零号計画
闇の廊下を進むと、鉄錆の匂いが鼻につき、一つだけ開いた扉が、底なしの闇を覗かせていた。
斉藤は懐中電灯の光を頼りに、足を踏み入れる。部屋には古びた書類と黒ずんだ木箱が散乱し、足元には踏むたびに鋭く音を立てるガラスの破片が散らばっていた。
煤けた机の上には、分厚い革表紙の帳面が鎮座している。指でそっと撫でると、埃の下から「機密 極東戦略兵器開発 零号計画」という禍々しい文字が浮かび上がった。頁を開けば、滲んだ墨の跡が生々しく、朱色の軍の印章が押され、震える筆致で「極秘」と殴り書かれた文字が、血のように目に飛び込んできた。
そこに綴られていたのは、悪夢の記録だった。
「零号、被験者第四十三号、遂に暴走す。生存の可能性、皆無。生物兵器としての適性は未だ不明ながら、その突破力、人知の及ぶ所に非ず。操作不能、人格は崩壊し、制御装置破壊の危険性、極めて大。」
斉藤は懐中電灯の光に照らされた文字を、息を詰めてなぞる。「……これは、戦争を終わらせるための、人ならざる兵器の研究だ。」
背後から覗き込んだアンダーソンの顔は、蝋のように青ざめていた。「日本軍は……こんな異形を戦場に解き放とうとしていたのか。」
斉藤は泥を払いつつ地面を探り、ふいに何かを見つけて息をのむ。
「……地図だ。だが、泥にまみれて判読が難しいな。」
アンダーソンは、その几帳面な手際に目を細め、低く唸るように言った。
「やるじゃないか。」
その刹那、部屋の奥の闇から、濡れた紙を踏みつけるような、粘りつく音が響いた。
二人が振り返ると、記録棚の奥の暗がりが、蠢く影を映し出す。
それは人の形をしていたが、異様に長く伸びた背は天井に届き、頭部は歪んで棚の上段に隠れている。闇の中で、爛々と光る二つの瞳だけが、獲物を定める獣のようにこちらを睨んでいた。
喉が引き攣り、声にならない。斉藤は震える手で帳面を掴み、無理やり鞄に押し込んだ。「行くぞ!」
絞り出すような声は、研ぎ澄まされた刃物のように鋭かった。アンダーソンは一瞬、影に釘付けになったが、背筋を這うような恐怖に突き動かされ、斉藤の背を追って走り出した。
廊下に飛び出すと、背後で紙が引き裂かれるような音が聞こえた。何かがぬかるんだ地面を引きずるような、異様な足音。それは追いかけてくるのではなく、ただ廊下の奥で、じわりじわりと近づいてくるようだった。
軋む階段を駆け上がる途中、斉藤は堪らず振り返った。そこに影はなかった。だが、闇は先程よりも深く、壁や床に黒い液体のように染み込み、蠢いている。まるでこの建物全体が、何か悍ましい獣の腹の中にいるようだった。
外の冷たい夜気が肌を刺す。二人は崩れかけた門を潜り抜け、深い森の中へと逃げ込んだ。
背後の異様な建物は、再び静寂を取り戻したかのように見える。
だが、斉藤は決して忘れないだろう。あの闇の底から覗く、二つの光る穴が、彼らを最後まで見つめていたことを。
森の奥深く進むにつれ、足元の土はぬかるみを増し、腐敗臭が鼻をついた。月光の下、地面には異形の足跡が浮かび上がっていた。それは確かに人間のものだったが、異様に長く伸びた爪先が、まるで獣のように深く土を抉っていた。
「……これ、零号の足跡か」
アンダーソンの声は、恐怖でひどく掠れていた。斉藤は足跡を一瞥し、無言で頷いた。
さらに奥へ進むと、腐葉土の匂いに混じって、焼け焦げた肉のような、吐き気を催す臭いが漂ってきた。
その臭いの先に、小さな影が蹲っている。痩せこけ、骨が浮き出た背中。破れた古びた着物をまとい、髪は泥と乾いた血で固まっている。
「……誰だ!」
斉藤が声をかけると、その影はゆっくりと顔を上げた。
深く刻まれた皺、生気を失った虚ろな瞳。乾いた唇が、かすかに震える。「……みんな……施設に連れていかれた……」
その声は風前の灯のように弱々しく、言葉の端々が恐怖で震えていた。
斉藤は息を整え、アンダーソンに向き直る。
「聞け、俺が通訳する」
アンダーソンは跪き、斉藤を見上げる。
「……何に……連れていかれた?」
斉藤は老婆の声を忠実に英語に翻訳した。アンダーソンの表情が歪む。
「……施設だと……そんな……」
老婆は震える指で、来た方角を指し示し、絞り出すような声で呟いた。「村ごと……連れていかれた……兵隊が……村の者を……」
言葉は途切れ途切れになり、目は焦点を失って宙を彷徨う。「……あれは……もう、人じゃない……化け物だ……」
その刹那、森の奥の暗闇から、再びあの粘つく足音が聞こえてきた。
老婆の目は見開かれ、恐怖で痙攣する。「来る……来る……!」
次の瞬間、木々の影が膨らむように歪み、闇が生き物のように蠢きながら、二人に迫ってきた。
斉藤は老婆の冷たい腕を掴み、アンダーソンに向かって叫んだ。「走れッ!」




