朝から恋人の話をしながらベーコンを盗むな!
翌朝、公爵家の食堂には、真冬のような冷気と焼きたての香ばしいパンの匂いが混在していました。
ギルベルトは一睡もできていませんでした。
「冷血公」としてのプライドが、昨夜の屈辱――というか、完全なるスルーを許さなかったのです。彼は朝食の席で、エルゼが席に着くのを待ち構えていました。
「……おはよう、エルゼ。昨夜はよく眠れたようだな?」
ギルベルトは極上の冷笑を浮かべ、ナイフを硬めのベーコンに突き刺しました。しかし、現れたエルゼは、驚くほどスッキリとした顔で着席します。
「おはようございます、閣下! はい、おかげさまで。あんなに寝心地の良いベッドは初めてです。実家のベッドは藁が半分混じっていましたから、まるで雲の上で寝ているような気分でした!」
「……そうか。だが、忘れてはいないだろうな。君は私に『恋人』がいると言った。隠れて不貞を働くことは許されないぞ」
「もちろんです! 彼とは文通だけで我慢すると決めていますから。あ、このオムレツ、ふわふわですね! 閣下、一口いかがですか?」
「いらん。……それより、その男は誰だ。国境の警備隊と言っていたな」
ギルベルトは、さりげなさを装いながら尋ねました。彼の中の「軍人としての情報収集癖」が、得体の知れないライバルの存在を特定せよと命じていたのです。
「はい! マックスという名前なんです。熊を素手で倒したこともある、村の英雄なんですよ。閣下のような洗練された美形ではありませんが、笑顔が太陽みたいに眩しくて……ああ、今頃彼は、私のいない村で寂しくプロテインでも飲んでいるのかしら……」
「……プロテイン?」
「ええ、筋肉を育てる魔法の粉です。あ、閣下、そのベーコン食べないなら頂いてもいいですか? 育ち盛りなもので」
エルゼは、ギルベルトが怒りで震えさせている皿の上のベーコンを、ヒョイと自分の皿へ移しました。
「……君は、公爵夫人としての自覚が足りないのではないか? 夫である私を差し置いて、初日の朝から別の男の筋肉の話を……」
「えっ? でも閣下、『お前を愛するつもりはない』っておっしゃいましたよね? 愛していない女が誰の筋肉を褒めようが、閣下の高貴なプライドには傷がつかないはずでは……? あ、このパン、おかわりお願いします!」
エルゼは爽やかな笑顔で、控えていた執事にバスケットを差し出しました。
「…………」
ギルベルトは絶句しました。
論理的、あまりにも論理的。ぐうの音も出ない正論です。
冷酷に突き放したはずの自分が、なぜか今、浮気を疑う嫉妬深い夫のような惨めな気分に陥っている。
「閣下、顔色が悪いですよ? もしかして、夜更かしされました? 私はぐっすりだったので、今日はこれからお庭の散策に行ってきますね! 閣下はお仕事頑張ってください!」
「……待て、エルゼ。私はまだ――」
「あ、そうだ。マックスへの手紙、公爵家の公用便で出してもいいですか? ……ダメですか。公私混同ですもんね。自分で切手買います! では、失礼します!」
エルゼは嵐のように朝食を平らげると、優雅に、しかし音速で食堂を後にしました。
残されたのは、完璧に磨き上げられた銀食器と、自分の皿からベーコンが消えていることに今さら気づいた、孤独な公爵だけでした。
「……おい、執事。今すぐ国境警備隊の『マックス』という男を調べろ。それと、プロテインとやらも至急取り寄せろ」
「……畏まりました、閣下」
こうして、冷血公による「愛するつもりない妻」への、全く無自覚な空回り追跡劇が幕を開けたのでした。




