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万延元年一一月。イギリス・フランス連合軍と清の間で四年ほど続いていた『アロー戦争』が終結した。
本土から遥々やって来たフランス軍二万人と、グルカ兵を主体とするイギリス軍一万人が、コーチシナ方面から侵入する形で始まったこの戦争。
清は『太平天国の乱』の裏での戦争、程度の認識であり。また国民が死ねば死ぬほど工業化のための外貨獲得のための穀物輸出が捗る、という認識だったらしく。まともな訓練も受けさせず、まともな装備も持っていない、低賃金で雇った傭兵三〇万人と正規兵五万人で英仏軍と戦った。
雇われた複数の傭兵団の動きが良かったらしく、緒戦でフランス兵一万人とグルカ兵二千人が一方的に殺された。しかしフランスは本国で溢れていた貧民から義勇兵を動員。うち三万人がコーチシナに上陸し、二万人が本隊と合流した。
傭兵団は河川や山岳といった地形を巧みに利用し、弓・弩・槍・剣主体の武装で英仏軍と互角にやり合った。
しかし、資金力と軍事技術の差にゆっくりと押され。日本の暦で万延元年の夏、北京目前まで迫っていた英仏は降伏勧告の使者を清に送る。
清はやって来た使者を拘束しようとした。うち捕らえることの出来た一一人を拷問の後殺害。その死体を北京市街の外れ、英仏軍の目の前に晒すという蛮行に出る。グレゴリオ暦一〇月四日のことだった。
激怒した英仏軍は、その日のうちに北京市街地に立てこもる清正規軍に攻撃を仕掛けた。
英仏軍の猛攻に、清正規軍はゆっくりと北京市街地の中心部へと退却を続けるだけ。
「何かがおかしい」
英仏連合軍の誰もがそう思った、一〇月五日の正午。英仏軍は四方八方から中国語の鬨の声を浴びた。
「罠か!」
そう気付いた時にはもう遅く。英仏軍は包囲されてしまった。
英仏軍はなんとか北京市街地に立て籠もるも、多勢に無勢。一人残らず殲滅された。
この『北京決戦』もしくは『北京大虐殺』により、アロー戦争は清の勝利で終わったのだ。
北京郊外に掘られた、英仏兵の死体が雑に放り込まれた大穴の前で、英仏大使は屈辱的な『北京条約』を結ぶことになった。
北京条約により、南京条約の附属協定と黄埔条約で定められた、英仏が清に対して持つ『領事裁判権』『片務的最恵国待遇』『協定関税』は撤回された。
『何でそんな話を私にしているのですか?』
ティータイムに付き合っていた素公留塾のイギリス人教官達が、何故かアロー戦争の流れを説明してきた。あまりに唐突で不自然な話の展開に首を傾げると、イギリス人教官の代表となっているウィリアム・マーシャルが苦笑しつつ解説を続ける。
『この戦争において、派遣軍は華南の穀倉地帯を抑えておりました。しかし、清の破壊工作により思うように収穫は進まず、住民も派遣軍も飢えるところでした』
『ふむふむ』
『そこで派遣軍は、ロシア・シャムそして薩摩藩から食料を調達しました』
『ん?』
それはおかしい。
『薩摩藩から? あの藩が外国に売れるほど豊作だったなんて、聞いたことがありませんが』
『ええ。……この戦争の終盤に発覚したのですが、どうも薩摩藩は琉球の伝手を通じて清から穀物を得て、派遣軍に転売していたようで』
リスクも高いけれど、上手いやり方を薩摩藩は取ったなあ、と感心するも。
『まだ話が見えてきません』
『ええ、ええ。ここからが重要なところなのです。本国は薩摩藩に、産業の支援をする代わりに転売を止めさせる密約を交わしました。しかし、毎日のように火山灰が降り注ぐ環境のせいで、産業支援が上手くいかなかったようです。
そこで本国は、日本と伝手のあるイギリス人達に『薩摩藩の産業の支援』を呼び掛けておりまして。この報奨金が小遣い稼ぎとしては中々美味しいので、帆立屋さんにも声をかけた次第です』
『なるほど』
流れは理解した。けれど薩摩藩まで手を伸ばす人的・資金的な余裕がない。
(義理でアイデアだけ出してお茶を濁そうそうしよう)
そう決めて発言する。
『火山灰と言えば、教皇領の古い建築物に火山灰を使ったコンクリートがあると聞きますが、それは使えないのですか?』
『教皇領の? ……ああ、ローマンコンクリートのことですね。あれは固まるのに二〇年はかかるので、建物には向かないのですよ。あれよりも我が国のポルトランドセメントの方が使い勝手が良いですよ?』
『今すぐポルトランドセメントは、我が国の技術力的に無理でしょう。それに建物は無理でも、防波堤に、なら使えるんじゃないですか?』
『ふうむ? 火山灰の質にもよりますが、使えるかもしれませんね。他にはありますか?』
『他にはー、楠園でも造って、安定的に樟脳が得られるようにする、くらいしか思い付かないですねえ』
『樟脳! それは良い!』
マーシャルは手を叩いて喜び、イギリス人教官達はウンウンと頷いている。
『人口の急激な増加に伴って、衣服の需要も増しています。その中で防虫剤となる樟脳は間違いなく売れます! 早速本国に連絡を取りつつ、薩摩藩に根回しせねば!』
イギリス人教官達は大盛り上がりだった。