7
安政元年の収穫時期間際に、幕府は弘前藩へ、留萌から天塩にかけての蝦夷地開拓の許可と警備を命じた。
今から蝦夷地に行ってもすぐ冬になり。出来ることはあまりないので、オビラシベでホタテ養殖場のための伐採を、トマオマイとマシュケで和人向け農地の拡大のための焼畑の準備を、アイヌと共にやってもらったぐらいだ。
この『アイヌと共に』というのが鍵だ。
先住民たる彼らは、住むその土地のことをよく知っている。だから土石流が発生しやすいような地盤の弱い場所を伐採してしまうことを避けられたり、その土地固有の有用な植物を知れたりするのだ。
そうした先住民たる彼らの知恵を尊重するだけで、開拓は楽に進む。共に開拓しつつ、徐々に我々のやり方に慣れてもらう。まあ三〇年はかかるだろうけれど、アメリカ人やオーストラリア人みたく先住民を皆殺しにするよりもスマートで確実な手だ。
ただ、一部のアイヌは金銭でのやり取りを理解出来ない、という不穏な情報が入ってきているので、そこが不安要素ではある。
安政二年の雪解け。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
花子が蝦夷へ旅立った。
帆立屋の蝦夷地開拓は、南から
・マシュケ
・ルルモッペ
・オビラシペ
・トマオマイ
・ハポロペ
・ソウサンベツ
・ウェンペッ
・テシホ
の八地区に区切り。マシュケの出張番屋を拠点とする形で始まる。
第一期の人員は、武士の家から追い出された部屋住みの男女ばかり四〇〇人。マシュケとトマオマイに一六〇人ずつ、オビラシベに八〇人の配分だ。
マシュケとトマオマイの開拓地は、今年は焼畑の焼いた畑を四分割して、小麦・テンサイ・大豆・ジャガイモを育ててもらう。焼畑なのでいきなり輪作に入るのだ。
小麦・大豆・ジャガイモは開拓民の食事に。テンサイ糖はいつの間にか広まっていた『経口補水液』で需要が高まっている砂糖として稼ぎに。テンサイ絞りカスと大豆鞘は家畜飼料に。麦藁は色々使えて便利。
それから農地にやや向かない場所で、傾斜地ではハスカップやヒマワリといった商用作物を、傾斜が緩やかな場所では乳牛を育てさせる。
みんな大好きノーフォーク農業はやらないのか、って? 開拓する場所がちょっと山がちなのでクローバーの牧場に無理があるかなー?
で、オビラシベでは帆立をガンガン養殖して干貝・ヒモ・貝殻肥料・内臓肥料を作ってもらう。干貝は金策に、ヒモは開拓民のご飯に、二種類の肥料は開拓地に回す。
また、オビラシベに既に住んでいる和人とアイヌからは『積極的な協力』をすると約束して貰えたので、こちらの開拓は彼らに任せる。なので新規入植者の優先度は低いかなー?
で、一番手っ取り早くお金になるサケ漁はアイヌに任せる。そこまでやる人手はない。まあ花子に人口受精からのふ化放流のやり方は教えたし、岩木川を遡上してきたサケで実習もさせたので大丈夫でしょう。
なおその実習のために、五両でテキトーに作ったサケのふ化放流場は弘前藩に一〇両で買い取られた模様。
開拓の初年度を焼畑することで色々省略するのが肝だ。そして焼畑の知見に関しては、現地のアイヌに持っている部族がいたのでそれを頼る。
肝心要の部分をアイヌに頼ることで、和人がアイヌに持つ侮蔑の感情を軽減させるのが目的だ。どこまで効果があるのかは不明だけれど、やらないよりマシだろう。
マシュケとトマオマイ、オビラシベの初期開拓は三年から五年で終えて。その頃にはヒマワリ油にその絞りカス(飼料になる)、ハスカップ、干貝で利益が出始めるはずなので、それを投じてルルモッペの炭鉱の試掘を行いつつ、ハポロペからテシホの、開拓予定地としては北になる地域に入植。
狙うは石炭だけれど、ここでは焼畑からのジャガイモ・タマネギの輪作をやってもらう。
また、開拓民が希望すれば、乳牛を育てる手配もしている。お酢と牛乳でカッテージチーズを作り、モンゴルの乾燥チーズ『アーロール』風に加工して日本本土に売り。ホエーはリコッタチーズにして開拓民に消費してもらう計画だ。
その他細かな修正は花子がやるけれど、相談に乗れるよう、追加の援助を行えるよう、私は稼がないといけない。
さて。
夏泊山地の桑が育ったことでより多くの蚕を育てられるようになり。
水車動力による高品質な生糸の紡績が成功、カピタンが中々の値段で買ってくれるようになり。
梅子の奮闘により、繭から生糸へのロスであるボロ真綿の回収率が四分の一から三分の一に向上したことで摩耶布の生産量が増加。それでなくとも生糸生産量の増加に連れてボロ真綿の生産量が増加。
これらの要素により、帆立屋の利益は中々凄いことになっていた。
特に生糸は下田と函館の仮開港以来高騰が止まらず。一斤六両でカピタンが買ってくれることから、帆立屋は生糸だけで年間四五〇両の稼ぎを上げている。しかもこれ、外貨である。おまけに、価格が落ちる見込みがないとカピタンもオランダ商館から紹介されたイギリス商人も頭を抱えている。
干貝の利益は年間一〇四両であるので、生糸関連の売上はその六倍近くになり、更に増えそうだ。
『帆立屋じゃなくて生糸屋になるな!』
そんなジョークが社内に出回るほどである。明治政府が生糸生産につっ走るのも理解出来るよ。
なので、今は夏泊半島各地のはげ山を桑畑に『開拓』しているところ。周囲には生糸目的の投資だと思われているけれど、狙いは『はげ山の削減』にある。
はげ山。
それは日本における工業と農業の最大の敵だ。
保水力がないはげ山は、ちょっと多めの雨が降る度土石流を発生させて下流域に被害をもたらす。この被害を受けるのは、必死に開拓した田畑であり、必死に資金を投入した工場である。
水車動力の紡績機とその工場を平内近辺に投入してしまった以上、はげ山に植林して山を安定化させないと、土石流でそれらの工場が駄目になりかねないのだ。
でも、ただ木を植えるだけでは帆立屋に直接の利益にはならないし、薪や炭にと伐採されかねない。
そこで『お金になり』『食料生産にもなる』伐採されにくい桑を植えることで、利益を出しつつ治山に励もうとしているのだ。
……本来治山は藩や幕府が考えることなんだけどね!