表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

背後に潜む化物

斉藤の絶叫に、アンダーソンは迷わず駆け出した。濡れた土を踏みしめ、折れた小枝がパキリと乾いた音を立てる。背後からは、あの粘りつくような足音が、もはや追跡者のそれではなく、世界そのものが腐敗していくかのような響きとなって迫っていた。


「もう、良いんです。」

その言葉を皮切りに老婆は、何も言わなかった。ただ虚ろな目で二人の背を見つめ、そして、その小さな背中が闇に飲み込まれていくのを、斉藤は視界の端で捉えた。


森の木々は、まるで針のように鋭く、二人の行く手を阻む。枝が顔を叩き、鋭い葉が腕を切り裂いた。しかし、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、あの足音から逃れることだけを考え、ひたすらに走った。


「くそっ、どこまでだ!」


アンダーソンの声が、恐怖に震えている。斉藤は返事をせず、懐から地図を取り出した。泥と湿気で滲んだ地図には、この施設からほど近い場所に、日本軍の地下壕が記されている。


「あそこだ……地下壕まで行けば、追っ手を撒けるかもしれない!」


二人は、もはや獣のように、森の中を駆け抜けた。足元から、ドクドクと心臓の鼓動が伝わってくる。


その時、一瞬、足音が止んだ。静寂が、まるで津波のように押し寄せてくる。

安堵が喉までこみ上げてきた。しかし、その刹那、空気が一変した。

木々のざわめきが止み、鳥の声が消え、虫の羽音さえも聞こえない。


ただ、背後から、低く、湿った声が響いた。それは、人の声のようでありながら、何かが泥の中で喘ぐような、形容しがたい音だった。


「……グギィィ……ジュリルシュ。」


斉藤は、振り返ることなく叫んだ。

「走れ!もうすぐだ!」


足音は再び、加速した。それは、もはや人間が走る速度ではない。何かが四つん這いで地面を這いずり回っているかのような、異様な速さで迫ってくる。

ついに、視界の端に、あの異形の影が捉えられた。長く伸びた腕、歪んだ頭、そして、闇の中で爛々と光る二つの瞳。それは、ただただ、二人を追いかけていた。


アンダーソンが、悲鳴のような声を上げた。

「おい、あれを見ろ!」


前方に開けた場所があった。そこには、小さな掘っ立て小屋が建ち、その入り口には、人々の影が蠢いている。そこから、かすかに人の話し声が聞こえた。


「生き残りがいるのか……!」


斉藤は、安堵と希望が入り混じった表情で、小屋の方へ走り出した。だが、その足は、あの粘りつく足音に追いつかれようとしていた。

背後で、鈍い音が響く。

「アンダーソン!」

斉藤は振り返った。そこには、地面に倒れ伏したアンダーソンと、その上に覆いかぶさる零号の異形がいた。零号は、アンダーソンの首を掴み、その指が、まるで木の根のように深く食い込んでいる。


「斉藤……行け……!」

アンダーソンの声は、もはや息も絶え絶えだった。


斉藤は一瞬、迷った。しかし、零号の背後で、小屋の入り口から、村人たちが震えながらこちらを見ているのが見えた。彼らは、希望の光を宿した瞳で、斉藤に助けを求めている。


斉藤は再び、前を向いた。アンダーソンの犠牲を無駄にはできない。

彼は、小屋に向かって、最後の力を振り絞り、叫んだ。

「開けてくれ!頼む!」

村人たちは、怯えながらも、扉を開けようと鍵をいじり、必死に格闘している。だが、錆びついた扉はびくともしない。


その時、背後から、血を流しながら這いずってくるアンダーソンの姿が見えた。彼は、もうほとんど意識がないようだったが、その手には、施設の備品であった火炎瓶が握られていた。


「斉藤……火……!」

か細い声だったが、その言葉が意味するものを、斉藤は即座に理解した。

零号はこの世のすべてを破壊する生物兵器だ。だが、生物である以上、火が通じるはずだ。


「アンダーソン!待て!」

斉藤が叫んだ瞬間、アンダーソンは、震える手で火炎瓶に火をつけた。零号が、その光に気づき、アンダーソンから顔を上げる。その虚ろな瞳が、かすかに動揺したように見えた。


「行け……!」

アンダーソンは、最後の力を振り絞り、火炎瓶を零号に向かって投げつけた。

爆発音と同時に、零号の全身が炎に包まれる。

「ギャアアアアア!」

人ではない、獣のような絶叫が森に響いた。零号は炎に身を焼かれ、地面を転げ回る。やがて、その異形の体は細胞を撒き散らしながら、ゆっくりと、しかし確実に炭へと変わっていった。

世界は、あまりに無情だ。生き物であるものすべてが、火の前には無力なのだ。


斉藤は、炎の光に照らされたアンダーソンの顔を見た。彼は、かすかに微笑み、そして、その目を閉じた。

「アンダーソン……!」


扉が開いた。村人たちが、怯えながらも、斉藤を中に引きずり込む。

「よかった……よかった……!」

彼らは泣きながら、斉藤の無事を喜んだ。

斉藤は、ただ茫然と、燃え盛る零号の姿を、扉の隙間から見つめていた。


森には、焦げた肉の匂いが立ち込め、零号の絶叫が、まだ耳から離れなかった。

しかし、これで終わりではなかった。

斉藤は、鞄の中の帳面を思い出す。

そこには零号のほかに、「壱号」「弐号」と、他の計画の記録も記されていた。

彼はある事実に気づく。

零号は、被験者第四十三号。

成功品は三体。だが、失敗作は四十二体も存在する――零号一体でさえ十分に異常なのに、その背後には、想像を絶する化け物たちが潜んでいたのだ。

胸が凍る、というのはこういうことなのだろう。


「……正気じゃない……」

斉藤は、村人たちが助かった安堵と、新たな絶望に打ちひしがれた。

奥の部屋から、彼を助け出してくれた村人の顔が見える。

その中に、一人の男がいた。

その男の腕には、何かが引き裂かれたような、奇妙な傷跡が残っていた。

そして、その男の瞳は、まるで何かに怯えているかのように、虚ろだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ