絶望の闇道
森の奥から響いていた異様な音は、次第に輪郭を帯びてきた。金属の爪が地を抉るような、不規則で、それでいて意志を持った歩み。
空気が重く沈む。夜ではないはずなのに、木々の影はいやに濃く、色という色を吸い取っているようだ。
「……聞こえるか」
アンダーソンの囁きは、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「聞こえる」
斉藤の声は低く、しかし揺らぎがなかった。彼は音の主を知っているかのように、森の暗がりへ視線を据えた。
唐突に、鳥の群れが黒い塊となって飛び立った。
その直後、一本の木が根元から折れる音が響いた。折れた断面は黒く焦げ、煙のような匂いが風に乗って漂ってくる。
「……あれだ」
アンダーソンの拳銃がわずかに震えた。
静寂。
森は再び息を潜め、しかし沈黙は安全ではなく、むしろ獣の吐息のように彼らを包み込む。
そのとき、視界の端で影が揺れた。形を定めないまま、滑るように近づいてくる。光に照らされぬそれは、眼で見るより先に皮膚で感じられた。背筋に沿って冷たい指が這い上がるような感覚。
「アンダーソン……下がれ」
斉藤の声には怒気も焦りもなかった。ただ事実を告げるだけの声。
風が止まり、葉の一枚さえ動かなくなった瞬間、影は一気に形を持った。
長い腕、異様に曲がった関節、そして何より、正面からこちらを覗き込む穴のような瞳。そこには反射も、命の光もなかった。
0号は、立っていた。
その瞳に捕らえられた刹那、アンダーソンが短く息を呑んだ。
「行くぞ」
斉藤は一歩も影から目を逸らさず、低く命じた。
0号が動く。音を立てぬまま、地面を滑るように。次の瞬間、地が沈んだかのような衝撃が足元を突き上げ、二人の身体が僅かに浮いた。
「急げ!」
アンダーソンは振り向きざまに発砲した。火花が闇を裂くが、銃声の響きは妙に鈍く、まるで森そのものが音を呑み込んでいるかのようだった。
廃れた施設が眼前に迫る。コンクリートの壁には亀裂が走り、入口の鉄扉は半ば外れかけていた。
斉藤が先に飛び込み、アンダーソンも続く。背後で、何かが金属を擦るような音が近づく。
扉を閉めた瞬間、外から低い衝撃が響いた。金属がたわみ、粉塵が舞い落ちる。
二人は互いに目を見交わすが、言葉はない。
息を整えるより先に、廊下の奥から別の音が聞こえてきた。
水が滴る音——いや、違う。何か粘つくものが這うような音だ。
照明はすでに死んでおり、闇の奥から湿った匂いが流れ込んでくる。
「……外だけじゃないな」
アンダーソンの声はかすかに震えていた。
そのとき、壁に残された手形が月明かりに浮かび上がった。
人の手形でありながら、指が一本多い。しかもそれが、壁をえぐるように深く刻まれていた。




