「愛さない」と言われて、安心しました!
ロウソクの炎が揺らめく、重厚な装飾に囲まれた公爵家の主寝室。そこには、今しがた政略結婚の誓いを終えたばかりの二人が立っていました。
「冷血公」の異名を持ち、氷のような美貌を誇るギルベルト公爵は、手袋を脱ぎ捨てながら、氷点下の眼差しを新妻に向けます。
「……いいか、エルゼ。あらかじめ言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
それは、数多の令嬢を絶望させてきた残酷な宣告。
ギルベルトは、新妻がショックで顔を伏せるか、あるいは縋り付いてくるのを待っていました。
しかし。
「――あ、本当ですか!? よかったぁぁぁ……!」
エルゼは絶望するどころか、天を仰いで深く安堵の吐息をもらしたのです。
「……何?」
「いえ、実はこちらも、どう切り出そうか胃が痛かったんです。閣下のようなお忙しい方が、私のような地味な女に構う暇なんてないですよね。安心しました!」
エルゼは、絹の夜着の裾を翻してベッドへ歩み寄ると、驚くほど手慣れた動作でシーツの感触を確かめ始めました。
「おい、待て。私が言ったのは、これは白い結婚で……夫婦としての情愛は一切持たないということだ。この寝室に来るのも、今日が最初で最後――」
「願ったり叶ったりです! 実は私、国境警備隊に幼馴染の恋人がいまして。この結婚が決まった時、二人で『体は売っても心は売らない』って涙ながらに誓い合ったんです。閣下が愛してくださらないなら、私の貞操も守られます! ありがとうございます、公爵閣下!」
「……こいびと?」
ギルベルトの眉間に、かつてないほど深い皺が刻まれました。
目の前の女は、今、この国の最高権力者の一人である自分に向かって「別の男がいる」と堂々と言い放ったのか?
「ええ! とっても素敵な人なんですよ。筋肉がすごくて。あ、閣下も騎士団長ですものね、筋肉は負けてないかもしれませんけど。でも彼は、閣下みたいにそんな怖い顔で睨んだりしませんから」
「……」
「というわけで、合意は済みましたね。私は左側で寝ます。あ、この枕、最高ですね。さすが公爵家!」
エルゼはもぞもぞと掛け布団に潜り込むと、一瞬で芋虫のような形になりました。
「ちょっと待て、エルゼ。話はまだ終わって――」
「閣下、夜更かしは美容の大敵ですよ? 明日は朝からお披露目の挨拶回りがあるって執事さんが言ってました。五分で寝ないと間に合いません。あ、消灯お願いしまーす!」
「……私に命じるのか? この私に、明かりを消せと?」
「あ、届きませんか? よいしょ」
エルゼは布団からむくっと起き上がると、ギルベルトが口を挟む隙も与えず、枕元のランプを「フッ!」と勢いよく吹き消しました。
一瞬で静寂と闇に包まれる寝室。
「…………」
暗闇の中、ギルベルトは立ち尽くしました。
自分が冷酷に突き放し、彼女が泣き崩れる。そんな「予定調和」のシナリオは、開始数分でゴミ箱に放り込まれました。
「……おい。エルゼ。起きろ」
返事はありません。
聞こえてくるのは、あまりにも規則正しく、あまりにも健やかな、新妻の寝息だけ。
「スヤァ……」
戦場では冷静沈着を貫いてきたギルベルトでしたが、この夜ばかりは自分の立ち位置を見失い、月明かりの下で呆然とする羽目になったのでした。




