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第五話 「セラフィアとの接近」

 せっかく来てくれたセラフィアを無理やり追い返した執務室で、ネイトの手は完全に止まっていた。


 最近、副団長のセラフィアは特に自分を気にかけてくれていたように思う。戦場からの帰り道でもネイトによく話しかけて来ていたし、王宮からの帰路での膝枕も──


「ケーキ、一緒に食べてもらえばよかったかな」


 セラフィアだって自らの指揮する部隊が危うく全滅まで追い詰められたのだ。それに、今まではネイトだけに向けられてきた偏見が彼女にまで及び始めている。


 心穏やかではないはずだから、負担を和らげるために一緒にケーキを食べる。


 団長として、部下を労うのは当たり前。なのになぜ、そんな簡単なことができないのか。


 ネイトはフォークをお皿に置く。


 そして、眼鏡をかける。


 セラフィアが持ってきてくれた報告書と、その上に置かれた、使い古されている淡い水色の麻の手提げ。


「忘れ物かな」


 扉の方をチラッと見て、手提げに手を伸ばす。


 開けてみると、中にはクッキーが数枚。


 優しいバターの芳醇(ほうじゅん)な香り。騎士団の非常食用で携帯しているものとは全然違う質感。


 ダメだとは思いつつ、ネイトは1枚を手に取った。


「お、美味しそう」


 戦勝祝いで父から送られてきた荷物、もといケーキ。まだ半分以上残っているのだが、どうせ凍らせればまたいつでも食べられる。


 ならば──


「い、いただきます」


 噛んだ瞬間、外の固さと中のしっとり感に舌鼓を打った。


 ほろほろと崩れるような中の生地。そして口の中いっぱいに広がるほのかな甘みと、実家の公爵邸を思い出してほっとしてしまうような懐かしい味わい。


 ──魔力の巡りが良くなる気がする。


 後味も抜群で、バターの風味が残りすぎないのも王都で売られている高級なクッキーとはまた違う。


「これ、どうしたんだろう……」


 ──気になる。


 2枚目に手を伸ばしかけて、ギリギリで報告書へと進路を修正した。


 小隊長たちの戦闘分析と団員一人ひとりの記録を読み込む。読み終わって、ペラりと1枚めくる。


 ──視界の端に、手提げが映り込んだ。


 意識しないようにしても、鼻腔を幸せにしてくるバターの匂いが今のネイトには毒だった。


「も、もう一枚だけ。これで終わりだから……」


 負ける。


「最後。本当に、本当に……」


 また負ける。


「うっ……これ、明らかに減ってるよね」


 そしてまた、負けた。


 セラフィアの忘れ物を勝手にぜんぶ食べてしまったのだ。


 公爵家の令嬢であり団長も務める、最も規律に従順で欲望を排除しなければいけない自分が。こんな風に欲望に負けるなんて──でも、この温かい味わいに抗うなんて、無理だった。


 視界の端に、ケーキと一緒に送られてきた手紙が目に入る。


━━━━


 拝啓。近衛騎士団団長ネイト・カーミュ殿


 緑の美しい時期になりましたがいかがお過ごしですか──

(中略)

 父と母は、ネイトの凱旋姿を見て泣いてしまいました。生きて帰ってきてくれてありがとう。民衆に手を振るネイトはまさに『人々に尊敬される存在』であり、カーミュ公爵家の跡取りとして──

(中略)

 追記。母は色恋話に飢えております。近衛騎士に良き方がいらしたら、こちらでそのご家族を説得いたします。ネイトさんの好きな方、早く会わせてください。


━━━━



「わかっています。わかっていますから......」


 小さく呟いて、首を振った。



 近衛騎士団の訓練は、昼過ぎに始まる。朝は基本的に王城や王都の警備や巡回をしているからだ。


 王都北西部に位置する広大な演習場の片隅で、ネイトはセラフィアたちと準備をしていた。


「剣術指南? 副団長に?」


「はい! ぜひ、騎士たちと同じように私にもしていただきたくて!」


 従者に鎧を着せてもらっている最中、セラフィアが紺色の髪を縛りながらネイトへと話しかける。


「副団長の剣術は十分だと思うのだけど」


 言った途端に、グググっとセラフィアの綺麗な顔が近づいてきた。


 その気迫に押されつつ、胸ポケットに入った空の手提げがバレないか気になり隠すように手を添える。


「そ、それでも! 団長のように柔軟で魔術に頼りすぎない戦い方ができるようになりたいんです!」


 従者が留め具をキュッと絞り、否応無しに自らの痴態が意識された。


(......食べすぎましたかね)


 今日の訓練も騎士たちと一対一の実戦形式。

 ネイトが直接指導するのが効率のいいことに違いはない。しかし、魔力に頼って剣術のおぼつかない近衛騎士も多く、手応えがないのも事実だった。


 その点セラフィアはネイトと同等かそれ以上の魔力を蓄えていて、剣術も遅れを取っていない。


 セラフィアと剣戟(けんげき)をすれば食べ過ぎでついた贅肉も解消される、とネイトは考えてみる。


「わかりました。練習終わりに私のもとへ来てください……今日は、付き合ってあげます」


 パァっと明るくなるセラフィアから目を逸らして、騎士たちの整列する前へとネイトは歩いて行った。



 騎士たちの居なくなった広大な演習場の芝生の上を、暴風が吹き荒れる。


 遠くの方は舞い上がった土埃で霞み、木々がざわめいていた。


 まともに当たればネイトの小さな身体くらいなら容易に吹き飛んでしまう一撃が、2発3発と連打されている。


「ち、近づけない」


 魔術に頼っているのは明白だった。だがその上で、ネイトの進行方向、回避方向に正確に攻撃を叩き込んでくるセラフィア。


 白い頬を一筋の血が流れ落ちた。


『グラキエス・ウォール』


 剣を地面に突き立て、そこを起点に半球状の氷の壁が展開する。


 厚さは拳ひとつ程度。


 息を整えて作戦を立て直すには、十分な時間を稼げ──


『シフナス!』


 ネイトの体が、ふわりと浮き上がる。


 壁を回り込んで入ってきた突風が、ネイトだけを確実に(さら)った。


「う、うそ?!」


 巻き上げられた身体を捻り、セラフィアを捉え直す。


 しかしその時には、すでにセラフィアの剣がネイトを指していた。


『シエラ!』


 強風を直接浴びる。


 胸ポケットに隠していた手提げが、勢いよく飛び出した。


「だめっ」


 ネイトは剣を納め、自らの姿勢を顧みることなくひらひらと宙を舞う空の袋へと手を伸ばす。


 互いに吹き上げられて、近づいては遠ざかり、手を掠ってはまたどこかへ。


 なんとか手中に収めたが、その時には落下が始まっていた。体勢が悪い。手提げを掴んだまま反転する暇もなく、嫌な浮遊感に包まれながら背中から真っ逆さまに地面へ落下する。


「団長! あぶない!」


 ネイトの背中を襲ったのは激しい衝撃……ではなくむしろ、落下の衝撃を感じさせないほどの柔らかい感触だった。


(これ、お姫様抱っこ……)


「せ、セラフィア......降ろしてくれないかな」


 しばしの沈黙の後、自分の状況をようやく理解したネイトは消え入りそうな声でセラフィアに訴える。


 しかし当のセラフィアの見開かれた深紺色の瞳は、ネイトが握っている手提げに集中していた。


「団長、それは……」


「ち、違うんだよ……違わないけど、その、セラフィア。勝手に食べてごめんなさい」


 セラフィアとネイトの視線が交差する。


「食べてくださったんですね!!!」


 予想外の反応にネイトは困惑──する間もなく、セラフィアがネイトの両脇を抱えなおして天高く持ち上げた。


「降ろしてっ降ろしてってば!」


「ダメですよ? だってネイト団長は、私の焼いたクッキーを勝手に食べたんですよね?」


 にやりと微笑むセラフィア。ネイトは、たったその一言で抵抗も何もできなくなる。


「ごめんなさい……」


 セラフィアの腕の中で体を丸めるネイト。


「謝って欲しいわけじゃないですよ? それで! 早く感想を!」


「お、美味しかったです……とっても」


 セラフィアの顔が、はち切れないばかりに破顔した。


 表情に怒りや悲しみの色はなく、むしろ喜びというか安堵というか、まさしく犬ならば尻尾をブルンブルン振っているようだ。


 そしてその勢いのまま、セラフィアがネイトを持った状態で草原をくるくるその場で回りだす。


「もう一回! もう一回言ってください!」


「と、とっても美味しかったですっ」


 やけくそ気味にネイトは叫んだ。視界を占有するセラフィアがぐるりと歪んできて……目がまわる。


「や、やめっ──ふあっ?!」


 ネイトの顔を、柔らかくかつ弾力のあるセラフィアの豊満な胸が覆い尽くした。


 ──弾力が全てを奪っていく。


 ネイトの意識は、風に舞って吹き飛んだ。

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