背後に潜む化物
斉藤の絶叫に、アンダーソンは迷わず駆け出した。濡れた土を踏みしめ、折れた小枝がパキリと乾いた音を立てる。背後からは、あの粘りつくような足音が、もはや追跡者のそれではなく、世界そのものが腐敗していくかのような響きとなって迫っていた。
「もう、良いんです。」
その言葉を皮切りに老婆は、何も言わなかった。ただ虚ろな目で二人の背を見つめ、そして、その小さな背中が闇に飲み込まれていくのを、斉藤は視界の端で捉えた。
森の木々は、まるで針のように鋭く、二人の行く手を阻む。枝が顔を叩き、鋭い葉が腕を切り裂いた。しかし、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、あの足音から逃れることだけを考え、ひたすらに走った。
「くそっ、どこまでだ!」
アンダーソンの声が、恐怖に震えている。斉藤は返事をせず、懐から地図を取り出した。泥と湿気で滲んだ地図には、この施設からほど近い場所に、日本軍の地下壕が記されている。
「あそこだ……地下壕まで行けば、追っ手を撒けるかもしれない!」
二人は、もはや獣のように、森の中を駆け抜けた。足元から、ドクドクと心臓の鼓動が伝わってくる。
その時、一瞬、足音が止んだ。静寂が、まるで津波のように押し寄せてくる。
安堵が喉までこみ上げてきた。しかし、その刹那、空気が一変した。
木々のざわめきが止み、鳥の声が消え、虫の羽音さえも聞こえない。
ただ、背後から、低く、湿った声が響いた。それは、人の声のようでありながら、何かが泥の中で喘ぐような、形容しがたい音だった。
「……グギィィ……ジュリルシュ。」
斉藤は、振り返ることなく叫んだ。
「走れ!もうすぐだ!」
足音は再び、加速した。それは、もはや人間が走る速度ではない。何かが四つん這いで地面を這いずり回っているかのような、異様な速さで迫ってくる。
ついに、視界の端に、あの異形の影が捉えられた。長く伸びた腕、歪んだ頭、そして、闇の中で爛々と光る二つの瞳。それは、ただただ、二人を追いかけていた。
アンダーソンが、悲鳴のような声を上げた。
「おい、あれを見ろ!」
前方に開けた場所があった。そこには、小さな掘っ立て小屋が建ち、その入り口には、人々の影が蠢いている。そこから、かすかに人の話し声が聞こえた。
「生き残りがいるのか……!」
斉藤は、安堵と希望が入り混じった表情で、小屋の方へ走り出した。だが、その足は、あの粘りつく足音に追いつかれようとしていた。
背後で、鈍い音が響く。
「アンダーソン!」
斉藤は振り返った。そこには、地面に倒れ伏したアンダーソンと、その上に覆いかぶさる零号の異形がいた。零号は、アンダーソンの首を掴み、その指が、まるで木の根のように深く食い込んでいる。
「斉藤……行け……!」
アンダーソンの声は、もはや息も絶え絶えだった。
斉藤は一瞬、迷った。しかし、零号の背後で、小屋の入り口から、村人たちが震えながらこちらを見ているのが見えた。彼らは、希望の光を宿した瞳で、斉藤に助けを求めている。
斉藤は再び、前を向いた。アンダーソンの犠牲を無駄にはできない。
彼は、小屋に向かって、最後の力を振り絞り、叫んだ。
「開けてくれ!頼む!」
村人たちは、怯えながらも、扉を開けようと鍵をいじり、必死に格闘している。だが、錆びついた扉はびくともしない。
その時、背後から、血を流しながら這いずってくるアンダーソンの姿が見えた。彼は、もうほとんど意識がないようだったが、その手には、施設の備品であった火炎瓶が握られていた。
「斉藤……火……!」
か細い声だったが、その言葉が意味するものを、斉藤は即座に理解した。
零号はこの世のすべてを破壊する生物兵器だ。だが、生物である以上、火が通じるはずだ。
「アンダーソン!待て!」
斉藤が叫んだ瞬間、アンダーソンは、震える手で火炎瓶に火をつけた。零号が、その光に気づき、アンダーソンから顔を上げる。その虚ろな瞳が、かすかに動揺したように見えた。
「行け……!」
アンダーソンは、最後の力を振り絞り、火炎瓶を零号に向かって投げつけた。
爆発音と同時に、零号の全身が炎に包まれる。
「ギャアアアアア!」
人ではない、獣のような絶叫が森に響いた。零号は炎に身を焼かれ、地面を転げ回る。やがて、その異形の体は細胞を撒き散らしながら、ゆっくりと、しかし確実に炭へと変わっていった。
世界は、あまりに無情だ。生き物であるものすべてが、火の前には無力なのだ。
斉藤は、炎の光に照らされたアンダーソンの顔を見た。彼は、かすかに微笑み、そして、その目を閉じた。
「アンダーソン……!」
扉が開いた。村人たちが、怯えながらも、斉藤を中に引きずり込む。
「よかった……よかった……!」
彼らは泣きながら、斉藤の無事を喜んだ。
斉藤は、ただ茫然と、燃え盛る零号の姿を、扉の隙間から見つめていた。
森には、焦げた肉の匂いが立ち込め、零号の絶叫が、まだ耳から離れなかった。
しかし、これで終わりではなかった。
斉藤は、鞄の中の帳面を思い出す。
そこには零号のほかに、「壱号」「弐号」と、他の計画の記録も記されていた。
彼はある事実に気づく。
零号は、被験者第四十三号。
成功品は三体。だが、失敗作は四十二体も存在する――零号一体でさえ十分に異常なのに、その背後には、想像を絶する化け物たちが潜んでいたのだ。
胸が凍る、というのはこういうことなのだろう。
「……正気じゃない……」
斉藤は、村人たちが助かった安堵と、新たな絶望に打ちひしがれた。
奥の部屋から、彼を助け出してくれた村人の顔が見える。
その中に、一人の男がいた。
その男の腕には、何かが引き裂かれたような、奇妙な傷跡が残っていた。
そして、その男の瞳は、まるで何かに怯えているかのように、虚ろだった。




