17 安政七年~万延元年
安政七年年始は、幕府がイギリスオランダから『日本領である小笠原諸島の安定的な統治』を求められて承諾した、というニュースから始まった。
主にイギリスによって開発されていた小笠原諸島。イギリス本土から遠すぎ、近場に支援可能な拠点のない未開の島の維持管理は、負担でしかなかったそうだ。
『不良債権の処理ですね』
素公留塾のイギリス・オランダ人教官は小笠原諸島に関係する外交交渉をそう評していた。
小笠原諸島の日本領認定は外交上大きな意味がある。欧米人が日本を『領土管理程度なら任せられる』と評価したという意味なので、もし今後日本が欧米列強の植民地と化したとしても、植民地や自治領ではなく保護国扱いになる可能性が高くなった、ということなのだ。
易しく言うと、日本が欧米の植民地になっても、一応国としての体裁は保たれる、ということかな?
アジア人の国としては中々の高評価をされた訳だけれど。幕府が『砂糖の生産地が増える!』程度の判断で引き受けたらしいのが不安材料ではある。
これに伴い、小笠原諸島に住むイギリス人のうち、希望者を日本人として帰化させる必要が出た。そうしないと幕府からの行政サービスを受けさせたり徴税したりするのに手間が増えるからだ。
幸い、和人以外を帰化させる事業は、蝦夷開拓地のアイヌで実績があるし、イギリス大使も協力してくれる。問題はあれど、対処可能な範囲だった。
また、ロシア帝国との国境線を決めるための話し合いもなされている。
ロシアの貧民入植者が横暴な態度を取ったため、樺太の先住民たるアイヌ・ウィルタ・ニヴフが完全に日本寄りの姿勢を見せており。またソウヤ地域がほぼほぼ日本に編入されたことから、樺太との貿易も活発化しつつある。
そのため、少なくとも南樺太は日本領だ、という意見が国際世論を占めるようになっており。そのため、ロシアとしては樺太の旨味がなくなってしまっているのだ。
現在ロシアが狙っている沿海州が手に入ったと仮定すると、冬場でも沿海州から海路を通じてカムチャツカ半島東岸にアクセス出来るようになる。その海路上にあるのが、津軽海峡と宗谷海峡、本州・蝦夷地との海峡と、蝦夷地・樺太との海峡だ。
蝦夷地と南樺太が日本領なら、沿海州からカムチャツカ半島への海路を全て日本に抑えられてしまうため、ロシアとしては樺太を得る利点がなくなる。農業畜産業に不向きで今のところ石炭程度しか資源がない樺太の旨味は、好漁場たるカムチャツカ半島との海路の要衝、程度でしかないからだ。
同様に好漁場たる千島列島の利点も、ロシア本土と繋がれなければ、寒いだけのただの島だ。まともな冷凍庫付き砕氷船でもあれば、話は変わってくるのだけれど。
そのためロシアとしては、既に樺太と千島列島を不良債権と見ており。貿易拡大を餌にこれらの地域を押し付ける方が利になるのだ。特にこの食料不足の中、グレート・ゲームで争っているイギリスとの外交関係が改善される利点は見逃せない。
イギリスとロシアのどちらが日本を引き込むのか、という争いは終わらない。けれど直接的にロシアが日本列島を獲得する、という行動を取らなかったというだけで、イギリスは安心感を得られるらしい。
……樺太に入植を済ませているロシア人貧農が日本にとって樺太統合の邪魔になるだろうし、冬場は流氷を伝って大陸から樺太へ渡れるから、樺太に不法に移民するロシア人は減らない。樺太を日本に整備させてから『樺太在住のロシア人への弾圧』を理由に攻め取ろう、という意図もある。とは素公留塾のイギリス人教官の意見だ。流石帝国主義の時代、喧嘩っ速いなあ。
小笠原諸島・樺太・千島列島が日本の領土に確定したことを記念として、安政七年三月、暦が『万延』に変わった。
確か史実では、安政末期に大老井伊直弼が桜田門の外で暗殺された事件があったはずだけれど。経口補水液の騒動によって攘夷派が消滅したことで、そんな事件は起こらなかった。
というよりも、日常生活程度の商売が分かる人物なら、彼を暗殺しようという気が起きない状況だった。
まず、開国に伴って発生した通貨交換比率の問題を、カピタンの協力を得ることで抑え。その根本的解決のために『安政小判』への改鋳を進めたことで、市民の生活を守った。この功績は間違いなく大きい。
次に、開港に伴い生糸の流出・高騰が起こったことを理由として、欧米諸国から『養蚕・紡績に関する投資』を呼び込み。それによって生糸生産工程が見直され、品質が向上しつつあることも中々凄い。買い叩かれていた生糸の値が上がったことで、商人も農民も彼に感謝している。
生糸の件については、弘前藩内のハゲ山を桑畑に変えつつ、養鶏場も増やしている我ら帆立屋も貢献している。初期型の水車動力な紡績機の生産技術を幕府に売ったのだ。
欧米から紡績機を購入するより安く済んだと、秘密裏に感謝状が届いているので、役に立てたのは間違いない。
彦根藩内において、井伊直弼自ら商家に命じて『ホンモロコの養殖』と『水菜の水耕栽培』を成功させた記憶も、人々の間では真新しい。
欧米諸国と交渉し日本の工業化を目指すだけではない。日本独自の技術をもって生活水準の向上を図る姿勢が、欧米の技術を導入するだけの『雄藩』、具体的には、薩摩藩・長州藩・肥前藩・土佐藩・宇和島藩・福井藩と対比されて高評価を受けているのだ。
残る雄藩の会津藩・弘前藩(!)も、欧米諸国に関係のない、日本独自の産業を振興しているとして評価が高い。
弘前藩は帆立屋がやってきたことなので省略するとして。
会津藩は欧米向けに漆器と絵ロウソクを売ることでかなりの利益を上げている。函館で帆立屋がやっているお店の、焼き鳥の皿に会津の漆器を使っているのだけれど。その関係で『会津漆器』の名が欧米にひっそりと知られるようになり。
函館・下田に寄港する船員のお土産に会津漆器が買い求められているのだとか。絵ロウソクはついでに店頭に置いたら売れるようになった、と。
出来るだけ華やかで安い漆器を探した結果、たまたま会津漆器を使うようになっただけなんだけれど、思わぬ宣伝になったようだ。
会津藩の成功を受けて、東北諸藩は漆器の増産に取り組んでいるらしいけれど、問題も多いとか。
漆の木はなんとかなるけれど。木材となる杉・檜・欅・栃は育つのに時間がかかる。また、肥料のための草刈り場なハゲ山が、現在進行形で桑畑に変わりつつある。つまり、材木林と桑畑で競合が発生している。
そのため、ハゲ山の取り合いという笑えない事態が東北各地で引き起こされているのだとか。
落ち葉を肥料に転用することを考えると、欅と栃。更に食料生産も加味するなら栃一択になるだろうけど、どうなるだろうね?




