手は何かを強く求める形ではなく、「一緒に行こうよ」と風に混ぜて言うような軽い誘い方をしている。トレインは一瞬だけその掌を見つめ、それから黙って手を取った。
ふたりは賑わう広場を抜け、ゆっくりと街を歩き始めた。
スカイタウンは、どこを歩いても風が通り抜けていた。
高い白壁に幾何学模様の窓。くるくると回る風車塔。頭上を行き交う小型浮遊艇と、そこから零れる短い挨拶の声。舞い散る風花は、どこかの空中庭園から流れてきたものだろうか。細かな花弁が陽光を含んでひらめき、石畳の上へひとひらずつ落ちていく。舗道には風を讃える詩句が刻まれ、通りの分岐には空の方角を指す小さな銅像が立っていた。その像は旅人か、詩人か、あるいは風の神の子らを模したものかもしれない。肩へ小さな翼が彫られ、視線はみな、それぞれ別の空域を指し示している。
リリムは、それを見つけるたびに足を止めた。
「これ、エアリアの子供たちの像なんだって」
そう言って、楽しそうに説明する。観光案内の書板でも見たのか、あるいはダリオンから話を聞いてきたのか、彼女は細かなことをよく知っていた。
「昔、風の神エアリアが空へ散らした息が、小さな精霊みたいに形を持ったっていう伝承があるでしょ。その名残を、この街では“子供たち”って呼ぶらしいの。風向きを示すだけじゃなくて、迷った旅人に道を教えるんだって」
「……へえ」
トレインは像を見上げる。銅の表面は長年風に磨かれて柔らかい艶を帯びていた。装飾品というより、この街で生きる人々にとって本当に身近な案内人なのかもしれない。
どこまでも続く石畳の道には、風詩の断片がさりげなく刻まれていた。
「風に生まれ、空に誓い、言葉は雲に託される」
そんな一節が、苔むした路面の端へ小さく彫られている。踏みしめようと思えばいくらでもできる場所に、それでも消えずに残り続けている文字。トレインは足を止めてその詩句をしばらく眺めたあと、ぽつりと呟いた。
「……風が言葉を運ぶって、ほんとなんだな」
「でしょ?」
リリムは嬉しそうに笑う。
「この街、全部が“風を聴くため”に作られてるって知ってた?」
トレインは顔を上げた。広場の端に立つ風見塔。その上には銀の羽根飾りと小さな風鈴がいくつも下がっていて、風向きが変わるたび異なる音を返している。建物の屋根の勾配も、窓の開き方も、路地の曲がり方も、ただ美しいだけではなく、風を招き、受け、響かせるために考え抜かれているように見えた。
「風の塔、風の鐘、風の像。街そのものが、大きな風見機になってるの」
「……ふーん」
トレインは素っ気ない返事をしてみせる。けれどその目は、さっきよりもずっと熱心に街を見ていた。リリムは振り返らなかった。ただ、口元だけが少し緩んだのが分かった。
白銀の舗道は午後の傾いた光を受けて淡い金色に染まり、高い塔の影が長く地面を撫でていく。風の市場からは香ばしい焼き菓子や、炒った種子、異国のスパイスの匂いが流れてきた。行商人たちが軒を連ねる路地では、浮遊花の花弁がそっと舞い、小さな楽団が奏でる風楽器 《ウィンド・ラルゴ》の音が微かに響いている。管の中を通る風の流れそのものを旋律に変えるその楽器は、普通の笛とも弦とも違う、透明でやわらかな音を持っていた。
広場から少し離れると、白い石畳が緩やかなカーブを描き、左右には風の意匠をあしらった家々が並ぶ。壁は淡いクリーム色に塗られ、窓には小さな風車が取りつけられていた。回るたび、カラカラと小気味よい音が立つ。その音は生活の一部としてあまりにも自然で、ここでは風と共に暮らすことが特別なことではなく、ただ当たり前の日常なのだと静かに物語っていた。
街角の屋台で、行商人が浮遊果実を売っていた。
淡いピンク色の果実は小ぶりな鈴のような形をしていて、籠の上でふわりと浮かび、風に揺れながら甘い香りを放っている。触れると表面の色がわずかに変わるらしく、子どもたちがきゃあきゃあと笑いながら指でつついていた。リリムは足を止め、興味深そうにその様子を眺める。
「ねえ、見て。あれ、触ると味が変わるんだって」
トレインも立ち止まり、にやりと笑った。
「どうせまた、甘いのがいいって言うんだろ」
「当然でしょ!」
「酸っぱいのも悪くないぞ」
「それはトレインの舌がおかしいだけ」
軽口を交わしながら、ふたりはまた歩き出す。試験が終わったあとの体には、こういう他愛ない会話が思った以上に沁みた。気を張り詰めていた時間が長かったせいか、ふつうに笑っただけで、胸のあたりが少し痛いくらいにほどけていく。
スカイタウンの小道は、風の通り道を意識して設計されている。
だからどこを歩いても、心地よいそよぎが必ず肌を撫でていく。建物と建物のあいだの隙間も、坂道の勾配も、広場から枝分かれする道の角度も、ただ人が歩きやすいだけでなく、空気が淀まず、街全体へ新しい風が巡るよう工夫されているのだろう。小さなカフェのテラス席では浮遊楽器の奏者たちが集まり、透き通った音色を風へ乗せていた。椅子の脚には床から少し浮くような仕掛けが施され、揺れはするのに不思議と安定している。客たちはその軽い浮遊感を楽しみながら、茶や菓子を手に会話を弾ませていた。
風が、歌っていた。
街そのものが、呼吸していた。
ふたりは緩やかな坂道を上っていく。石畳は日差しを受けて温かく、足裏へ伝わる感触もやさしい。上り坂の途中には天幕を張った小さな売店が並び、旅用の風避けマントや、空中航路用の簡易地図、風詩を書きつける細い羽根筆などが売られていた。リリムは気になった品があるたびにちょこちょこ立ち止まり、トレインはその少し後ろで待ちながら、たまに茶々を入れる。そうしているうちに、空域走破試験の緊張と熱は、ゆっくりと別の温度へ変わっていった。
天幕のあいだを抜けると、空へ続く細い階段へ出た。
その先には、天空回廊 《スカイアーケード》と呼ばれる高架の通路があった。半透明の床材で作られたアーチ状の橋が、街の中心部を高く横断している。橋の表面は風晶ガラスと魔力樹脂を重ねたものらしく、足を乗せても怖いほど透けすぎず、それでいて下の景色がやわらかく見える程度には透明だった。欄干には銀糸のような風圧帯が張られ、強く身を乗り出しても簡単には外へ押し出されない構造になっている。
トレインは、思わず息を呑んだ。
眼下には、無数の漂流島がゆったりと漂っている。
中には浮遊農場があり、段々に切られた畑が風の向きに合わせて薄く色を変えていた。別の島には聖堂のような建物があり、尖塔の上の風見羽が金色の光を受けて静かに回っている。島と島のあいだを縫うように小型の浮遊艇が行き交い、白い航跡を空へ細く刻んでいた。見下ろすにはあまりに広く、見上げるにはあまりに近い、不思議な距離感の世界だった。
太陽は少しずつ傾き、街の頭上を斜めから照らしている。空の彼方まで続いていく水平線は、地上で見るものよりずっと高く、どこか円を描くような柔らかい曲線を持っていた。金色の光が街を、島を、空を、すべて同じ温度で包み込んでいく。さっきまで試験の舞台だった空が、いまはひどく優しい。
リリムが、小さく囁いた。
「ねえ、トレイン……空って、近いようで、やっぱり遠いね」
その言葉は、ふいに胸の奥へ沁みた。トレインは隣へ並びながら、視線を遠い水平線へ向ける。
「でも、手を伸ばせば、少しは届く気がする」
それは強がりではなかった。さっきまでの試験で、彼はほんの少しだけその感触を得ていた。届いたと断言するにはまだ早い。けれど、ただ遠いだけの存在ではなくなったことだけは確かだった。
ふたりは軽やかな足音を響かせながら、風の橋を渡る。
下には雲と空の海が広がっていた。床の透ける感覚に慣れていない者なら足がすくんでもおかしくない高さだ。橋の中央を過ぎたあたりで、リリムがふと訊ねた。
「怖くない?」
「……あんまり」
トレインはそう答えた。
「昔なら、たぶん足すくんでたけどな」
本当にそう思う。幼いころの自分なら、この高さに興奮しつつも、足元の透明さに何度も立ち止まっていたはずだ。いまは違う。怖さが消えたわけではない。空の深さも落ちれば終わりだという感覚も、ちゃんと理解している。そのうえで、歩ける。立てる。それが、自分が少し変わった証のように思えた。
風が流れる。
リリムの髪がふわりと舞う。
橋の先には小さな円形の広場があった。中央に噴水があり、その周囲を低い石の縁が囲っている。縁の部分には小さな風鈴が等間隔に吊られていて、風が吹くたび一斉に鳴る仕組みらしかった。広場の周囲には背の低い白い柱が立ち、どれにも空を讃える古い詩が刻まれている。人通りは少なく、街の喧噪から一歩だけ離れた場所だった。
ふたりはその中心に立ち、目の前へ広がる雲の海をしばらく眺めた。
足元の噴水はごく静かに水を湧かせ、その表面には見慣れた「空」が映っている。雲ひとつない、澄んだ青。その上へ、ふわりと、二人の影も揺れていた。現実の空と、水面の空と、そのあいだに立つ自分たち。そんな重なり方が妙にきれいで、トレインはしばらく何も言えなかった。
やがて、リリムが小さく口を開く。
「ねえ、覚えてる? アストリアの断崖で、ふたりで風を聴いた日」
「……覚えてるよ」
忘れるはずがない。夕方の少し前、断崖の草が長く揺れていて、リリムは地面へ座り込んで目を閉じ、何も話さずしばらく風の音を聴いていた。トレインは退屈して石を投げたり、雲の形に勝手な名前をつけたりしていたけれど、最後には一緒に黙った。そのとき吹いていた風の冷たさや、遠くの島の影まで、不思議といま思い出せる。
「あの時、あたし――この空を、怖いって思ったの」
リリムは噴水の水面を見つめたまま言った。
「近くにあるのに、全然触れられないし、綺麗なのに、簡単に人を落とすし、優しい時と、すごく冷たい時の差が大きすぎて。なんか、好きって言うには遠すぎるものに見えてた」
トレインは黙って聞く。
「けど、今はちょっと違う。なんていうのかな……ずっと身近な存在になったっていうか。遠いようで、近い。手で触れないけど、……あったかい。たぶん、そんな感じ」
その言葉を聞きながら、トレインは彼女の横顔を見ていた。風を見ることにかけては誰より鋭いはずのリリムが、こうして言葉を探しながら話しているのが少し珍しかった。うまく説明しきれないものを、無理に飾らずにそのまま差し出してくるところが、いかにも彼女らしいとも思う。
彼は試験の緊張が、ようやく本当に解けていくのを感じていた。
空の牙を越え、通過の光を見て、結果を確認したあとでも、身体のどこかはずっと戦いの余熱を抱えていたのだろう。いまはそれがリリムの声や、広場を抜ける風や噴水の水音の中で、少しずつほぐれていく。穏やかな時間だけが、二人の間をやわらかく撫でていった。
広場の端にある小さな噴水の水面には、見慣れた空が映っていた。
アストリアから見上げる空と、スカイタウンで触れる空と、そのどちらとも少し違う、水の中の空。静かな青の上へ、風がひと撫でするたび、そこに映る世界もまた揺れる。トレインはその揺らぎを見ながら、今日ここで自分の中に起きた変化をどう言葉にすればいいのか考えた。まだ、うまく言えない。けれど、見上げていた頃には知らなかった重みと優しさを、いまは知っている。そのことだけははっきりしていた。
リリムが、小さく囁いた。
「……トレイン、まだ早いのかもしんないけど、ひとまずおめでとう」
その声は飾り気がなく、まっすぐだった。大きく祝うでもなく、軽く済ませるでもなく、本当に大事なものをそっと差し出すような言い方だった。
トレインはゆっくり頷く。
まだ、道は遠い。
風裂祭の試練は、これからますます厳しくなるだろう。今日の通過は通過でしかなく、喜びに浸っているだけではすぐ置いていかれる。それは分かっている。けれど今日だけは。今だけは。この小さな奇跡を、胸に抱いていてもいい気がした。
「ありがとう、リリム」
彼がそう言うと、風がまた、ふわりと吹き抜けた。
広場の縁に吊られた風鈴が一斉に鳴る。高く澄んだその音は祝福のようでもあり、もっと先へ進めと背を押す合図のようでもあった。リリムは少しだけ目を細め、トレインは空を見上げる。柔らかな時間だけが、二人の間にそっと流れていた。
そしてその静かな午後の中で、トレインは自分が本当に一歩を踏み出したのだと、ようやく穏やかに実感し始めていた。見上げることしかできなかった空へ、今日、自分はたしかに触れた。風はそのことを知っている。空も、おそらく知っている。だからこそ、この街のすべてが、いまは少しだけ前より親しく見えるのかもしれなかった。
彼の旅は、まだ始まったばかりだった。




