幕間 バーにて
此処は、管理局正職員用の施設。
鉄道車両1両程のサイズの部屋に、いくつかの椅子。棚には各地から集めた無数の酒。
いわゆる〝バー〟と呼ばれる場所。しかし、バーテンダーと呼ばれるような職員はいない。
大体、誰かが勝手に訪れ、勝手に酒を飲んで、憂さを晴らして帰る為の、独白の場。
時は深夜、2時を回った頃。
其処には一人の女が居た。彼女の名は、アスカ。
グラスに注いだ褐色の液体に、丸い氷を浮かべつつも、彼女はそれに口をつけることはなく、俯いている。
一体どれほどの時間、こうしてただ座って、考え続けるのか。それを知る者は誰一人として居ない。
はずだった。
「――あら、珍しい所で会うじゃないの」
小さな鈴の音と共に、扉が開かれる。
普段、この時間、こんな場所を訪れる者はそういない。出来れば誰にも会わず、誰とも話さず、黙って時間を過ごしたい。
だからこそ、此処を選んだというのに。
そういう時に、こういう時だからこそ、一番〝会ってはいけない〟存在が、その部屋を訪れた。
訪れた男の名は、タナトス。
冥府の王、12世界の冥界を司る者、全ての煉獄の監督者。そして、アスカの古い馴染み。
だからこそ〝会ってはいけない〟……そう思っていたのに、男は訪れてしまった。
「――アンタ、酒激ヨワなくせに。何してんのよ」
「飲めないけど、飲まない訳じゃないわ。ターちゃんだって飲まないくせに何なのよ」
「アタシは飲めるもの、飲むべき時を弁えてるだけ」
簡単な応酬の果て、隣に男が腰掛ける。
男が指を鳴らすと、彼女の前にあるグラスと液体、それと同じようなものが、男の前に現れた。
「とりあえず、ウチの仕事は終わったわ。そっちは?」
「こっちも同じ。八方手を尽くして、ようやく落ち着いたところ。皆は先に帰したけど、私は今日は泊まり込み」
「そう、待機中に飲むなんて、悪いコだこと」
「良いじゃない、どうせウチがやることは殆ど終わったんだから」
二人の議題は、本日発令された緊急指令。
ある世界を滅ぼすための準備。他の世界に影響を及ぼさない為に、一部の世界を意図的に滅ぼすという、悪性部位を切除するかの如き振る舞い。
お互い、何時まで経っても慣れるようなものじゃないが、割り切ることは割り切れている。
それでも、思う所はあった。割り切れない部分も、少しは残る。
だから、こういう場所に来て、こうして心をリセットする。そうでもしないとやってられない事は、ある。
「……あの子、寄越してくれて助かったわ。居なかったら今も仕事中よ、ありがとね」
「良いの、彼にとっても良い経験になったと思う。それに、いつかはやらなきゃいけないことだもん」
男の話題は、アスカの部署に入った新人に移る。
今日、その新人はアスカの指示で男の部署の手伝いに行っていた。
世界を滅ぼすということは、その世界に存在していた命や魂を、そっくりそのまま消滅させることを意味する。
しかし、今回に限っては、違った。
その世界には、魂と呼ばれるものが殆ど無くなっていることが判明したのだ。
その調査と、原因の究明、そして僅かに残った魂の回収を新人に手伝わせていた。
「ふゥン……――でも、アンタはちょっと後悔してそう。違う?」
心の中を見透かしてきたかのように、男は笑みを浮かべながら、顔を合わせずに言葉を投げる。
女のグラスを握る手が、少しだけ震えた。
「あのコは何時だって〝よりよい〟選択を選ぼうとする。誰かにとって、目の前の相手にとって、よりよい存在であろうとするわ」
「可愛い可愛い着せ替え人形、望まれた者に、望まれた様に成り果てる、使い捨ての粘土細工」
「そう在るべき、そう成るべきなんて――まるで呪いね。だからこそアンタは〝逃げて〟欲しかった。あのコ自身の為に、逃げるという選択肢を取って欲しかった、そうよね?」
「……――だからこそ後悔してるんじゃない? どうであれ、あのコが〝逃げない〟なんて選択をしちゃった、って」
男がつらつらと言葉を重ねる。答えるように、女の表情は自嘲気味に、唇が歪み。
彼の言葉は、彼女の心の内側を見透かすように、その思いも、意図も汲み取ったものだった。
「……勝手に権能使って人の心読まないでくれる?」
「やぁねぇ……権能使わなくても分かるわよ。こう見えて、人生経験豊富なのよ? アタシ」
男がグラスに口を付けながら笑う。
からり、とグラスの氷が揺れて音を立て、また一瞬の静寂が訪れた。
「はあ……そりゃ何千年も生きてりゃそうでしょうよ。うらやましい限りだわ」
「ヤッダ! アタシはもう〝生きてもいないし死んでもいない〟わよ! それに――」
男の言葉を遮るように、彼女は口を挟む。
手に握るグラスを握り砕かん勢いで、腕に力を込めながら。
「それ以上言ったら本気でぶっ飛ばすわよ。久々に関節技からのフルコース、キメてあげようか?」
「ヤダこわい、そーんな顔しなーいの♪ 女の子は可愛い顔が素敵なんだから」
冗談めかして笑う男の顔。
こうして笑う男のそれは、端正で整っているからこそ質が悪い。
外見という印象の、口調という認識の詐術を駆使し、人の思考を誘導する。
それでいて、己の本質そのものは隠さず、見ようとすれば見れるようなところに置いておく。
〝見ようとすれば見えるが、見ようとしなければ見えない〟というのが、この男の立ち回り。
――これが、この男の立ち振る舞い。常に優雅に、美しく、エレガントに。その為に己を取り繕う。
それが主たる者の務め、力ある者、高貴なる者は常に優雅たれ、という己への誓い。
幾年も前から、変わらない。長い付き合いだから分かる、それが変わらないという強さがある。
だからこそ、質が悪いというものだと、女は知っていた。
「ターちゃんってば、昔っから変わらないんだから、そういうとこ」
女の内心を知ってか知らずか、男の話題は新人のそれへと戻り始めた。
「でも今日は――あのコ、すっごいイイ顔してたわよ。初めて見た時なんかとは全然違ってね」
「辛さも、痛みも、ちゃんとしっかり受け入れて、それでも諦めずに、前を向いて〝選択〟した顔」
「英雄や傑物なんていう、意志、期待、希望の成れの果てなんかじゃない。今よりも前へ、もっと先へという本当の人の顔」
「そして、全て自分の責任で……あの世界を滅ぼす、って決めた顔」
男の、最後の言葉が、その厚みが、アスカには妙に気に掛かった。
しかし、すぐに男の調子は何時もの軽さへ。
「……もーほんっと、あと5歳くらい育ったら食べちゃいたいわ♪ いろんなイ、ミ、で☆」
「……うちの新人に手出さないでよ?」
――またすぐ、そうして茶化し始める。
言いたいことを言い切っておいて、終わった後には場の雰囲気を変えるような言動。
女はため息をつきながら、グラスから手を離した。
その様子に満足したように、男はまた、笑みを浮かべる。
「やーねぇ、冗談よ、冗談……でもあのコの実年齢、確か30超えよね、一回くらい脱いでくれないかしら? きっと丹念に仕込んだらいい感じに……」
「ちょっと!? ほんっとにうちの新人に手出さないでよ!? その時はアスカ・スペシャルだけじゃ済ませないからね!?」
―――――― ◆ ◆ ◆ ――――――
「それはそれとしてだけど……あのコの受け入れ、正式に決まったの? そろそろ3ヶ月でしょ?」
談笑の末に、思い出したように。
男の話題は、先の新人のまま、果たして彼を受け入れるのかどうかというものへ変わる。
それを受けた彼女は、少し険しい顔をした。
「うーん、それがね……天文部が何も言ってこないのよ」
「あら、普段なら1ヶ月もすれば有り無しの上申があるのに?」
〝管理局〟における、正式採用人事の決定権は主に天文部が握っている。
彼らが見た、それぞれの新人が持つ因果が管理局に適しているかどうかを、天文部は観測した後に、各部署へ通達する。
今回はその通達が来ていない、と彼女は言った。
「そ、しかも……これ見てよ」
続けて、彼女は一枚の紙を取り出した。
表面には〝天文部:特命依頼〟と記載されている。
それを見た男は驚愕とも、侮蔑とも取れるような表情を浮かべる。
「……うっわ、何コレ」
「天文部からの出張指示……しかも、彼ご指名でね。そろそろ代替わりの時期だと思ってたけど、わざわざ彼を行かせる理由が分からないわ」
書面に記載されていたのは、第9基幹世界への出張指示。
原初の14神、第9世界を治める神が、代替わりする為にそれの見届け人を派遣せよ、という内容のもの。
なかでも異色、と言えるのは此処までの話題に出た、新人を指名するものだったということ。
「何考えてるのかしら、あの星見共。絶対良くないこと考えてるのは間違いないけど」
「何時もの事でしょ、あーもう……今回の世界廃滅の件だって、彼があの世界に行くこと先に知ってたと思う」
「本来、縁の無い別世界への移動って結構大変なのに、わざわざ接続可能な術式仕込んだカードキーまで用意してからに……」
後から思い返してみれば、辻褄が合う。
タイミング良く、第7世界群への調査依頼が入っていた。しかも〝もし誰かに行かせる場合のために〟と、特定の世界との移動を可能にするカードキーまで貸し出されていた。
全て予測の範疇、手のひらの上で踊らされていたという実感。
それが彼女を苦虫を噛みつぶしたが如く、苦々しい表情へ変える。
「未来観測は連中の十八番だものねぇ……どーすんのよ? これ、行かせるの?」
「近いうちに部長通して話してもらう。その上での判断……いや、どうあれ行くことにはなっちゃうかなぁ……」
男の声に、彼女は深いため息を吐いた。
手のひらの上で踊らされている、という状況は、今もなお変わらない。
それに、変えようとする行為そのものが無駄になることを知っていた。
その様子を見た男は、ふっと息を吐いてグラスの中身を飲み干して。
「――ま、もし本当に困ったら、アタシがなんとかしてあげるわ」
「それはありがたいけど。ターちゃんそんなに入れあげるタイプだった? もしかして本当に手籠めにしようとなんて……」
「おバカ、違うわよ。あのコに興味がなくはないし、アンタにも借りがたくさんある。でもそれ以上に――」
男が目を細めながら、彼女の瞳を見つめる。
僅かな沈黙、ほんの少しの静寂の後に、その口は続く言葉を紡いだ。
「アナタが泣く所を、アタシが見たくないだけよ」
それは彼の本心からの言葉。
本質から編み出された思いであることを、彼女を理解した。
「……ありがと」
――時はまもなく、深夜の3時を回ろうという頃合い。
一人から始まった夜は、二人となり、静かに、ゆっくりと更けていく。




