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安政五年四月、近江彦根藩主井伊直弼が大老になった。
五月、日蘭修好通商条約が締結される。
「あれ?」
何かがおかしいと、私は気付いてしまった。
調べてみたところ。
まず、幕府が朝廷に対して『修好通商条約を結ぶ許可を得よう』という動きを全くしていなかった。確か史実ではそんな動きをしたのに許可無しで調印したのが問題になったはず。
次に、永代租借権、オランダ人が日本の土地を半永久的に借りられる権利が、史実ではあったはずなのになかった。代わりにオランダ人は、その土地を領有する藩と幕府から許可を受けて、地租を払うならば土地を借りられる、という風に変わっている。
確かこれが解消されるのは第二次世界大戦頃の話なので、この変化はとても大きい。
領事裁判権の規定。これもない。
関税自主権。なかったはずのこれはある。
踏み絵とアヘン交易の禁止。これは史実通り。
つまり、オランダと日本の間の不平等条約が、和親条約以上に拡大されなかったのである。
その上で、函館・下田・長崎にオランダ人に貸し出せる土地として『居留地』の用意が出来たとして受付が始まり。和親条約で定められた片務的最恵国待遇についてなくす方法で話し合いがされているとか。
弘前藩の家臣達からの情報によると。
「メリケンに大きな顔をされたくなかったオランダと幕府の方向性が一致した」
らしい。
幕府の権威は、欧米の国相手に対等な条約を結べたことで高くなったそうな。
歴史変わり過ぎだよこれ。
修好通商条約は、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、プロイセンと続き、一一月にアメリカと締結したことで、一旦条約ラッシュは終わる。そのどれもが日蘭修好通商条約を元にしたもので、不平等条約どこ行った? という感じだ。
『何でなんでしょうね?』
素公留塾の教員であるイギリス人に尋ねると、彼はため息をついた。
『それはだいたい『経口補水液』のせいだ』
『経口補水液? あれそんなに凄いの?』
重湯があるから、そんなに凄い技術だと思わずに作った、塩と砂糖と湯冷まし水から作るなんちゃって経口補水液。一〇年前下痢に苦しんだ時に作り、今では重湯の代替品として普通に見られるそれが歴史を変えるほどのものとは思えない。
『……吐瀉と下痢は多くの人を殺しているのだ』
『うっそ』
吐瀉と下痢なんて、重湯飲ませるだけでもかなり改善するのに?
『嘘ではない、事実だ』
だとすると……。
『死亡率が急激に下がることで人口が爆発的に増える。そうなると食料品の価格が高騰するから、米どころである日本のご機嫌取りをしたかった……?』
『そういうことだ。イギリスロシアフランスオランダで紳士協定が結ばれた程度には大事件だったんだぞ?』
イギリス教員は強く頷いていた。私は頭を抱えた。
付け加えるならば、日本では蝦夷地の開拓も、マシュケからテシホにかけて成功しつつある。しかもそこの主な作物は欧米人に馴染みのあるジャガイモ。
となると、下手に日本を植民地にして一〇年単位で食料生産効率を下げるよりは、友好国として米を輸出してくれる方が欧米諸国としては助かる。
そんな思惑があったのだろう。
(やべえ歴史が変わり過ぎる)
こうなると、本っ当どうしようもない。うろ覚えの歴史知識がゴミに変わる。
(こうなったら、この世界は史実に似ただけの異世界だと思って動く方が良いかも?)
ならどうするのが良いか?
「久保田藩の管轄であるソウヤ開拓の許可……?」
「はい」
老齢と蝦夷地警備の名目で弘前城にいることを許され。隠居に向けて動いていた弘前藩主津軽順承と面会を取り付けた。
「確かルルモッペとハポロペの開拓が始まったところで、ソウサンベツ・ウェンペッ・テシホの開拓は準備段階であろう? だのにもう次の開拓地の許可が必要だと?」
「はい。帆立屋のやり方では、開拓に先立ち地元のアイヌを懐柔する必要があるので、開拓許可を早期に貰っておく必要があるのです」
「なるほど。それにしても急ぐな。何故だ?」
「……蝦夷地開拓を急がねば、日の本が欧米諸国の奴隷になりかねないからです」
「どういうことだ?」
「どうも欧米諸国には、経口補水液どころか重湯もなかった模様」
「経口補水液というと、腹を下した時に飲むあれか。それがどうした?」
「欧米では、腹を下した時スープという味噌汁のようなものを飲んでいたそうですが、それよりも重湯の方が、重湯よりも経口補水液の方が、腹下しによく効くそうで」
順承は呆けた後、恐怖に震え始めた。
「つまり何だ? 我が国が開国してしまったことで欧米諸国の人口が増えるというのか!?」
「はい、それも急激に」
未来でもそうだが、人口は力だ。特にこの時代は、人口がそのまま軍事力・生産力・経済力になる。今でも強大な欧米諸国の人口が増えれば、その力はますます高まり。今でも日の本は勝てないのに、このままでは勝ち目どころか引き分けにすら持ち込めなくなる!
「殿、このままでは日の本は欧米の奴隷となり下がります。今動けば、それを避けられる可能性が高まります。ご決断を」
順承は唸り、苦し気に頷いた。
「いかぬ」
「殿!?」
「このことは幕府にも上申せねばならぬ! ソウヤの開拓はその後の話だ! ……だが、出来る限り帆立屋がソウヤ開拓に当たれるよう、尽力する」
順承が言う手順は最もだし、これ以上条件が良くなるはないだろう。
「感謝します」
私は頭を下げるしかなかった。