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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

私が悪魔に堕とされるまで ※一方、世界には滅びの隕石群が落ちる

作者: 緑名紺
掲載日:2025/10/13

 


「――その時に思ったのです。この天空に神なんていない。こんな世界、終わってしまったほうがいい、と。天空神も、あの男も、絶対に許せません!」


 慣れない飲酒でふわふわ体を揺らし、ふにゃふにゃになった呂律のまま、私は自分の身に降りかかった悲劇について語っていました。


 とても他人様には聞かせられないような恥ずべき内容。仮にも貴族の子女として育っておきながら、なんたる醜態でしょう。

 それでも口を滑らせてしまったのは酔っていたということもあるし、聞き手が常に耳心地の良い相槌を打ってくれたから……。


「大丈夫、きみは何も悪くない。崇高なる我らの邪神はきみを歓迎するよ」


 この世のものとは思えぬような華美な美貌を持つ男性は、優しい微笑みを浮かべてボトルを傾けました。

 空になっていた私のグラスにまた赤ワインが注がれていきます。


 きっと相手が紳士であれば、もう飲まないように止めてくれるのでしょう。

 だけど彼にそのような良識を期待するのは筋違いというもの。

 人の不幸話を聞いて微笑んでいる時点で、紳士とは言い難いのですから。


「…………」


 お酒のせいだけじゃない。

 生物としての本能的な恐怖が私から冷静さを奪っていました。


「さぁ、フィア。続きを聞かせて? もっときみのことが知りたい」


 愚かにも再びグラスを手に取った私に対し、目の前の美しい悪魔はくすりと笑いました。


    ◇


 全てが狂い始めたのは今から四年前。

 当時十四歳の私は、凡人なりに幸せな人生を歩んでいたと思います。

 とある平和な王国の貴族の一人娘として生まれ、十分な教養を身に着ける機会を得て、優秀な婚約者との縁に恵まれ、何一つ不自由のない生活を送っていました。


 病床の祖父から遺言を聞き、その遺産を受け継ぐまでは。


『フィアンメッタ、私のかわいい孫娘。お前にだけは知っておいてほしい。人類はもうすぐ滅亡する』


 祖父は天文学者でした。

 独自の望遠魔術と観測技術によって、約十年後、この星に隕石群が衝突することに気づいてしまったのです。

 隕石は腐食属性の魔力を帯びており、衝突すれば瞬く間に空と大地と海を汚染するとのことでした。


 祖父の死後、隠されていた研究資料を読んで、私は途方に暮れました。

 とても信じられない。

 こんな未来、信じたくない!


 だから私は祖父と同じ手順を踏んで、真実を確かめました。

 すなわち望遠魔術を習得し、天文学についてなりふり構わず学び、恐ろしい腐食の隕石群の観測を試みたのです。


 ……結果は、私にさらなる絶望をもたらしました。

 私では祖父ほど正確な結果を出すことはできませんでしたが、隕石群の到来が真実だということだけは確認できました。


『このまま何もしなければ、人類を含めた脆弱な生命体は全て死滅する。だが、邪神様の封印を解き放つことができれば、あるいは――』


 祖父は私に生き残る道を示していました。

 子どもでも知っているこの星の創世神話です。

 古代、強力な毒によって人類を支配していた邪悪な神――六枚翅をもつ妖精女神(ティターシャイン)

 かの邪神は、天空神によって翅を燃やされましたが、蛹に戻って討伐を回避。そのまま地中深くに封印されました。


 天空神様の教えに背き、悪しき行いをすれば地の底から女神に誘惑され、人ならざる者へ変えられてしまう。

 邪神を信仰する者が増えれば、いつか力を取り戻し、その封印は解けるだろう。

 ……そんな言い伝えが世界各地に残っています。


 受け継いだ祖父の遺産の中には、有名な秘密結社〈妖精幻翅〉の会員証がありました。

 神話の時代から世界の裏側で暗躍しているという謎の組織。

 有名な秘密結社、という言葉は自己矛盾を起こしていますが、それ以外に言いようがありません。


 曰く、

 妖精女神を信仰してその復活を目論んでいるらしい。

 世界各地で陰謀を企て、悪逆の限りを尽くしているらしい。

 邪神より寵愛を賜った凶悪な人ならざる者たちが所属しているらしい。


 世界中の国々が条約を結び、結社の構成員を捕らえんとしているのもまた有名な話。

 まさか祖父が悪の秘密結社に所属していたなんて……ショックでした。


「おじい様は、私に人間をやめろと……?」


 そう、祖父が示した隕石群から生き残る方法は、邪神の力で人間を超越した存在になることでした。

 まともな発想ではありません。

 封印から解き放たれた妖精女神が、信者を隕石群から守ってくれると本気で信じているのでしょうか。

 どちらにせよ邪神の封印が解かれれば、ほとんどの人類は猛毒によって支配されるでしょう。


 私は信じない。

 信じるべきは、天空神様です。


 人類文明が発展にするにつれ、いくつか宗教が生まれましたが、全ての原点は天空教。

 もちろん私も敬虔な天空神徒です。


 邪神の力に頼らずとも、きっと天空神様が隕石群から我々を守ってくれる。

 ……もしも守ってもらえなかったのなら、それまでのこと。

 家族や友人、愛しい人たちとともに潔く死を受け入れよう。みんな一緒なら怖くない。


 苦渋の選択の末、私は祖父の研究資料を見なかったことにしました。

 誰も訪れないだろう領地の森の洞窟に、研究資料と秘密結社の会員証を埋めて隠しました。

 朽ちてなくなるのならそれでもいい、と言わんばかりに乱暴に。


「ごめんなさい、おじい様……」


 大きな後ろめたさを抱えながら、絶望の未来に蓋をしました。

 だけど、見えていなかったのは目の前にある現実の方だったのかもしれません。


    ◇


「さようなら、フィアンメッタ。すまなかった」


 私の未来の夫となるはずの青年は、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をして去っていきました。

 他に好きな女性ができたそうです。

 彼の説得に応じて、私はお互いの合意による婚約解消という形でお別れしました。

 ……揉めたくなかったから。


 それで終わったならば少し泣くだけで済みましたが、彼は未来の婿養子という立場を利用して、我が家からありとあらゆるものを奪っていきました。

 彼は実直な人柄で大きな野心を隠していたのです。


 あっという間の没落でした。

 身に覚えのない不当な契約や起こるはずのない事故の賠償によって、我が家は土地と財産を失い、信頼の失墜とともにやがて爵位までも返還することになったのです。

 誰も助けてはくれませんでした。


 身内以外にこのような工作ができるのは、父の仕事をすでに手伝っていた元婚約者の彼しかいない……。


 貴族家の次男だった彼が独立して事業を始めたと聞きました。

 その資金は一体どこから?

 事業の提携先に我が家の債権者の名が連なっていたのはなぜ?

 縁を切られた友人から、最後に彼がありもしない我が家の醜聞を語っていたとも聞きました。そうやって我が家を周囲から孤立させたと思うのは考えすぎでしょうか。


 ……彼を告発することはできませんでした。

 私たちを陥れたという決定的な証拠は見つからず、彼の優秀さを最悪の形で思い知らされることになったのです。


 遠縁の援助によって、私たちは小さな家を貸し与えてもらいました。

 しかし生活はままなりません。

 父はお酒に溺れ、母は心を患い、紹介された商店で私一人が働いても十分に両親を養うことは難しく……。


 二人は毎日のように私を責めました。

 私に女としての魅力がなかったがために彼に愛想を尽かされ、裏切られ、このような破滅を迎える羽目になったのだ、と。


 ……そうなのかもしれません。

 私は祖父の遺産の信憑性を確かめるために、たくさんの時間を使いました。

 彼からの誘いを断ったことも一度や二度ではありません。

 そして、滅びの未来を両親や彼に告げようか、国や教会に危険を訴えようか、毎日毎日悩み続けていたのです。

 きっとひどい顔をしていたでしょう。

 同年代の女の子がキラキラと輝くような青春を送っていた時期に、暗い研究室で人類の滅亡の未来について考えて葛藤していたのですから。

 彼が私から不吉なものを感じ取っていても不思議ではありません。


 もしも私が魅力的な女性であれば、こんなことにはならなかったのでしょうか。

 婚約解消の申し出を素直に承諾しなければ、両親に本当のことを話していれば、祖父の遺言を信じて秘密結社とつながりを持っていれば、もしかしたら……。


 全部、私のせい……。

 徐々に、慣れない労働と自責の念から私の心身も蝕まれていきました。


 降り注ぐ不幸はまだ止まらず。

 やがて遠縁からの援助がなくなり、私の給金が酒と薬代に消え、明日食べるものにも困るようになると、父は惨めな暮らしに癇癪を起こして心臓麻痺で急死し、後を追うように母も川に身を……。


 一人ぼっちになって呆然とする私のもとに、父の友人を名乗る男が訪ねてきて、下卑た顔で借金の返済を迫ってきました。そんな話知りませんでした。

 両親の葬儀にすらまともにお金を使えなかったのです。払えるものなど何もありません。

 返済を待ってくれるように頼むと、ならばと男は私を「夜の街に売る」と言い出しました。

 その前に味見すると手を伸ばされ――。


「っ!」


 どこにそんな力が残っていたのか、私は手あたり次第に酒瓶を投げつけて威嚇し、とっさにその場から逃げだしました。


 どうしてこんなことに……。

 何も分からないまま走り続け、気づけば見知らぬ町をさまよっていました。


 そこでとどめです。

 天空教の教会を見つけ、助けを請おうとした私は、信じられないものを見ました。

 新進気鋭の青年実業家と大司祭様の愛娘の結婚式が、盛大に執り行われていたのです。


「まぁ、なんてお似合いなのかしら!」

「新しい時代を感じる光景だな……」

「若い二人に天空神のご加護があらんことを!」


 元婚約者の彼が、神官の美しい娘と天空神の像の前で誓いの口づけを交わしているのを、呆然と眺めました。

 最上の幸せを噛みしめるような笑顔が目に焼きついて離れない。


「――――っ!」


 私は声を上げることもできず、その場からも逃げだしました。


 気持ち悪い。

 もう吐き出すものなんてないのに、ずっと吐き気が止まりません。


 治安の悪い路地を通り過ぎる時に、ごみ箱をあさる浮浪者の男の舌打ちが聞こえました。


「世の中クソだな。神なんていねぇ……」


 ああ、本当にそう。

 心の底から共感する。


 私は熱心な天空教徒で、その教えを遵守してきました。

 清く正しく善行を積み重ねて生きれば必ず幸せになれる。

 天空神様はいつでも地上を見守っていてくれる。

 そう信じて生きてきたのに!


 私は素晴らしい人間ではなかったかもしれないけれど、少なくともこのような不幸に見舞われるほど悪いことをした覚えもありません。

 父と母もそう。遠い記憶にある二人は貴族にしては善良で、実の娘を詰ったことなんて一度もなかった。


 なのに、私たちから全てを奪ったあの男が天罰も受けず幸せそうに笑っていた!

 こんな世界間違ってる!!!


 何日もかけてかつての領地を目指し、祖父の研究資料を隠した洞窟へ。


『生きなさい、フィアンメッタ。私が許す。魂を邪神に明け渡してでも、何を犠牲にしてでも、お前だけは生きて幸せに――』


 祖父と最期に交わした言葉。

 それが私に残されたたった一つの希望であり、免罪符でした。


「はい、おじい様。必ず生き残って見せます。どんなことをしても……」


 天空神なんていない。

 いたとしても無能。

 私は金輪際そんな神を信じない。

 天空神を信じる全ての者が滅びの隕石を浴びるのを、笑いながら見てやるんだ!


    ◇


 絶望と憎しみに生かされながら、私は決意していました。

 これからは合理的に、利己的に思考して行動しましょう。

 心は捨てます。

 悩んで立ち止まっていたら、あっという間に隕石群が降る日が来てしまいますから。

 目的は生き残ること、それだけです。


 祖父が遺した秘密結社の会員証は、手の平に収まるサイズの白い円形の石でできていました。

 表面に何かコーティングしてあるようで虹色の光沢があります。

 もしかしたら妖精女神の鱗粉なのかもしれません。


 古代の貨幣を模していて、中央には六枚の妖精の翅のエンブレムが彫られています。

 特殊な魔力回路が組み込まれているらしく、祖父に聞いていた通りの手順で魔力を流せば、組織の人間とコンタクトできました。


 私は祖父からの紹介という形で結社の構成員となることを希望しましたが、すんなりと受け入れられるはずもなく、入社試験なるものを課せられました。

 当然と言えば当然です。

 スパイを警戒しているでしょうし、生半端な覚悟の者が組織内部に入っても不利益を生むだけ。いえ、犯罪組織のことなんてよく分かりませんが。


 私は邪神の復活を助ける見返りとして、隕石群から命を守る術を与えてもらいたいと考えています。

 ただ邪神を崇める信者になって尽くすだけでは、保護してもらえないかもしれません。

 きちんと働いて、結社の役に立たなければ!


 〈妖精幻翅〉の組織力はすさまじいものでした。

 隣国に私の住まいと偽物の身分が用意され、あっという間に生活環境が整えられたのです。

 資金とツテと、それから何を持っていれば、このようなことが可能なのでしょう。


 私は怯みつつも、気合を入れて入社試験に臨みました。

 何か一つのことに熱中することで、過去の後悔から目を背けたかったのかもしれません。


 試験の内容は多岐にわたりました。


 送られてきた数冊の分厚い本から、指示書に記された必要な情報を抜粋してまとめる。

 機密文書を誰にも気づかれず指定された場所に置いてくる。

 とある喫茶店に通って従業員の関係性を探る。

 その他にも魔術の解析、暗号文の読解、記憶力テスト、マナーテスト、学力テスト、体力テストなどなど……。


 いろいろな能力を試されたように思います。

 そして忙しなく一か月ほど過ごした今日、最終試験が行われ、私はついに犯罪行為に手を染めました。


「…………っ」


 カバンの中には、この町の美術館に収蔵されていた小さな聖杯が入っています。

 結社の人間の協力のもと、客を装った私が偽物とすり替えて持ってきました。

 歴史的な価値も金銭的な価値もあまりない品とのことですが、私は凄まじい罪悪感に襲われていました。


 どうしよう、私、犯罪に向いてない。

 想像していたよりもずっとつらい……。


 まったくもって情けない話ですが、結局私は良心を捨てられずにいました。

 昨今、大陸全土で争いが起こり、どんどん治安が悪くなっているようですが、この町は平和そのもので明るく親切な人が多い印象です。

 健全な社会に戻り、衣食住が整い、まともな判断力を取り戻した今ならば分かります。


 悪の秘密結社に入って、なんの罪もない人々を傷つけるのは良くないことです。

 元婚約者の彼よりも悪党になってしまうのではないでしょうか。


 どうせ犯罪に手を染めるのなら、完璧な計画を立てて元婚約者の男を殺害したほうがいいのでは?


 そのまともではない発想がマシに思えるほど、秘密結社に入ることに疑問を持ってしまいました。


 今日は窃盗でしたが、明日は?

 もしも誰かの生死に直結するような任務を与えられたら……。


 本当に情けない。

 中途半端な覚悟で秘密結社入りを目論んでいた愚か者は私でした。


 ……だけどもう後には引けない。


「合理的に、利己的に……」


 あと数年でほとんどの生命は息絶える。

 私の犯した罪なんて隕石群の前では小さなこと。

 生き残ろうとする行為は生物としての本能で、人類が全滅するのをただ待つよりもずっと合理的。

 これは生存競争。利己を優先するのは当然のこと――。


「いらっしゃいませ」

「えっと、あの……待ち合わせです。“花がよく見える席"をお願いします」


 盗品の入ったカバンを抱え、指定された地下のバーへ。

 指示されていた通りの合言葉を告げると、店主は私を奥の席へと案内してくれました。

 薄いカーテンが降ろされた半個室のような席で、薔薇を活けた花瓶が飾られています。

 入り口の近くには他の客がいましたが、このバーは結社の息がかかっているらしいので会話を聞かれても問題ないのでしょう。


 席に着くや否や、大きく深呼吸して項垂れます。

 とりあえず無事に指定の場所にたどり着けました。

 いえ、気を緩めるのはまだ早いですね。

 ただでさえお酒を扱う店に入るのは初めてだったのに、さらに緊張する予定がありました。


 もうすぐこの場に秘密結社の上役がやってきます。

 聖杯の受け渡しを兼ねて、私の入社試験の結果を伝えに来るとのことでした。


 ……怖い。

 よく考えてみると、不合格になったらどうなるのでしょう。

 邪神信者として組織外部の協力者になるんだと漠然と思っていましたが、こうして犯罪にまでかかわった者を自由に生活させてくれるのでしょうか。

 売られたり、生贄にされたり、あるいは今夜このまま消されるなんてこともあり得るのでは?


「……だいじょうぶ」


 悪い考えを振り切るように、私は必死に首を横に振りました。


 大丈夫!

 絶対に生き残る。そのことだけを考えましょう!


 震える手を押さえつけて待っていると、やがてカーテンが揺れました。


「待たせてごめんね、お嬢さん」

「…………」


 この時の衝撃を表す的確な言葉は生涯思いつかないでしょう。

 現われた男性は、大変美しい顔立ちをしていました。

 柔らかな金髪は毛先に近づくにつれ赤色にグラデーションしていて、澄んだ碧い瞳は不思議な光を宿しているように見えます。

 こういう神秘的な色を持つ方は、強い魔力を持っているとか。

 

 目が合っただけで全てが止まってしまいそうでした。

 時間も、呼吸も、心臓も……。

 全身に寒気が走ります。


 年齢は二十代前半くらいでしょうか。

 背が高く、均整の取れた体つきをしていて、とても派手な身なりです。

 一目で高級だと分かるスーツやアクセサリーですが、絶対にまともな職業についていないということも分かってしまうコーディネートでした。

 黒を基調とした装いなのに、どうしてこうも華やかで眩しい印象を受けるのでしょう。


 いつも私に指示を出していた組織の上役とは別の方です。

 完全に油断していました。


 え、というか本当に秘密結社の人間ですか?

 こんなに目立つ男性が?

 世界の裏側で暗躍する組織だと聞いていたのに?

 もしかしたら席を間違えて案内されたのではないでしょうか。


「初めまして、フィアンメッタ。ふふ、本名そのままは良くないかな。とりあえず今夜はフィアと呼んでもいい?」


 間違っていませんでした!

 彼は私の向かいの席に座ると、テーブルに片手で頬杖をついてにこやかに微笑みました。

 仕草や表情の一つ一つに見惚れてしまいます。

 まるで神が生み出した至高の芸術作品のよう。

 オーデコロンでしょうか、ほのかにシトラス系の良い香りが……。


「フィア?」

「はいっ」

「緊張しているみたいだね。それとも驚いているだけかな?」


 両方です、と私はもごもごと答えて目を逸らしました。

 恥ずかしい。

 ただでさえ家族や親族、元婚約者の彼以外、まともに異性と接してこなかったのに……。

 こんなの耐えられません。自意識が暴走してしまいそう。


 私が五百年生きたとしても、これほど麗しい男性に出会うことは二度とないでしょう。

 ものすごく色っぽくてミステリアスな雰囲気がありながら、笑顔はチャーミングで破壊力があります。

 彼の微笑み一つで人が死んでもおかしくない……。


 心臓が生き急いで嫌な音を立てる中、店主がワインボトルと二つのグラス、サイドディッシュを運んできました。

 ごゆっくりどうぞ、と恭しく礼をして去っていきましたが、気のせいでなければ店主の手も震えていたような……。


「さぁ、フィア。試験お疲れ様。まずはきみの頑張りを称えて乾杯しようか」

「え、えっと、そんな……」

「はい、乾杯」


 私が硬直している間に、グラスが音を立てて離れていきました。

 薄暗いせいかやけにワインが赤黒く見えます。


「美味しいよ?」

「あ、はい。いただきますっ」


 震えを全く隠せていない手つきで、私はなんとかワインをこぼさずに一口飲むことができました。


「…………」


 一応故郷の国では成人しているものの、ほとんどお酒を飲む機会はありませんでした。

 父のこともあって苦手意識が強く、正直に申し上げてアルコールの類には抵抗があります。

 しかしこの赤ワインは口当たりがよくて飲みやすく、芳醇な香りが少しだけ私を落ち着けてくれました。

 勇気が欲しくてさらにもう一口飲み干します。

 美味しい、けど……飲酒に慣れていない私には度数が……。


「ごめんね。普通の女の子には刺激が強いだろうから、もしかしたらつらい思いをさせているかもしれない」

「え? えっと……」

「ワインのことじゃないよ。俺の魔力というか、性質? これでも抑えているんだけど、たまに正気を保っていられなくなる人間もいるから」


 彼は耳心地の良い声でおどけるように述べました。


「改めて自己紹介をしよう。俺の名前はベルナエル。〈妖精幻翅〉の六枚翅の一枚。自分で言うのは恥ずかしいんだけど、人間たちには“夜明けの悪魔”と呼ばれている……聞いたことあるかな?」


 全部聞いたことがあります。

 六枚翅というのは妖精女神の象徴であり、秘密結社の最高幹部六名を差す言葉です。

 そして“夜明けの悪魔・ベルナエル”は、歴史的大罪人として国際指名手配されている悪魔の名前……。

 数百年前から存在する伝説の悪魔です。


「フィアが緊張しているのは俺の魔力のせいだと思うよ。慣れれば落ち着くと思うから、安心してね」


 呆然とする私ににこりと笑いかけてから、彼――ベルナエル様は美しい指でサイドディッシュのクラッカーを口に運びました。


「…………」


 初対面の男性にいきなり有名な悪魔だと名乗られたら普通は信じられないでしょうが、ベルナエル様が結社に所属しているという噂はありましたし、目の前にある圧倒的な存在感や浮世離れした美貌から真実なのだとすんなりと受け入れらました。

 今となっては普通の人間だと名乗られた方が違和感を覚えるでしょう。


 本物の悪魔……!

 私は急激に喉の渇きを覚え、また一口ワインを飲みました。


「びっくりした?」

「はい……」

「じゃあ驚かせてしまったお詫びに、きみの疑問に答えてあげよう。なんでもどうぞ」


 まるで何度も顔を合わせたことのある親しい間柄のような距離感に、私は混乱しつつも率直な疑問を述べました。


「どうして今夜、こちらに……? いつもこうなのですか?」

「んー? 最終面談に毎回最高幹部が来るわけじゃないよ。フィアの場合は少し珍しかったから。貴族出身のお嬢様が単身でってなかなかないよ。おじいさんの紹介らしいけど、普通は先祖代々とか、父親が代表者として窓口になっていたりする。……それにきみは“星が落ちる”ことを知っているから特別対応になった」


 これは最終面談だったのか、とさらに肝を冷やしつつも、私は“星”のことを聞いて納得しました。

 かつて祖父も所属していたので、結社が隕石群の到来を知っているのは分かっていましたが、もしかしたら構成員全員が人類滅亡の危機について知っているわけではないのかもしれません。

 最初から隕石群のことを知っている私は、少し珍しいのでしょうか……。


「あとはタイミング。最近このエリアを新しく担当することになって移動してきた関係で、今は部下たちがバタバタしていてね。一番暇なのが俺だったんだ。ほら、ボスは引っ越しの荷ほどきなんてしないでしょ?」

「えっと、そうなのですね……?」


 さりげなくベルナエル様は私のグラスにワインを注ぎ足してくれました。


「本当にタイミングが良かった。フィアがかわいくて聡明な女の子だと聞いて、会えるのを楽しみにしていたんだ。試験結果も予想よりずっと良くて驚いた。途中でリタイアする人間も多いんだよ? 知らない土地で慣れない暮らしをしながら、面倒で辛いことも多かったろうに、よく最後まで頑張ったね。えらいよ」

「…………」


 突然怒涛の勢いで褒められて、私はうまく返答ができませんでした。

 ああ、やっぱり恥ずかしい!

 男性にも賞賛にも慣れていないことが丸分かりではありませんか。

 決して! 決してベルナエル様の言葉を額面通りに受け取っているわけではありません!

 どう反応したらいいか分からないだけです。


「さぁ、好きなだけ飲んで食べて。フィアはたくさん頑張ったんだから、今夜はいい思いをしないといけない」


 薦められるまま再びグラスに口をつけ、お酒の力を借りて己の自意識を封じ込めようと私は必死になりました。


「いえ、そんな、私なんて全然です……」

「この場では謙遜しなくていいんだよ」

「ですが――」

「フィアのこれまでのこと、改めて教えてくれるかな? きみに興味があるんだ。ね?」


 なんだか頭がふわふわしてきました……。

 お酒と彼の言葉に酔わされて、もう正常な判断ができません。


 こうして私は彼に問われるままに、自分の身に起こったことを語り始めました。


    ◆


 フィアに聞かせた言葉に嘘は一つもないけれど、俺は本当のことを一つ話していなかった。

 今夜は彼女が結社に入社するに足る人物かどうかの最終面談。

 ……と同時に、間諜(スパイ)の適性があるかどうかを確かめる試験でもあった。


 そう遠くない未来に滅亡の危機が待ち受けている今、情報は最も重要なもの。

 若くて美しい女が結社入りを希望しているとなれば、できれば間諜にしたいというのが現総裁の方針だった。


 控えめな物腰とおとなしい性格に隠れてしまいそうだけど、フィアは人間にしてはなかなか美しい顔立ちをしている。

 しっとりとした艶のある灰色の髪に少し青みのある滑らかな白い肌、憂いを帯びたラズベリーピンクの瞳。

 十八歳という年齢とはアンバランスな退廃的な空気を纏っている。

 夜が似合う女は良い。つい秘密を共有したくなる。


 そのうえ学者の家系の貴族令嬢として育ち、魔術の知識と社交界のマナーも十分に身に着けていて品もあるのだから、訓練次第でどんな男だって手玉に取れるだろう。

 素材だけならば、彼女は諜報部員にうってつけの人材だ。


 別に、任務の度に体を使って情報を取ってこいなんて言わない。そういう任務はそういうことを楽しめる女性が務めている。

 フィアのような子に任せたいのは、国王の愛人や貴族の妻として社交界に潜り込む長期の任務だ。

 組織のバックアップを受けつつ、上流階級の男のもとで良い暮らしをしたらいい。ある程度なら相手を選ばせてあげられる。


「その、婚約者だった人がやったことを考えると……まるで結婚詐欺、みたいな」

「そうだね。入籍していなくとも結婚詐欺といって差し支えないと思うよ。ひどい男だね」


 俺の言葉に勇気をもらったのか、彼女は真っ赤な顔で頷いた。


「そうですよねっ。結婚詐欺師! ろくでなし!」


 ダメだな、フィアは間諜には向かない。

 酒に弱すぎる。

 その上、酔うと口が軽くなって己の身の上を簡単に語ってしまうなんて最悪だ。


 ……まぁ、俺と目を合わせた時の反応から「ちょっと無理そうだな」とは感じていた。


 間諜に適性のある女性だったら、俺の気配に怯えつつもしっかりと媚びた視線を送ってくる。

 秘密結社に入ろうという度胸のある女性ならばある程度は覚悟が決まっているし、成り上がるための最上の餌が目の前に現れたら食いつくものだ。


 比べてフィアは、男に対しての苦手意識がかなり強いようだ。

 男によって不幸のドン底に突き落とされたのだから無理もないか。

 苦手なものと向き合うことを避けるため、酒に逃げてしまっている。

 この様子ではいくら訓練してもハニートラップなんて不可能だろう。


「――その時に思ったのです。この天空に神なんていない。こんな世界、終わってしまったほうがいい、と。天空神も、あの男も、絶対に許せません!」


 可哀想に。

 この世界には悲劇なんてありふれているけれど、フィアはあらゆる不幸を凝縮した四年間を過ごしたらしい。


 フィアの身辺調査の結果には目を通してきた。

 その元婚約者の男はなかなかに悪事の才能がある。素人にしてはうまくやった。

 騙されたフィアの家に隙があったのは確かだが、政略結婚の相手がここまで徹底的に自分たちを破滅させるなんて普通は考えない。

 フィアとその両親は、運が悪かった。


 俺は仕事柄、自らの手で悲劇のシナリオを作って幾度も実行してきた。

 たくさんの人間を不幸にしてきたし、俺がかかわらずともフィアよりもずっと悲惨な目に遭っている人間は山ほどいる。

 だからといって、彼女の不幸が軽んじられるものではない。

 可哀想なものは可哀想だと思う。


「それで、フィアはウチに入って隕石群から生き延びたいんだね。おじいさんの推察通り、その目的は叶うよ。我らの邪神の復活が叶えば」

「……わ、私、仲間に入れてもらえるのでしょうか?」


 自分の身の上を話し終わって少し冷静になったのか、彼女は泣きそうな表情をしていた。


「いいよ。きみは将来有望そうだから。おめでとう」


 実は、彼女の結社入りはほとんど確定していた。

 星が落ちることを知っている人間を組織の外には置いておけない。

 ましてや彼女は祖父の遺産によって、隕石群の観測方法を知っている。まだ何も知らず、平和にのほほんとしている国々にその情報を持ち込まれたら困るんだ。


「ほ、本当ですか? 私、役に立てるでしょうか?」


 さて、彼女の所属はどうしようか。

 間諜には向かない。

 なぜか体力テストは意外なほど好成績だったが、今から優秀な暗殺者や戦闘員になれるとも思えない。

 じゃあ、工作員や運び屋?

 微妙だな。基本的に目立たないよう行動する必要があるのに、貴族然としたこの容姿では受けられる任務が限られてしまう。もったいない。

 となると内勤の事務処理しかない。情報整理の試験は問題なかったし、魔術の適性もあるし、誰も文句は言わないだろう。


 ……でもなぁ、かわいい女の子がいると浮つく奴がいそうで困る。

 つまらない事務仕事なんかさっさと終わらせるに限るのだが、彼女がいることで作業効率が落ちそうだ。


「大丈夫だよ。きみは美しくて聡明で努力家だ。どんなことだって挑戦できるし、今はできないこともいずれはできるようになる。だけど、頑張りすぎちゃだめだよ。自分を責めてこれ以上傷つく必要なんてない。きみは何も悪くないんだから」


 俺がほとんど無意識で紡いでいる言葉に、嘘は一つも含まれていない。

 だけど、薄っぺらいよな。

 所詮人間を下に見ている悪魔の言葉だ。

 それでも自己評価が低くて、何年も罪悪感に苦しみ、酒に酔っている彼女には効果があるだろう。


 フィアはしばらく動かなかった。

 やがて口の前で祈るように指を組み、嗚咽をこらえるように肩を震わせる。


「ごめんなさい、私、誤解していました……優しいんですね。人間よりも優しい。私、全然ダメなのに……嘘だと分かっていても、嬉しいです。嘘でも、そんなことを言ってくれる人はいなかったから」


 初めてまともに目が合って、今度動けなくなったのは俺の方だった。

 彼女の言葉に感動したのではない。

 ただ、見惚れた。


 上目遣いの潤んだ瞳、紅潮した桃色の頬、甘えるような震え声。

 なんて綺麗に泣くんだろう。

 今が、フィアンメッタという人間の人生の中で最も美しい瞬間に違いない。

 本当に奇跡のような一瞬だった。

 ついでにいえば、腕を寄せて胸元が強調されたことによる視線誘導まで完璧。


 俺は口説かれているのか?

 完全に油断していたがゆえに、動揺が大きい。

 それほど強烈なカウンターだった。


 いや、分かっている。これは純然たる天然だ。

 フィアは何も意識していない。

 これほどの境遇に身を置きながら、なんて純粋な魂なのか。

 絶対に悪の秘密結社の構成員には向いてない。


 思わず笑みがこぼれた。無意識に笑ってしまったのは久しぶりのことだ。

 彼女に間諜の適性はなくとも、天性の色仕掛けの才能がある。

 ……俺特効で。


 ああ、本当に可哀想だな。

 悪魔に目を付けられるなんて、不幸以外の何物でもない。

 なんて可哀想でかわいいんだろう。

 絶対に幸せにしてあげる。


「嘘じゃない。フィアはとても魅力的だよ。俺は、もっともっときみのことが知りたい」


    ◇


「うぅ……頭いたい……」


 翌朝、私は目覚めると同時に強烈な頭痛に襲われました。

 ガンガンと頭の中で鳴り響く痛みと戦いながら、ワインをたくさん飲んだことを思い出し、そして――。


「おはよう、フィア。二日酔いかな?」


 カーテンの隙間から差し込む朝日を受けて輝くブロンドの髪。

 絶世の美貌の悪魔に至近距離から顔を覗き込まれ、ショック死するかと思いました。


「ちょっとじっとしていて」

「!?」


 ベルナエル様はこつんと己の額を私のそれにくっつけました。

 私は身じろぎどころか呼吸すらままなりません。

 数秒後、おでこ同士が離れる頃には頭痛が消えていました。


「もう大丈夫」


 いっそ神々しいほど美しく微笑みかけられ呆然としかけましたが、この特殊な状況が現実逃避を許しませんでした。


 ここは結社に用意してもらった私のアパートの、寝室のベッドの上です。

 なんということでしょう、服を着ていませんね。私も、ベルナエル様も。

 そして、頭痛が消え去ったことで新たな体の異変に気付きました。

 体が少し痛い……それになんだか感じたことのない種類の疲れが……。


「昨夜のことは覚えている? もしかしてフィアは酔うと記憶がなくなるタイプ?」

「ひっ」


 急激な勢いで記憶を取り戻し、思わず身をのけぞらせました。

 私! 私はなんということを――!


 ところどころ朧気ながらも、きちんと覚えていました。

 バーでのことも、このアパートでのことも。


 私が布団を抱きしめて震えていると、慰めるように背中を撫でられ、こめかみの辺りに口づけを落とされました。


「ごめんね。我慢できなかった。これは魅力的な二人が出会ったことによる避けられない結末なんだよ。そんなに落ち込まないで」


 無理です。

 こんな、こんな形で……。


 初対面の男性、というか悪魔の前で酩酊するなんて愚かすぎました。

 何をされても仕方がありません。


 それに、昨夜は本当にどうかしていて、美しい顔と甘い声で問われるたびに全て「はい」と答えていたような……。

 婚前交渉どころか、よく知らない相手とこんな軽々しく……。

 私は自分自身にショックを受けていました。

 今も、くっついてくるベルナエル様を振り払えません。


「俺がその気になった時点で、フィアにはどうすることもできなかったでしょ? 逆らえるはずもない。不興を買ったらどうなるか分からないもんね。きみは賢い選択をした」

「…………」

「というか自分を恥じているの? でもその貞操観念は忌々しい天空神の教えによって植え付けられたものだ。邪神を崇める結社に入る以上、その教えに背いてもまったく問題ないと思うけど」

「……っ」

「それに、フィアの目的は生き残ることだよね。ここで俺と深いつながりを持っておいて損はないはずだ。実際、楽しい夜を一緒に過ごしてくれたお礼に、今の俺はフィアのお願いをなんでも叶えてあげようって気になっているからね」

「!」


 言いくるめられそう!

 こんな自分を肯定なんてしたくないのに……。


「な、なんでも?」

「ああ。俺にできることなら。一週間くれれば小さな国の城くらいならプレゼントできる」


 そんなもの欲しいと思ったこともありません。

 冗談なのでしょうが、例えにしても感覚が違いすぎます。


 私は迷いました。

 なんというか、悪魔とこういう取引めいたことをして大丈夫でしょうか。取り返しのつかないことになりそうで怖い。

 ……でも、ここで何も要求しないのももったいないですよね。

 合理的に、利己的に。

 高潔さを発揮してもなんにもならない。欲張りにならないと大損です。

 かといって、あまり行き過ぎたお願いはしないほうがいい。

 まず、きちんと確認しないといけません。


「えっと……これは普通のことなのでしょうか? ベルナエル様は、いつもこのようなことを? もしかして〈妖精幻翅〉では日常的に……」


 隙だらけだった私に問題があったのはもちろんですが、そもそも女性に尊厳がない組織なのでしょうか。

 悪の秘密結社は、私の想像以上にただれているのかもしれません。


「してないしてない。ウチは内輪もめには厳しいんだ。結社の活動に支障が出るようなことは許されない。……フィアに関しては、俺の自制が利かなかっただけ。きみの涙にときめいちゃって」

「…………」

「本当だよ。悪魔の言葉なんて信じられないと思うけど、俺はフィアには一つも嘘をついてない。我らが邪神に誓ってもいい」


 真偽のほどは分かりません。

 ですが、一応は祖父から紹介された組織ですし、極端に女性の立場が弱いわけではないと思いたいですね。


「あの、結局私は〈妖精幻翅〉に入れてもらえるのでしょうか?」

「それはもちろん、きみが望むのなら」

「で、では可能なら、あまり物騒ではないお仕事がいいのですが……そういう希望は通りますか?」


 できれば直接の犯罪行為はしたくない。臆病者の私には精神的負荷が強いです。

 ベルナエル様は私の髪を弄ぶ手を止めた後、ふ、と笑みをこぼしました。


「す、すみません! こんなのズルいですよね」

「別にいいよ。人間には向き不向きがあるから。内勤の事務処理ならできそう? 情報の整理とか物資の手配とか魔術式の計算とか、面倒くさいことが多いんだけど」

「はい! そういうお仕事がいいです」

「……作業効率なんてどうでもいいか」

「え?」

「なんでもない。バタバタしているし、人手不足だったからフィアが来てくれると助かるよ」


 現実を受け入れ切れてはいないものの、なんとか心に折り合いがつけられそうになったところで、ようやく起き上がりました。

 お互いに背を向けて服を着ます。

 まさか自分がこのような面映ゆい経験をするなんて……。


「じゃあ三日後に支部に来てくれるかな? 案内役に迎えに来させる。それまでに荷造りをしておいて。このアパートからじゃ通えないし、支部内の部屋に移ってもらう。あ、これ支度金ね。と言っても、仕事に必要なものは揃っているからフィアの好きなものを買うといい」


 ベッドサイドに金貨が置かれました。

 ……ますます背徳感が増しますね。でも、もらえるものはもらっておかないと。


「ありがとうございます……」

「さて。名残惜しいけどそろそろ行かないと。フィアが手に入れてくれた聖杯はもらっていくね」

「あ、はい。あの……ずっと気になっていたのですが、それは何に使うのですか?」

「邪神への捧げもの。おやつみたいな? 古美術品が大好きなんだ」

「……なるほど」

「他に俺に聞いておきたいことはある?」

「えっと……その……」


 その質問を口に出すのは憚られました。

 とても大切なことで不安でいっぱいなのですが、聞いていいものなのか……。


「ん? 心配しなくてもいいよ。俺の知る限り、悪魔と人間のハーフは存在しない。というか血のつながった家族のいる悪魔なんて見たことないな」

「!」


 ずっと思っていたのですが、ベルナエル様は読心術が使えるのでしょうか。

 こうも心の中を的確に当てられるなんて……。


「またね、フィア。今日はゆっくり休むといい」


 瞬きの間に、ベルナエル様は姿をくらましました。

 空間転移でしょうか。とても高度な魔術だと聞きます。私も初めて見ました。


「…………はぁ」


 一人きりになってから、私は大きなため息を吐いてベッドに倒れ込みました。

 隕石群から生き延びてやろうという目標を抱えているというのに、たった一晩で随分と寿命が縮んだ気がします。


 反省会をする気力もありません。

 入浴も洗濯も後回し。

 もうどうにでもなれという気分でまどろみに身を委ねます。


 微かに香るシトラスに嫌悪感を抱かない自分が嫌で、少し泣きました。

 ……悪魔なのに、最後まで優しかったな。


 その時の私は、これがベルナエル様と個人的に関わる最初で最後の機会であると信じて疑いませんでした。


    ◇


 三日後、私は迎えに来てくれた方に続いて、秘密結社〈妖精幻翅〉の支部に足を踏み入れました。

 王都の貴族街の郊外にある古い屋敷……私の生家よりもずっと広くて立派です。

 屋敷の持ち主の地方領主が結社の協力者らしく、地下深くに結社の業務部が作られたとのこと。

 本当に恐ろしい組織力……。


 使用人が寝泊まりする部屋を私室として与えられました。

 女性構成員専用のフロアで、男性は出入り禁止。部屋には鍵もかけられるとのこと。

 ……少し安心しました。


 わずかな着替えしか持っておらず、日用品も部屋に揃っていたので荷ほどきや買い物の必要もなく、さっそく仕事場へと挨拶に向かいました。


「ああ、来ましたか。迎えにいけなくてすみません」


 私の指導係として紹介されたのは、顔色の悪い十代半ばの少年でした。

 名前はミケーレさん。

 まさか年下の方が上司になるとは思っていなかったので驚きましたが、相当優秀な方なのでしょう。

 彼の机には資料が整然と山積みにされています。

 というか、この部屋のことを「指令室」と案内されたのですが……。


「フィアンメッタと申します。よ、よろしくお願いします」

「本名は名乗らないでください。まぁ、コードネームをわざわざ考える必要もないので、今後はフィアさんと呼ばせていただきます」

「……はい」

「こちらがあなたの会員証になります。絶対に無くさないように」


 祖父の持っていたものは回収されており、私は久しぶりに不思議な光沢の結社の会員証に触れました。

 それからミケーレさんは表情を少しも変えることなく、淡々と必要なことを説明していきました。


「一応、ここはこの支部の心臓であり脳です。ベルナエル様の指示と判断の下、手足である末端に任務指令を出し、成果をまとめ、発生したイレギュラーに対処していく部署ですね」

「えっと……ものすごく重要度が高い気が」

「そうですよ。ですが、最初からフィアさんに難しい仕事は振りません。少しずつ覚えてくれればいいです」


 その言葉通り、私に任される仕事は難しい判断の必要のない、誰にでもできるようなことばかりでした。

 指令書を封筒に入れたり、他の部署におつかいに行ったり、任務完了報告書をファイリングしたり、お茶を淹れたり……。

 常に重大そうな案件を抱えて忙しくしているミケーレさんに申し訳なってきました。


 数日間働いて、他の部署の方にも話を聞いて分かったことですが、ミケーレさんはベルナエル様の唯一無二の腹心で、悪魔の魂の一部を分け与えられたことによって人ならざる者へ変わった従魔とのことです。

 見た目は十五、六歳の少年でも、実際は百年以上生きている悪魔の手下。

 睡眠も食事もわざわざ取る必要がないそうです。

 ……どうりで休んでいる様子がなかったはずですね。


 謎です。

 ミケーレさんの秘書官のような重要なポジションに、なぜ私のような新入りを?

 重役の彼に時間を割いてもらって指導係をしていただくのは心苦しいです。

 ベルナエル様に配属の意図をお伺いしたいところでしたが、この支部に来てから一度も姿をお見かけしていません。


「ベルナエル様は現在、他の最高幹部様の暴走をフォローするため急遽本部へ召喚されています。もしかしたら一か月近く戻られないかもしれません。その間、新しいプロジェクトの準備を進めるように仰せつかっています」


 現在のこの支部のボスであるベルナエル様は不在で、ミケーレさんが代理を任されているそうです。

 その新しいプロジェクトというのは――内乱の扇動、偽金による市場攪乱、王位継承者の暗殺、国家転覆および国宝の略奪。


 ……やたらと不穏な言葉を指令書に見つけた気がしますが、私は考えることをやめました。

 手を動かしていれば、悩む間もなく時間は過ぎていきます。

 巨悪に加担しているというのに、組織の方々が顔色一つ変えずに働いているのでだんだん心が麻痺してきました。同調効果というやつでしょうか。ひどい話です。


 働き始めて十日を過ぎた頃から、少しずつ書類仕事を任せてもらえるようになりました。

 といっても、時間がかかっても問題ないものばかりです。

 ミケーレさんならあっという間に終わるのでしょうが、四苦八苦しながら資料をまとめて形式通りに任務指令書を作成しました。


「できました。ご確認をお願いいたします」

「…………雨天時の試算が入っていません。別で資料が届いているはずなので、探してください」

「あ、申し訳ありません! 野外での任務では天候も気にするように教えていただいていたのに……」

「いえ。言っておかなければ見落とすだろうと思っていたので大丈夫です」

「…………」


 どうやら私は試されていたようです。


「性格ワルー。じゃあ最初に言ってやればいいのに」

「一度ミスを指摘したほうが、今後気をつけてもらえるので」

「さっすがミケーレ。効率重視で心がねぇわ」


 ミケーレさんを鼻で笑ったのは、魔術部門の責任者のリーチェさんでした。

 この指令室に私とミケーレさん以外で頻繁に出入りしている唯一の方です。


 私より少し年上で、リーチェさんも普段からかなり顔色が悪いのですが、彼は純然たる人間。

 かつて有名な魔術塔で働いていたのを、ベルナエル様直々にスカウトされた逸材とのこと。

 結社の活動に必要な魔術をたくさん開発している天才です。


 私はリーチェさんにもたまに仕事を教えてもらっていました。

 一応、貴族令嬢として育ち、簡単な魔術の心得はあります。祖父が学者だったこともあって魔術構築の計算式もある程度は読めました。

 緻密な計算が必要な星の観測――望遠魔術に一時期のめり込んでいた経験が活かせそうです。


「おい。なんで全部理論値を使って計算してるんだよ。普通、こういう時は実測値でやるだろ。特にこことここは、使用者にとって大幅に魔力コストが変わるんだからさぁ! 分からなきゃ聞けよ。あーあ、最初からやり直しだ!」

「ご、ごめんなさい。そういうものなのですね」

「……それこそ最初に教えておくべきことでは? あなたの説明不足です。どうせ女性と長く話せなくて、途中で会話を打ち切ったんでしょう?」

「う、うるさい!」


 ミケーレさんにミスを指摘されればリーチェさんにフォローされ、リーチェさんに怒られればミケーレさんに助けられ。

 遠慮のない間柄と言えば聞こえはいいですが、この二人、あまり仲が良くないようです。

 日に日に指令室がギスギスしていって、口論の原因になっている私は重圧に押しつぶされそうでした。


    ◇


「ただいま。あー、疲れた。ねぇ、聞いてよミケーレ。あいつ本当に頭がおかしいよ。『敵兵はあまり殺さず、負傷者を増やして消耗させろ』って散々言っといたのに、全部殺しやがった。伝令すら逃がさずだよ? 人外が関与してるってバレバレだ。おまけに目的の遺跡も半壊させていて……こんなのもうフォローできなくない?」


 私がこの支部にやってきてから一か月が過ぎた頃、ベルナエル様が帰還されました。


「それは……お疲れ様でした。おかえりなさいませ、我が主」


 ミケーレさんが安堵したように小さく笑みを浮かべ、恭しく礼をしています。

 彼が笑っているところを初めて見ました。なかなかに衝撃的な光景です。


「苦労をかけたようだね、ミケーレ。首尾は?」

「全てつつがなく。報告書はこちらに」

「ああ、ありがとう。さすが、特に問題なさそうだね。あとでじっくり目を通すよ」


 たまたま指令室に来ていたリーチェ様も日頃の不機嫌さが嘘のように、溌溂とベルナエル様を出迎えました。


「おかえりっす、ベルナエル様! 災難でしたね」

「本当にね」

「ちなみにそれ、どうやって収拾つけたんすか?」

「んー、簡単にまとめるとドラゴンを召喚してもらってうやむやにして、その混乱に乗じて王墓を盗掘して最低限の捧げものを確保した。予想外の連続で王族もほとんど死んじゃったし、もうめちゃくちゃ」

「怒涛の展開っすね」

「あの国からはもっと搾り取れたのにな。これだから戦闘狂は……」


 リーチェさんは悪い笑みを浮かべました。


「ベルナエル様だって、何百年か前に似たようなことしたじゃないっすか。記録を読みましたよ。当時一番大きかった帝国相手に大暴れして、地形を変えるくらい――」

「ストップ。若気の至りを暴露しないでくれ。可憐なお嬢さんの前なんだから」


 物騒な話を聞いていられなくてこっそり退室しようとしていた私を、ベルナエル様の視線が捕らえました。


「やぁ、フィア。久しぶり。会いたかったよ」

「あ……はい。えっと、おかえりなさいませ。お、お世話になっています」

「ふふ、お世話になっていたんだ。そんな壁際にいないで、こちらにおいで」


 おずおずと歩み寄ると、ベルナエル様は相変わらず眩いほどの微笑みで私を見下ろしました。


「顔色が悪いな。それでもかわいいけど。入りたての不安な時期にそばにいてあげられなくてごめんね。ミケーレとリーチェにいじめられなかった?」

「いじめてません」

「いじめてねぇっす」


 二人から圧を感じて、私はすぐに頷きました。


「お二人ともとても良くしてくださりました」

「そう、よかった。……はい、これ。お菓子とお茶のお土産。俺も疲れてるし、みんなの報告を聞きたいし、休憩にしよう」


 私に手渡された紙袋をすぐさまミケーレさんが取り上げました。


「かしこまりました。すぐに準備してまいります」

「え、わ、私がやりますっ」

「ベルナエル様にお茶の用意をするのは本来僕の仕事……フィアさんには手伝いをお願いします」

「じゃあ準備が整うまでオレの成果を見てくださいよ。例の魔術式の問題点を三通りの方法で解決したんすけど――」


 ミケーレさんもリーチェさんも、ベルナエル様に心の底から心酔しているようです。

 ここしばらくギスギスしていた指令室の空気がすっかり柔らかくなっていました。


「ベルナエル様は僕にとって命の恩人――神に等しい存在ですから。魂が壊れるまでお仕えするつもりです」


 これはミケーレさんの言。


「だってベルナエル様は完璧っつーか、究極の生命体じゃん。自分より劣ってる奴の命令を聞くのは死んでもご免だけど、勝てるところ一つもねぇもん。おとなしく従うよ」


 これはリーチェさんの言。


 お二人にとってベルナエル様は至高の存在なのでしょう。

 そのカリスマ性は私にも理解できる気がします。


 でも、私にとっては――。


「二人がよく喋るものだから、全然フィアの話が聞けなくて残念だった。……どうかな? 今夜俺の部屋でゆっくり話さない?」


 危険な存在でしかありません。


    ◇


 その可能性があることに気づいてから、ずっと考えないようにしてきましたが、やはりよく考えておけばよかったと今更後悔しました。


 ベルナエル様の気まぐれが一夜で終わるとは限らないのではないか、と。


 支部の最重要部署に配属し、不在中は腹心の部下に指導係を任せ、帰還してすぐに自分の部屋に呼び出すくらいです。

 素直に考えれば、目をかけられている……気に入られていると思ってもいいのかもしれません。

 いえ、良く言い過ぎました!

 面白がられている、弄ばれている、というのが正しい気がします。


「どうぞ」


 結局、誘われるままベルナエル様の私室へついてきてしまいました。

 断れません。逃げるのもあきらめました。

 だって後が怖いから。


 この屋敷の最上階にあり、最も広い部屋。

 素晴らしい調度品の数々に目を奪われそうになる前に、抱き寄せられ頬に手を添えられると、上を向かされました。

 目が合ったら心臓が止まるかもしれない。

 思わずぎゅっと目を閉じて身を縮こませると、しばらくして頬を撫でられました。


「そんなに怯えるくらいなら、断っても良かったんだよ?」

「……こ、断っても怒りませんでしたか?」

「怒らない怒らない。そんなダサい男に見える?」


 恐る恐る目を開けると、ベルナエル様は私の顔を観察するように眺めていました。なんだかとても楽しそうです。


「でも……」


 私のような小娘に拒絶されたら、不快な気分にはなるのでは?

 それとも断られたらすぐにどうでもよくなる程度の存在なのでしょうか?

 ……だったら素直に断ればよかった。また愚かな選択をしてしまいました。


「断られたら、やり方を変えるだけさ。フィアがその気になるようにね。どのみち結果は同じだから、今夜素直についてきたフィアは賢いと思うよ。どうあがいてもきみは俺のものになる」


 それは思いもよらない言葉でした。


「……どうして私なんかを」

「そんなに自分を卑下するものじゃないよ。きみはとても魅力的だって前にも言ったはずだ。というか、今夜はおしゃべりするんだったね? 座って話そう」


 ああ、逃げる機会を完全に失いました。

 そのまま大きなソファまでエスコートされ、ベルナエル様はグラスを二つテーブルに置きました。


「ジュースとワイン、どちらがいい? 俺はワインにするけど」

「……………………私も、同じものをお願いします」


 二人で並んでも余裕のあるソファ。後ろにはベッドも見えています。

 この空間にベルナエル様と二人きりだなんて、とても平静を保っていられません。

 お酒に逃げさせていただきます。


「嬉しいなぁ。じゃあ飲みやすいものにするよ」


 なんて馬鹿な女なんだと思われていそうですが、私にはもうお酒以外に頼るものがありません。

 現実逃避のためにお酒に溺れていた父のことを思い出しかけ、すぐに首を横に振りました。

 緊張したまま乾杯をして、ゆっくりと赤ワインで喉を潤します。


「美味しい?」

「はい……」

「よかった。アルコールが入るとすぐに頬が赤くなるね。かわいい」


 多分、さらに赤くなりました。

 かぁっと全身が熱くなっていくのが分かります。

 このままじゃ本当に心臓がもちません。

 いつ押し倒されるのかとびくびくし続けるくらいなら、もういっそのこと早く終わらせてほしい。

 そんな気持ちすら湧いてきます。


「フィアの勇気を見習って、俺も白状しよう」


 ワインの色と香りを楽しみながら、ベルナエル様は柔らかく微笑みました。


「初めて会った夜、本当にきみのことを美しいと思ったんだ。仕事柄たくさんの女性を見てきたし、王女や聖女や歌姫なんかをたぶらかしたこともあるけど、その時は彼女たちを利用することしか考えていなかった。もう顔も名前も覚えてない。でもフィアに関しては、仕事も打算も関係なく、ただ欲しくなった。あんな衝動を覚えたのは初めてで、自分でも驚いたよ」

「…………」

「そんな噓つきを見るような目をしないでほしいな。まぁ、悪魔の言葉だもんね、信じられないよね。でもとりあえず聞いて」

「……はい」

「正直、自分でもフィアの何をここまで気に入ったのかは分からない。本当に奇跡的に俺の性癖に刺さったんだと思う。記憶にある限り、一目惚れなんてしたことがなかったのにな」

「……そ、それは、ただの気まぐれではないのですか?」


 羞恥のあまり爆発しそうで、私はつい尋ねていました。


「分からない。自分でも不思議で、だからフィアをそばに置いて一過性の感情じゃないか確かめたかった……のに、馬鹿な同僚の尻ぬぐいのせいで一か月も会えなくなった。本当に腹が立つ。どさくさに紛れて殺せばよかった」

「ひっ」

「でも、一か月毎日ずっときみのことを考えていたし、今日顔を見てすぐに好きだって分かったから、距離と時間を置いたのは良かったかもね。やっぱり俺は、どうしてもフィアが欲しい」

「……っ」

「フィアの気持ちを尊重してあげたい気持ちもあるけど、俺には我慢なんて無理。きみは逆らうことも、逃げることもできない。だからもう、あきらめて俺のものになって」


 これはどう受け取ればいいのでしょうか。

 一見してものすごい暴論を振りかざされている気もしますし、悪魔にしては誠実に話してもらえた気もします。


 でも、確かに、私に選択肢なんてありません。

 結社の最高幹部で、伝説の悪魔であるベルナエル様が望む限り、ただの人間である私は従わざるを得ないでしょう。

 抵抗しても敵わない。苦しい思いをするだけ。下手をしたら殺されます。

 ズルい。本当にどうしようもありません。


「ごめんね。不自由な二択を迫るのが、悪魔のやり口なんだ」


 ベルナエル様は私の手からグラスを奪ってテーブルに置くと、腰を抱き寄せました。

 不自由な二択――どうしても、どうしても彼に触れられるのが嫌ならば、死んで逃げるしかありません。


「フィアは俺のことが死にたくなるほど嫌?」


 相変わらず私の心を的確に読んでいます。それがまた恐ろしい。

 私はゆっくりと首を横に振りました。


「じゃあ、怖い? 信じられない?」

「……はい」

「例えばどういうところが? 絶対に怒らないから教えて」


 爽やかなシトラスの香りに、胸が痛みます。

 嘘は通じません。私は覚悟を決めて正直に言いました。


「少しでもベルナエル様をがっかりさせるようなことをしたら、殺されてしまうんじゃないかと思うと怖いです」

「そんなことはしない。きみが俺や結社を裏切らない限りね」

「今までの言葉は全部嘘で、私をからかって遊んでいるんじゃないかと思えてしまって……」

「本当に信用がないな。嘘はついてない。一つも」

「一緒にいて……好きになってしまうのが怖い。飽きたらあっさり捨てられそうで怖いです。これ以上傷つきたくない……」


 ベルナエル様の指が、そっと私の瞳に浮かぶ涙に触れました。


「最後の心配に関しては、絶対にありえないとは約束できない。それは悪魔も人間も関係なく起こりうることだ。心変わりしないことを永遠に保証できるはずない」

「……そうですね」

「困ったな。どうしたら安心してくれる? できればフィアに俺を好きになってもらいたいんだけど」


 私は自分の心に問いました。

 どうすればいい。

 合理的に、利己的に、自分が一番心安らかにいるために必要なのは……。


 覚悟を決め、私は遠くに置かれたグラスに手を伸ばし、残っていたワインを一気に飲み干しました。


「フィア?」


 こんなこと、勢いがないと言えませんから。


「では、お願いがあります。いつか私を捨てる時は……優しくお願いします。ベルナエル様ならできますよね。私を上手に騙してください」


 飽きたとか退屈だとか他の女性の方がいいとか、そういうことを一切匂わせずに、どうしようもない理由があって離れるんだと、優しく嘘を吐いてほしい。


「最後まで、優しいままでいてほしいです」


 自分でも何を無茶苦茶なことを言っているんだと思いながら、決死の覚悟でベルナエル様を見つめました。

 間抜けなことに涙で視界が歪んでいて、彼の表情がよく見えません。


「……こんな短期間で、人生最高を更新するなんてすごいな。いや、甲乙つけがたいけど」

「え?」

「いいよ。約束する。邪神と己の魂に誓うよ。未来永劫、フィアにとって優しい悪魔でいる。それできみの全てが手に入るのなら、喜んで」


 再びグラスを取り上げられ、ベルナエル様は優美に微笑みました。


「少しずつでいいから、俺を信じて。好きになってくれるのを楽しみにしてる」


 涙が頬を伝って視界がクリアになると、美しい碧い瞳に吸い込まれそうになりました。

 ああ、やっぱり恥ずかしい!


「あ、あの、もう一つ怖いことがありましたっ」

「んー?」

「わ、私、あの、そもそも男性に慣れてなくて……その、キスもあの夜までしたことがなかったくらいで……だから――」

「そうなんだ。きみの周りにいた男は随分我慢強かったんだね。俺には真似できないな」


 顔を隠そうとする手を掴まれてしまって、もう逃げ場がありませんでした。


「大丈夫、任せて。フィアのことは絶対に俺が幸せにしてあげる」

「っ!」


 その夜のおしゃべりはそこで強制的に終了になりました。


    ◆


「申し訳ありませんでした、ベルナエル様。貴重なお時間をいただいてしまって」


 打ち合わせの後、ミケーレが少し落ち込んだ様子で俯いた。

 俺はそれを軽く笑い飛ばす。


「構わないよ。こちらこそ、お前にばかり負担をかけて悪いと思っている」

「もったいないお言葉です。むしろもっとさまざまなことをお任せいただけるよう、精進いたします」

「これ以上? なんて頼もしいんだ。……じゃあ次はリーチェ。待たせたね。相談って?」

「はーい。これを見てほしくて」


 部屋の隅で打ち合わせが終わるのを待っていたリーチェが、開発途中の魔術の計算式が書かれた紙を広げた。

 ここからどういう方向性で式を完成させればいいのか、意見を聞きたいそうだ。


「ここ、もう少し整理して精度を上げてほしい。この安全回路は意味がないから要らない。あとは……魔力コストがすさまじいことになりそうだね。まぁ、その辺りはどうでもいいや」

「相変わらず的確な添削っすねぇ」

「感覚的に分かるだけだよ。細かい調整はリーチェに丸投げする。早めに仕上げて」

「はは、オレには遠慮なく負担かけるんだ」

「まだまだ本気を出していないように見えるからね。いつでも音を上げてくれていいよ」

「買いかぶっていただけて光栄っすわ」


 リーチェはいくつかメモを取って、計算式の紙をしまった。


「ありがとうございました。早めに相談できて良かったっす。……最近のベルナエル様、夜に捕まらねぇんだもん。悪魔のくせに、夜に働かないなんてどうなんすか?」

「ベルナエル様に対して不敬ですよ」

「いいよ。本当のことだから」

「……今夜はいいんすか?」

「ああ。たまには彼女も自分の部屋に戻りたいみたいだったから」


 その話題を待っていたのか、リーチェは嬉々として指令室に隠していた酒瓶を取り出した。

 ……いつまでもはぐらかしておけないし、そろそろ頃合いだろう。

 俺が頷くと、ミケーレが黙って酒盛りの準備を始める。


「やっぱり本当なんすね! はぁ……二人とも昼間はあっさりしてるから、イマイチ確信が持てなかったんですけど」


 ずっと気になっていたことの答え合わせができて興奮しているのか、リーチェは思い切り酒を呷った。


 フィアが頻繁に俺の部屋に出入りしていることは、すでに部下たちに知れ渡っている。

 どの程度の関係なのか勘ぐっている状態だろうが、俺たちに直接詮索してこなかったのは、日頃の教育の賜物といえた。

 俺の機嫌を損ねたらどうなるか、彼らは身にしみて分かっている。

 リーチェくらい俺の役に立っているという自負がなければ、踏み込んだ質問はできないだろう。


「意外でした。つーか、本気? 噂があってから三か月くらい経つけどずっと? マジであのお嬢さんに入れ込んでるんすか?」

「まぁね。こう見えて本気だよ。ものすごく浮かれてるのが分からない?」

「本当に珍しいです。というよりも僕が知る限り初めてですよね」


 ミケーレは百年以上、俺に付き従っている。

 その間、恋愛ごとに限らず誰か一人に執着した覚えはない。ひたすら結社の任務をこなす退屈な日々だった。


「俺が覚えている限りでも初めてだよ。何百年も生きていれば、奇跡の一つも起きるものだね」

「へぇ。……ぶっちゃけどこがいいんすか?」

「リーチェ、これ以上は」

「だって気になるじゃん。確かにあのお嬢さんは……まぁ、美人なほうだと思いますけど、ベルナエル様が特別目をかけるほど? って感じ。あんな育ちがよさそうで何も知らなさそうなお嬢さんが実は……それで諜報部のお姉さん方が悔しがってるらしいっすよ」


 こういう時、リーチェの度胸には感心する。

 二百年前の俺だったら跡形もなく消していたかもしれない。


「どこが優れているとかじゃなく、全部俺の好みの問題だよ。顔がかわいい。声もかわいい。喋る内容もかわいい。一緒にいて全くイライラしない。そんな風に思える人間はフィアが初めてだ」

「はは、そっすか。他には?」

「もちろん他にも魅力的なところはたくさんあるけど、あとは内緒。教えたくない」

「…………」

「何を想像しているんです? 気持ち悪い」


 ミケーレの軽蔑の視線に、リーチェが過剰に反応した。

 本当に不届きなことを考えていたらしい。次の発言次第では処す。


「ばっ! 別に! 別になんにも考えてねぇし! 興味ねぇもん!」

「……人間の思春期って二十歳を過ぎても続くんだっけ? しんどいね」


 この手の話題は良くないと全員が気づいたところで、ミケーレが改まって尋ねてきた。


「僕のフィアさんへの態度は今のままでよろしいのでしょうか。ベルナエル様の大切な方ですし、もう少し丁重に……」

「いや、今のままでいいよ。フィアが恐縮しちゃうと思うし、お互いに働きにくくなりそうだし」

「すでに働きづらいでしょうよ。ボスの女を部下にしている時点で。オレも明日からどう接すればいいか迷いますって。別に、あの子は無理に働かなくていいんじゃないすか?」

「他ならぬ彼女の望みなんだ」


 フィアが結社の仕事を本気で嫌がっているのなら、もちろんやめさせる。

 毎日遊んで暮らしてもいい。彼女が好むものだけを集めて二人だけの世界を構築してもいい。

 でもフィアはそんなことを願わなかった。


「彼女は時間ができると、どんどん暗いことを考え始めちゃうからね。与えられた仕事に没頭しているほうが気が楽なんじゃないかな? どうにかして自分の罪悪感をごまかしたいんだろう。それで犯罪組織の悪事に加担することを選ぶんだから、彼女の精神は混沌としているよね。罪悪感を罪悪感で上塗りするなんて」

「……なんか、闇が深いっすね」

「そうだよ。よく眠りながらうなされて泣いてる。本当に可哀想」

「それは隣にいる悪魔のせいじゃ」

「リーチェ、黙りなさい」


 フィアは自分がもっとうまく立ち回れば、両親の死を回避できたのではないかと後悔している。

 それでいて、自分のような無能に何かができたはずがないと弁えて絶望しているんだ。

 その矛盾した思考の余地が、いつまでも彼女を苦しめる。

 ……うじうじと悩み続ける姿も愛しいけれど、耐えきれずに心が壊れてしまったらつまらない。


「俺はフィアに自信をつけさせてあげたいんだ。部下としてもたくさん褒めてあげたい。だからミケーレ、フィアを立派な秘書官に育て上げてくれ。俺の言葉を全てお世辞だと受け取らないよう、彼女自身が納得できるレベルまで。そうすれば今後のミケーレの負担も減るし、いいこと尽くしだろう?」


 いくら俺が甘やかしても、自己肯定感の低い今のフィアでは幸福を感じられない。

 自他ともに優秀だと認められるようになれば、少しずつ俺の言葉を受け入れてくれるようになるだろう。


「かしこまりました。……そうですね。少し迂闊なところはありますが、真面目で勤勉な方ですし、伸び代はあります。そう遠くない未来に非の打ちどころのない秘書官になれると思いますよ。百年経てば、今の僕と同等の働きができるはず。そのつもりで接するということでよろしいでしょうか?」


 俺は笑顔で頷いた。

 まだ出会ってから日は浅いけれど、確信めいたものがある。

 フィアを手離そうと思う日は来ない。

 百年後もその先も、どんな形であれ隣に置くだろう。


「……分かりました」

「気に入らない?」

「いえ。彼女を見つけてから敬愛する主がすこぶるご機嫌なのですから、僕としても喜ばしい限りです」

「唯一の腹心という肩書は、変わらずお前のものだよ。フィアには話せないことが多いから」


 ミケーレは小さく笑って頷いた。

 長い時間を共に過ごすことになるのだから、フィアとミケーレにはある程度仲良くしてもらいたい。

 多分、心配いらないだろう。


「ん? もしかしてあのお嬢さんに人間やめさせる感じ?」

「そのうちね。でもこればかりは、本人の意思も必要になる。余計なことを彼女に吹き込まないように」

「はぁ……溺愛っすね。うまくいくことを祈ってますよ。あの子、男運がいいのか悪いのか」

「間違いなく男運は悪いだろうね。前の男のことは知っているだろう?」


 フィアの経歴については、二人にも把握させている。

 不用意な一言で彼女の心の傷を刺激させないように釘を刺しておいた。


「前にフィアに聞いたんだ。『きみが望むなら代わりに復讐してやろうか』って」


 婚約者という立場を利用し、フィアの家を破滅させた男。

 無惨に殺すことも、長く苦しめることも、俺なら簡単にできる。


「でも断られちゃったんだよね。『あまり思い出したくない、隕石群で死ぬならいい』って」

「……そりゃ残念。根性なしっすねぇ」


 俺や結社に在籍する人間のほとんどは、迷わず復讐の道を選ぶ。容赦も躊躇もない。

 だけど彼女の場合は……おそらく忘れたいという気持ちの方が強いのだろう。

 それとも永遠に被害者の立場でいたいのか。


「まぁ、理解できなくもないよ。憎悪よりも嫌悪や恐怖心が強ければ、視界にも入れたくないだろうから。俺としても他の男のことなんて考えてほしくないし、おとなしく引き下がったんだけど……愛しいフィアを不幸にした男と、その他の人間が同じ隕石群で死ぬなんて、面白くないよね。もっといえば、今この瞬間にフィアよりその男の方が幸せだったりしたら、とても不愉快だ」


 ミケーレは背筋を伸ばし、リーチェは頬を引きつらせて俺を見た。

 俺から漏れ出る不穏な魔力を感じ取ったらしい。


「俺は手を出さないって約束しちゃったし、よく考えたら彼のおかげでフィアと出会えたわけだから多少は感謝の気持ちもあってね。だから二人に頼みたい。たまにでいいから……ね?」

「それは、どういう……」

「お前たちも忙しいだろうから、本当に気が向いた時でいいんだ。仕事でむしゃくしゃした時の八つ当たり先として、そいつを推薦しておくって話」


 俺の意を汲んだミケーレは即座に頷く。


「そうですね、その男にベルナエル様が直接手を下す価値はありません。僕らにお任せください。今まで思い至らず申し訳ありませんでした」


 一方リーチェはあからさまに目を逸らした。


「は? オレは関係ないじゃないですか。なんでそんなこと……」

「うん。これは命令じゃない。リーチェがフィアに対して後ろめたいことがなければ、無視してもいいよ」

「う、後ろめたいこと……?」

「俺は見えるところに痕なんてつけないから、探さないように」

「っ!」


 まぁ、今回は職場にやりづらい関係を持ち込んだ俺が一番悪いので、大目に見ておこう。


 ……その後、ミケーレはプロジェクトで思いのほか支出が多くなった時、どこかの青年実業家の財産からむしり取って補填するようになった。

 建設中の豪邸を完成前に手放すことになったのは気の毒だったね。


 リーチェは最初乗り気ではなかったようだけど、やはりフィアを見ていかがわしいことを考えたことがあったのだろう。

 危険な魔術薬の仕入れ数を間違えて余らせた時、その青年実業家を処分先に選んだ。

 こじつけで贈られた祝いの酒がどのような効果をもたらしたのか。

 もうフィアは、町で彼とすれ違っても気づかないだろうね。


    ◇


 恐ろしいもので結社に入って半年も過ぎれば、あらゆることに慣れてきました。

 犯罪にかかわる仕事も、ベルナエル様と過ごす夜も。


 合理的に、利己的に。全ては生き残るため。

 そう考えれば結社に従事するのは一番良い方法に思えましたし、ベルナエル様のそばにいる意味も大きい。

 今の私は何も間違えていません。きっと。


「髪、ちゃんと乾かさないと。おいで」

「……はい」


 最初のうちはもっと遠慮という名の抵抗をしていたのですが、今ではされるがままです。

 髪に残った水気はベルナエル様が撫でるとどこかに消え、次に少量の香油をなじませ、仕上げに櫛で整えられました。


「うん、完璧。きれいだ」


 ほとんど枝毛がなくなり、艶と果実の甘い香りを宿したサラサラの髪。自分のものとは思えません。

 貴族だった頃よりも状態がいいくらいです。

 髪だけではなく、肌もだいぶきれいになりました。顔色も少しマシになったような……。


「ありがとうございます」

「どういたしまして。今夜は飲む?」

「……やめておきます」


 ベルナエル様はご満悦でした。


「嬉しいなぁ。フィアが酒に頼らずに相手してくれるなんて」

「そ、それは……あんな飲み方をしていたら、絶対に体に悪いので。私、長生きしたいんです……」

「ふふ、そうだったね。でもたまには晩酌に付き合ってほしいな。酔ったフィアは最高にかわいいし、素直にいろいろと話してくれるのが嬉しいんだ」

「…………」

「この前にミケーレとリーチェと一緒に飲んだ時も、普段はできない話ができて楽しかったんだよ」


 少し不安になりました。

 男性三人のお酒の席で、一体何を話したのでしょうか。

 もしかしたら、私のことが話題になっていたりして……。


 ちょろくて軽い女だと笑われていたり、何か賭け事の対象になっていたり、単純に陰口を言われていたりして……。

 想像するだけで落ち込んできました。


「フィア? 何か良くないこと考えてない?」

「えっ」

「まだ俺のことが信用できないんだ?」


 ため息を吐かせてしまいました。

 相変わらず私の考えていることはお見通しのようです。


「……えっと、あの、ごめんなさい。全く信用していないわけでは」


 この半年の間、ベルナエル様はいつでも優しくて、甘くて、私を大切にしてくれました。

 本当は、男性陣が私に関する下世話な話をするはずがないということも分かっています。


 このような関係になったばかりの頃は、自分と同じ立場の女性が何人かいて、いつか部屋で鉢合わせるかもしれない、などと身構えていたのですが、そのような兆候もなく……。

 添い寝だけをご所望の時も呼び出され、ほとんど毎晩一緒にいますし、ちらりとも他の女性の影は見えません。


 少し親しくなった諜報部の女性たちにすでに関係がバレていて、先日質問攻めに遭いました。

 徹底的に隠していたわけではないので仕方がないです……。

 その時に知ったのですが、ベルナエル様が結社の女性に手を出したのは、彼女たちが知る限り初めてのことらしいです。

 言い方……と思いながらも驚きました。

 彼女たちは何年もかけてベルナエル様に「一晩でいいから」「日頃の努力の成果を見てほしい」「任務を頑張ったご褒美ください」と散々アピールしていたらしいですが、眩しい微笑みで一蹴されてきたそうです。

 どうやって落としたんだ、と詰め寄られましたが、私は何も答えられませんでした。


 その他の構成員の方々の反応は、予想していたよりもあっさりとしていました。

 腫れ物に触れるよう、とまでは言いませんが、極力私に関わらないようにしている気がいたします。

 一部からは「極力指令室にいてほしい」と懇願されました。

 なんでも私がベルナエル様のそばにいる間は、ミスの報告をしても許してもらえることが多いそうです。

 ……確かに私はベルナエル様が部下を叱責しているところを見たことがありません。私がいないところではどのような感じなのでしょう。怖い。


 ひとまず、女性陣には羨ましがられ、男性陣には遠巻きにされ、ごく一部からは感謝され、ミケーレさんには特に変わらず仕事を教えてもらい、リーチェさんにはなぜか目を合わせてもらえなくなりました。

 妬まれたり蔑まれたり、そういった嫌な思いはしていません。

 これは組織の気質か、あるいはベルナエル様の威光が大きいのでしょう。


 周囲の反応からも分かるように、ベルナエル様が私を特別扱いしているのは間違いないようです。

 でもそれがいつまで続くのか。

 そろそろ飽きられてもおかしくない、とびくびくしながら私は今夜も彼の腕の中に納まっています。


「フィア、愛してる。大好きだよ」

「…………」


 幾度となく告げられている言葉。

 いつも返事ができません。

 それが苦しい。


 最近の私はずっと彼のことを考えています。むしろそれ以外考えられないというか……。

 刺激的な日々に溺れて、少しずつ少しずつ過去が遠い出来事になっていきました。


    ◇


「フィア、ついてきて」


 支部内で私たちの関係が周知のものになってからというもの、ベルナエル様は視察と称して私を様々な街に連れて行きました。

 服やアクセサリーを買い、レストランで食事をして、歌劇場で舞台を観て……。

 やたらと私にお金をかけたがるので恐縮してしまいました。


「どうせ“星”が降ったらなくなってしまうものばかりだ。今のうちに楽しんで、欲しいものを手に入れておかないと損だよ」


 そう言われてしまえば、強く否定することもできず……。

 そもそも現在ベルナエル様主導で進めている国家の転覆も、隕石群が降ってくる前に資源を回収するというのが主な目的です。

 どうやらこの国は、隕石が直撃して跡形もなくなる不幸な国の一つとのこと。


「もう衝突する位置まで分かっているのですか? すごい……」

「ああ。天体観測ではなく、占星術による予言で分かっているんだ。ウチの最高幹部の一人が星詠みの達人でね」


 驚くべきことに、結社は五十年近く前から腐食の隕石群の到来を把握していたらしいです。

 そこから彼らは綿密な計画を練り、ずっと世界の裏側でとある目的のために暗躍してきました。


「人間たちも馬鹿ばかりじゃない。フィアのおじいさんのように隕石群に気づいた学者も多くいるし、すでに生き残るために動き出している国もあるんだ。天空神が守ってくれると妄信している愚者もいるみたいだけど……隕石が近づくにつれ、現実に迫る死を意識する」


 私は浅はかでした。

 隕石群が落ちると突き止めた者は案外たくさんいて、それを知った国が何もしないわけがありません。

 都市を守る魔術結界の強化、隕石を打ち砕く大砲の発明、腐食の魔力に対抗する魔術薬……。

 一部の国や機関がそういう研究を始め、手を組んで生き残るための計画を進めているそうです。


「でも人間は愚鈍だからね。あらゆるしがらみに邪魔されて、思うように計画は進まないだろう。もう間に合わないよ。だって、全員が助かる方法なんてない。どこを守り、どこを見捨てるか、絶対に言い争いになって計画は破綻する。何もしなくても上手くいかないだろうけど、俺たちが必ず失敗させる」


 秘密結社〈妖精幻翅〉の目的は妖精女神の復活。

 そして、妖精女神を崇める唯一無二の国を創ること。


 数年以内に隕石群が衝突しない国の一つを乗っ取る。

 同時に、隕石群が到来することを世界中の民に伝えて混乱をもたらすそうです。


「俺たちはいち早く隕石群の到来を知り、衝突場所を把握し、被害を予測できている。腐食の魔力への対策も万全だ。俺たちに従えば生き残れる。そうなれば、人間たちの多くは必ず俺たちを支持する。この世界は再び妖精女神の支配下になるだろう」


 妖精女神は特殊な毒を持っています。

 その毒は人類の体を変質させ、腐食の魔力にも侵されない強靭さを与えてくれるそうです。


「人ならざる者にする、というよりは、人間を急激に進化させる毒だね。時が来るまで他の構成員には内緒だけど、結社の会員証にその毒が含まれているよ。砕いて一欠片でも飲み込めば、進化が始まる」

「っ!」

「といっても、誰でも簡単に進化できるわけじゃない。会員証を長く持っているほど、進化に適応できる確率は高まる。適応できなければ死ぬ。フィアは……大丈夫だと思う。俺の魔力にも慣れているから」


 呆気に取られてしまいました。

 私はすでに、隕石群から生き残るための方法を手に入れていたようです。


「救われるため、人々は妖精女神に頭を垂れるだろう。女神は人々の信仰により復活する力を得て、逆に天空神は力を失う。隕石群の腐食に抗えずに消滅するんだ」

「え……」

「何を驚いているの? 今でもちゃんといるんだよ、天空神は。妖精女神だって神話じゃないんだから当たり前でしょ」

「そ、それはそうかもしれませんが、でも……」


 だったらなぜ、天空神は私を助けてくれなかったのでしょうか。

 あの元婚約者の男が天罰を受けなかった理由は?

 どうして妖精女神を信仰する者たちの悪行を見逃しているのでしょう。


「存在していても、地上を見守るだけで自分では何もしない神だ。たまに勇者や聖女みたいな英雄を地上に遣わせるくらい……でもこの時代に英雄はいない。俺たちの計画を覆せる駒はないんだ。本当に無能な神だよ。いや、地上に目を向けすぎていて、背後に迫る滅びの隕石群に気づけなかったのかも。だとしたら皮肉だよね」


 ベルナエル様は心の底から嬉しそうに空を見上げていました。


「“星”が降る日、この世界で最初に死ぬのは天空神だ。そして新しい世界が産声を上げる。楽しみだね、フィア」


    ◇


 私が結社に入ってから一年が過ぎた頃、この支部でのプロジェクトが完了しました。

 平和だった王国は見る影もなく、王位継承をめぐって各地で争いが起こっています。


 資金と資源、優秀な人材、そして捧げもの。

 結社はその全てを手に入れ、もうこの地に用はありません。

 痕跡を完全に消してから支部は閉鎖されるとのことですがが、ベルナエル様と腹心のミケーレさん、そしてリーチェさんのような優秀な部下は、一足先に次の任務地へ赴くことになりました。

 ……当然のように私も一緒に行くことになっています。


 一年前はほとんど私物を持っておらず、カバン一つでこの支部にやってきたというのに、ベルナエル様にたくさんのものを買い与えられていた結果、引っ越しの準備が大変になりました。

 贅沢な話です。

 せっせと荷造りをしていると、後ろから声がかかりました。


「無理に全部持っていかなくてもいいんだよ。向こうでまた買ってあげる」

「でも……もったいないですし、その、記念というか」

「記念?」

「……思い出が、あるじゃないですか」

「ふーん。このリボンも?」

「それは、初めてくださった花束の……覚えてないでしょうけど」

「いや、覚えてるよ。フィアの瞳の色に近いものを選んだから。こんなものまで取っておいてくれていたなんて、嬉しいな」


 貧乏性なんです、と小声で言い訳して、私は手を動かすことに集中しました。


 早く終わらせて、指令室に戻らないと。

 プロジェクトの終盤ではトラブルも多くなり、目が回るような忙しさでした。まだ片付け切れていません。

 ほとんどの問題は、ベルナエル様がふらっといなくなって帰ってくる頃には解決していました。

 五十年も王国に真摯に仕えた文官を寝返らせ、国宝の強奪を手伝わせたのもベルナエル様とのことです。

 一体どのような方法を使ったのか、いろいろな意味で恐ろしいですね。


 私も、少しは役に立てるようになった気がします。

 あのミケーレさんが「フィアさんがいてくれてよかった……」と疲れ切った目で呟いてくださったくらいなので。あと、リーチェさんにも理不尽に怒られなくなりました。

 世間一般的に頑張って良い仕事なのか分かりませんが、個人的にはこれからも頑張っていきたいと思います。


「そうだ。明後日にはここを発つけど、行っておきたい場所はある? 後悔がないようにね」

「…………」


 すぐに私は手を止めてベルナエル様を振り返りました。

 ずっと、心の隅に引っかかっていた場所があります。


「連れて行ってあげるよ? どこへでも」

「……では、お願いいたします」


 翌日、日の出前の早朝、ベルナエル様に空間転移で連れてきてもらったのは、支部のある国の隣国――私の生まれ育った故郷でした。

 薄闇の中、私は一人でその墓標の前に立ちました。


「良かったです……お墓、そのままで。ずっと来られず、申し訳ありませんでした。おじい様、おばあ様……」


 かつて私の家が治めていた領地の墓地、歴代領主が葬られている場所に変わらず祖父たちの墓標が残っていました。

 今は別の貴族が治めていますが、ここには手を加えないでいてくれたようです。


 花を供えて、目を閉じて祈りました。

 おじい様が残してくれた遺言と遺産のおかげでなんとか生きてこられました。

 そして、これからも生きていけるかもしれません。

 ありがとうございます。


 おじい様以外のご先祖様はきっと許してくださいませんね。

 私は天空神を裏切って、悪魔の手を取り、邪神を復活させようとしています。

 一族随一の悪人となってしまうでしょう。


 ごめんなさい。どうかお許しください。

 没落してからというもの、一度も姓を名乗っていません。

 これからはフィアンメッタという名すら捨て、ただのフィアとして生きていきます。

 もう二度と、この地を踏むことはないでしょう。


「さようなら。お世話になりました」


 最後に淑女の礼をして、私は墓標に背を向けました。

 墓地の入り口で待っていてくださったベルナエル様に駆け寄ります。


「お待たせいたしました。貴重な時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」

「いいよ。せっかく来たんだから、もう少しこの辺りを歩かない? 思い出の場所とかあるでしょ?」


 もう二度とこの地に帰るつもりがないことを見透かしているのでしょうか。

 私はベルナエル様の優しい言葉に甘えることにしました。


「洞窟……にはもう何もありませんね。えっと、では東の崖に。新年に家族で初日の出を見に行ったことがあって、まだ夜明けに間に合うかも……あ」

「……何?」

「いえ、あの、そういえば、ベルナエル様はどうして“夜明けの悪魔”と呼ばれているのですか?」

「夜明けの戦場で目撃されて絵画にされたからだよ。ずばりその絵画のタイトルが“夜明けの悪魔”だった」

「……さぞ美しい絵なのでしょうね」

「残念。もう残ってないよ。捧げものにしちゃった」


 少し、いえ、かなり見てみたかったです。


「絵なんかより、これから実物を見ればいい。朝日の中の俺はそれはそれは美しいだろうから」

「……そうですね」

「心がこもってないなぁ」

「そ、そんなことは……ベルナエル様はいつでもお美しいですし」

「ありがとう。フィアもいつでも美しいけど、夜はさらに輝きを増すよ」


 これ以上話しても羞恥心を刺激されるだけなので、私は黙々と崖の上を目指すことにしました。

 転ばないようにか、ベルナエル様が手を引いてくださいます。

 開けた場所に出たのと、ちょうど山々から朝日が顔出す瞬間は同時でした。


「うわ、眩しい」

「ですね。でも、綺麗……」


 ふと隣を見れば、清廉な朝日に照らされたベルナエル様は宣言通り美しく……絵画にしたくなる気持ちも分かります。

 朝日が似合う悪魔というのは、どうなんでしょうか。


「そういえば、両親の墓はここにないんだよね? そちらは行かなくていいの?」

「……いえ、さすがに合わせる顔がありません」

「そう? 強く成長した娘の顔なら見たいと思うけど」


 私は首を横に振りました。強くないし、何も成長していない。恥ずかしい限りです。

 そもそも両親にちゃんとしたお墓はありません。

 お金がなくて用意できず、教会の片隅にある貧民用の共同墓地に遺灰をまきました。いろいろな意味で居たたまれなくて会いにいけません。


「たくさん与えてもらったのに、親不孝なことばかりしてしまいました」

「たいていの子どもはそうなんじゃないかな。俺もそうだよ」

「え? えっと、それはどういう……悪魔に血のつながった家族はいないんじゃ」


 ベルナエル様は肩をすくめました。


「思いもよらなかった? 俺も元は人間だったんだよ。母親は俺が幼い頃に死んで、父親はずっと空の上だから、親と言えるのか微妙だけどね。この見た目の年齢まで、一応人間として生きていた」

「……なんだか、いろいろと納得できた気がします」


 いつも思っていました。ベルナエル様は人間の心を分かりすぎていると。

 もともと人間だったから、いろいろと見透かすことができるのですね。


「どのような経緯で悪魔になったのか、聞いてもいいですか?」

「んー、ちょっと恥ずかしいな。詳しいことは省いていい?」

「はい」

「……とても嫌な目に遭ったんだ。この世界も人間も嫌いになって、もう死んでもいいやって時に、今の結社の総裁に出会って『じゃあ邪神の捧げものになれば?』と勧められてね。ほら、俺は人間だった頃から美術品のように美しかったから、その資格があった。それで、自分から底も見えない深淵に飛び込んだんだ」


 なんでもないように軽い調子で語られましたが、私は口を挟めませんでした。


「深淵の中で邪神に会って、俺は悪魔にされた。死にたいって言ったのに、意地悪な女神様だよね。でも、人間だった頃に感じていた煩わしいものからは解放されたから、一応感謝はしている。やることもないし、人間の命で遊ぶには楽しかったし、悪魔として真面目に働くことにした。邪神に強制されたわけじゃないよ。選択肢はたくさんあったのに、俺は自分でこの道を選んだんだ。最悪だと思う?」


 問われても、私には分かりませんでした。

 自ら死を選び、悪魔であることを受け入れるなんて、きっと壮絶な体験をしてきたのでしょう。

 想像もできません。


「がっかりした? 嫌いになった?」


 黙っていると代わりの問いが投げられ、私はやっと首を横に振りました。


「いいえ。話してくださってありがとうございます。ベルナエル様のことを知ることができて、嬉しかったです。失礼かもしれませんが……」

「そんなことないよ。良かった」


 話してもらった内容を反芻しながら、私ははっとなりました。


「あの……人間が嫌いということは、私も人間なんですけど、本当は嫌いなんですか?」


 私の不安を吹き飛ばすように、ベルナエル様は肩を震わせて笑いました。


「ふっ、そんなわけないでしょ。この世の全ての人間を嫌っているわけじゃない。そもそも俺、人間の作るものは割と好きだしね。特に服や音楽、酒を造ってくれている人間には感謝してるよ」

「……そうですか」

「もちろん人間の中ではフィアが一番好きだよ。今まで出会った誰よりも」


 いつも通り、隙あらば私に甘い言葉をくれます。

 まだ出会ってからたった一年なのに、どうしてここまで優しくしてくれるのでしょうか。

 でも何百年と生きる彼の長い生の中で、私が一番なのだとしたら、こんなにも光栄なことはありませんね。


 彼の言葉全てが嘘偽りかもしれない。

 結社の計画も、過去の話も、私への愛の言葉も、全て存在しないものだったらどうしよう。

 ……もしそうなら、今度こそ絶望の中で死ぬしかありません。


 少しでも真実があることを願って、私は繋いだままだった彼の手を握り返しました。

 怖くてたまらない。

 彼の悪性を恐れているのではありません。手を振りほどかれるのが怖いのです。


 でも、言わないと。

 私にたくさんのものを惜しみなく与えてくれる彼に、一つも返せないままなんて、そんな不義理なことはありません。

 喜んでもらえるか、自信がないですけど……。


「ベルナエル様……あの」

「うん」

「私、あなたのことを、お慕いしています。愛しています。……結構前から」


 本気で好きにならないように気をつけていたのに、やっぱり無理でした。

 でもこれに関しては仕方がないと思うのです。

 ベルナエル様のような方に毎日優しい言葉をかけられて、体の隅々まで愛され、完璧なメンタルケアを施されて、幸せを感じないはずがありません。誰だって好きになってしまうはず。

 私は悪くない。自分でそう思える唯一のことです。


 恐る恐る顔を上げると、ベルナエル様はいつも通り優美な微笑みを浮かべていました。


「やっと言ってくれた」

「ごめんなさい……なかなか言い出せず」

「いいよ。知ってたから。フィアはね、考えてることが全部顔に出てるんだ」


 私が思わず空いている手で自分の顔に触れようとすると、その前に両腕で思いきり抱き締められました。

 いつも優しい彼らしくない、少し強引で力強い腕に私はいつも以上にドキドキしました。


「分かっていても、直接言ってもらえるのは嬉しいよ。口にするのは怖かっただろうに、頑張ってくれてありがとう」

「わ、私の方こそ、いつもありがとうございます……」

「ふふ、ご褒美に、なんでもフィアのお願いを聞いてあげる」

「……なんでも?」

「ああ、なんでも。きみのためならどんなことでも成し遂げて見せよう」


 いつになくご機嫌な様子に私も嬉しくなって、だけどやはりいつか失ってしまうのではないかという恐怖が追いついてきて、だから、縋りつくように彼の背に腕を回しました。


「……前に、捨てる時は優しくお願いしますって言ったと思うんですが」

「言ってたね」

「その願いは変わらないんですけど、できれば……できればずっと捨てないでほしいです。ずっとベルナエル様のそばにいたい。いつか、私が一番じゃなくなってもいいから」


 なんてみっともなくて、惨めなことを言っているのでしょうか。

 こんなお願い、困らせてがっかりさせてしまうかもしれないのに。


 私は流されやすくて、意思が変わりやすく、心も捨てられない、逃げてばかりの弱い人間です。

 私が一番、私自身に嘘をついてきました。

 合理的になんて生きられない。利己的に生きようとして危険を引き寄せる。

 生き延びるためにもがいた結果、ベルナエル様なしでは生きられないようになってしまうような愚か者です。

 よりにもよって悪魔の愛に依存するなんて、本当にどうしようもないですね。


「分かった。その願いを叶えよう」

「本当ですか……?」

「ああ。俺も同じことを思っていたんだ。フィアとずっと一緒にいたい。フィアの心と体だけじゃなくて魂も手に入れたい。代わりに俺も魂の一部を贈ろう。……意味分かるかな?」

「……私も、ミケーレさんみたいに?」


 悪魔の魂の一部を分け与えられることで、人ならざる者へ至る。

 そうなれば、寿命を気にせずに彼とずっと一緒にいられる。


「そうだよ。一緒に永遠の時を生きよう」


 きっと人生における最も重大な選択だったというのに、私は悩みもせずいともたやすく差し出された手を取っていました。


「はい」


 いつか破滅を迎える時が来ても、この選択を後悔することはないでしょう。

 悪魔に強制されたからではなく、私が心の底から望んで選んだのですから。


    ◇


 その夜、この世界に無数の星々が降り注ぎました。

 禍々しい光の尾が夜空を切り裂いていきます。


 ここは秘密結社〈妖精幻翅〉の現在の本部――歴史ある王国から奪い取った城の一室。

 傍らには愛しい我が主。

 怯える私をなだめるように抱きしめてくれています。


 部屋の隅には、従魔の先輩であるミケーレさんも控えていました。リーチェさんたち他の構成員も、今頃別室で同じ夜空を眺めていることでしょう。


 腐食の隕石の一つが空で爆ぜると、夜空に赤い稲妻が走り、雷鳴が轟きました。

 それはまるで低い唸り声のようで、男性の断末魔のようにも聞こえました。


「さよなら、父上」


 雷光が鳴り響くことは二度とありません。

 私はベルナエル様の横顔を見上げて、しかし何も言うことができませんでした。


 地面が大きく揺れています。

 しかしこの地に隕石が落ちることはなく、選ばれた人間だけが妖精女神を崇める国の民となって生き残ります。

 あるいは、幸運にも結界を維持できた都市があれば……。


 おじい様、本当に隕石群が落ちましたよ。

 天空神は死にましたが、人類が滅亡することはありませんでした。

 少なくとも、今はまだ。


 新しい世界が始まります。


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