第四話 義村備前に連戦す
永正十五年(一五一八)十一月、赤松義村は備前三石城に向けて軍旅を発した。分国を私し、半独立勢力のごとく振る舞いはじめた浦上掃部助村宗を討つためであった。
同時にこれは、義母洞松院の後見をいよいよ脱し、守護親裁を開始した義村による初めての本格的軍事行動だった。浦上討伐は赤松分国のあらゆる階層の人々に、守護赤松義村の武威を示す絶好の機会だったのである。
置塩館を出発した義村の軍勢に続々と合流する諸侍。その数はたちまち膨れ上がった。
翻って村宗といえば、激情に任せて謀叛同然に下国してはみたものの、累代守り立ててきた主家に楯突くがごとき行いはもとより本意ではない。三石城の嶮を頼りに籠城に及びはしたが、守勢の枠を超える積極的な防衛戦術をとろうとはしなかった。ほとんど無抵抗のまま、三石城はあっという間に雲霞のごとき守護の軍勢に包囲された。落城は時間の問題であった。
「村宗が降伏を申し入れてきたらなんといたしましょう」
衣笠左京の問いに対し、義村は自らの構想を次のごとく披瀝した。
「香々登に在城する村宗が舎弟、宗久を新たに取り立てる。村宗には切腹を命じる」
捕らぬ狸の皮算用で盛り上がる浦上福立寺の義村本営。
火鉢が焚かれ、ゆるく暖かい空気が充満する福立寺の外では、各所から手弁当で参陣した播磨諸侍が寒風に凍えていた。包囲は既に二箇月に達しようとしており、守護の軍勢であることを唯一の誇りとして参陣していた播磨諸侍の士気は、見る影もなく衰えきっていた。
あるとき本陣より包囲陣を見渡した義村は、その明白すぎるほど明白な異変に驚愕した。三石城を取り囲むようにずらりと並んでいたはずの旗指物が、ごっそり数を減じていたのである。聞けば包囲の諸兵が許可もなく続々と陣を引き払っているというではないか。
「なぜだ!」
無断で帰国しようという一党の袖を引っ張って詰問したところこうだ。
「松田将監殿が後詰めに押し寄せてくるっちゅうもっぱらの噂や。挟まれたら堪ったもんやあれへん。お歴々も早よう逃げなはれ」
松田将監といえば備中の有力国人である。確かにこれが村宗に味方して三石城の後詰めに現れたらただでは済むまい。
これは窮した末に籠城衆が流した雑説にすぎなかったが、陣中に蔓延していた厭戦空気と相俟って、包囲陣に及ぼした影響は甚大であった。こうなってしまえば義村がとるべき方策は二つに一つであった。
強攻めに訴えてでも三石城を攻め落としてしまうか、このまま虚しく陣を引き払うか。
軍議の結果、既にやる気を失い、数を減らした諸兵の尻を叩いたところで勝利は覚束ないとの結論に達し、撤退と決した。同年十二月晦日のことであった。
「義村は負けたのか」
義村が帰陣の挨拶のため若公御座所に出仕するや、亀王丸が放ったひと言がこれであった。
「ご冗談を。こたび出兵は村宗の増長を懲らしめるためのものであって、もとより浦上は我が臣下。敵ではございませぬ。敵も味方もなく、したがって勝ちも負けもございませぬ。ご安心召されよ」
そう言って強がってはみたものの、これなん明らかな詭弁であった。播磨諸侍を糾合して三石城を取り囲んだ義村は、二箇月にも及ぶ包囲攻城戦の末、なんの得るところもなく撤退を余儀なくされたのである。村宗を討伐するという所期の目的を達成できなかったのだから敗北といわれても仕方がなかった。
子ども相手に詭弁を弄して切り抜けたつもりの義村だったが、面目を潰された以上、いよいよ村宗を滅ぼさずにはいられなくなってしまった。
翌永正十六年、義村はかねてより温めていた人事構想を香々登城の浦上宗久に打ち明け、村宗討伐に成功したあかつきには新たに備前守護代に任ずる旨の好餌を以て謀叛をけしかけたが、これは同じく香々登に在城する浦上の家老、宇喜多能家の察知するところとなり、謀が成就する前に宗久は城を逐われた。
「力で及ばなかったから詐術を用いたのだ。情けない守護じゃ」
外聞の悪い噂話が国内のみならず近隣にまで広がっていた。家臣を懲らしめるために詐術を弄したというだけでもみっともないのに、それが失敗したのだから義村にとっては恥の上塗り以外の何ものでもなかった。
同年十一月、義村は再度三石城攻略の軍勢を発したが、昨年にも増して防備を固め、待ち構えていた堅城三石はいくら囲んでも落ちる気配がなかった。包囲の諸兵は昨年同様寒風に凍え、翌月になると香々登城の宇喜多能家が二千の精兵を率いて和気郡安養寺まで出張ってきた。今度は雑説ではなく事実であった。宇喜多の後詰めを警戒した義村は翌正月二日、またも撤退を余儀なくされた。
『実隆公記』には次のごとくある。
播州陣敗破、浦上勝利、和睦之由、去五
日注進云々
誰の目にも義村の敗北は明らかだった。