7.山にいること
テントに戻り、撤収に取りかかった。案の定、テント内はたいへんな暑さになっていた。シュラフやマットなどをそのままにしていたので、テント内に入って、収納作業を行なった。たったそれだけで、今日一番の汗をかいた。アタックザックからの荷物の移動などいろいろと作業が多い上に、暑くて疲れていたため、なかなかはかどらなかった。
ようやく荷物をザックに詰めて背負うと、よろめきそうなほど重く感じて驚いた。ずっと軽装でいたから、そのギャップは必ずあるものだが、それにしても、押し潰されそうなほどの重量感であった。こんなものを背負って歩けるのだろうかと思った。だが、そんな泣き言は言えないのだ。歩かなければならない。私はほとんど歯をくいしばって、テン場をあとにした。
すぐそこに雪渓があった。昨日は横切ってきたが、教えられたとおり、雪渓の左縁を直上した。ザックが重くて足が上がらなかった。本当に同じものを担いで折立から上がってきたのだろうかと、自分が背負ってきたという事実が信じられないほどだった。この軽装ピストンからの装備転換は、昨年の、剱岳ピストンから立山別山への進出の時と同じだったから、その時のことも思い出したりした。あの時も、ザックを背負ったあとしばらくは重荷に苦しんだが、結局、別山はハイスピードで登頂したではないか、と。
だがその時とは明らかに、疲労の蓄積が違っていた。一歩も歩きたくはなかったが、ストックを支えにして、まだまだ遠い双六小屋を目指すしかなかった。三俣山荘でもう一泊するという選択肢はまったく頭になかった。少しでも先に進みたかった。
ようやく坂を登りきると、分岐点に出た。三俣蓮華岳への山頂と、それを巻いて双六小屋へ至るルートとの分岐である。私は当初、三俣蓮華岳の山頂を踏んで、そのまま稜線コースで双六岳を縦走して双六小屋を目指す予定だった。だが今の私には、この重荷を担いで稜線のピークを三つほどアップダウンする余力はなかった。この分岐点に来るまでに、計画を変更して巻き道ルートを進むことを決めていた。
それはじつに、計画の変更ではなく計画の「断念」であった。私はそれがやむを得ないことなのだと言い聞かせようとした。折しも雲がわき上がっていて双六岳のあたりが隠れていたから、迷いやすい尾根を避けるのだとか、できるだけ外的な要因を見つけようとした。だがそれは言い訳でしかなかった。自分の体力のなさを悔やんだ。
私は分岐点の傍らのハイマツのそばにザックをデポして、空荷で三俣蓮華岳へ登った。ザレた、かなり急な斜面だった。あっという間に登った。
三俣蓮華岳は、岐阜、富山、長野三県の県境である。三百名山のひとつに数えられるだけあって、周囲の展望がよかった。ただ、雲ノ平が正面に見えることを除いては、鷲羽岳と水晶岳であれほど展望を楽しんだ後に、ここでしか味わえない景色というものがあまりなくて、感動は少なかった。そして、ここから双六岳への縦走をやめると決めた後に、ただこのピークを踏むためだけにやってきたから、素直に登頂を喜ぶこともできなかった。山頂には何人かの中年グループがいて、登頂を喜んでわいわいとやっていたから、ここが山頂だという気分はもちろんあった。単に私が喜べないだけだった。
しばらくして彼らがいなくなると山頂は静かになった。標柱から少し離れて、北を向いて座っている人がぽつんといるだけだった。そこは静寂の世界だった。風の音しか聞こえない中、ダイナミックな展望を前にして、私は人間の小ささを思った。鷲羽、水晶と、今日は北アルプス最奥のピークを次々と踏んできた。いずれも、視界の限りの山であった。とんでもない所にいるんだなと思った。双六小屋にしても三俣山荘にしても、遠くから見たそれは、ほんの点でしかなかった。山という世界での人間なんて…。
登山者は、この巨きな山の世界に浸りたくて山に来るのだろうか。それとも、自分の小ささを認識したり、ここで出会う人とのわずかな関わりを求めて来るのだろうか。そんなことを考えながら、こういう考えや、疲労でへばっていることなどをすべて含め、私の存在など問題にならないほどのスケールで山が在ることを、全身で感じるのだった。
おや、と思った。先刻からじっと座って山の空気に浸っている人はもしや、と、横から回ってこんにちはと挨拶をすると、はたしてKさんであった。顔が分からないだろうと思ってサングラスを外して挨拶をしたのだが、それでも最初はよく分からないといったような様子だった。それは、私が誰なのか識別できないのではなく、そこに人間がいるということが認識できないといった様子だった。彼は、山の世界と同化していたのだ。まったく、つい今しがたの私と同じだ。それを現実に引き戻してしまったようで、申し訳なく思った。
彼は予定どおり黒部五郎岳をピストンして、帰路にここ三俣蓮華岳に立ち寄ったものだった。鷲羽池に行ったかと聞かれ、早朝は陰っていたから行かなかったと答えた。それから私の軽装を見てザックを聞かれたので、つらいからデポしたのだと答えた。双六の稜線を歩かないことについても、それを話すのはつらかった。単なる質問を、なんだか責められているような引け目をもって感じてしまった。
私はKさんの隣に座った。私の最大の関心事は、明日、笠ヶ岳をピストンするかどうかにあったから、こんな体調では不安だと話した。彼は、自分は鷲羽へ登るのだと言った。帰りの新穂高のバスが最終13時台で、それに乗れればよいのだと淡々と話していた。予定ルートが決まっていれば落ち着いていられるのだがと、私は彼の様子を見て思った。
しばらくそうして座ったまま、お互いの山歴などを話した。上空を見ると、昨日まではなかった筋状の雲が高層に出ていることに気がついた。私がそれを言うと、天候が悪化傾向にあることは間違いないですねと、彼も同じ認識であることを示した。
長い間座っていたが、私は立ち上がった。もし私が笠ヶ岳をピストンすれば、明日の夜に双六小屋で再会ですねと言うと、行けますよと背中を押してくれた。彼はもう三俣山荘へ戻るのみだから、まだゆっくりしていくようだった。贅沢な時間だなと思った。
私はKさんと別れて、ザレた急斜面を下った。下りながら、こんな広い山域で彼と三度も会うなんて、奇跡ではないかと思った。そして明日も双六のテン場で会うとしたら、最終日は一緒に下山することになるだろう。単独行の旅なのに、そうではないような感覚だった。
(三俣蓮華岳 山頂からの景観)
下でザックを回収して、 双六岳を巻くルートで双六小屋に向かった。鷲羽岳から見たとき、この斜面を横一線に切られた道がはっきりと分かったが、それがこの道であった。巻き道だから稜線のようなアップダウンはなかったが、いざ歩いてみると多少の高低はあった。右上方を見上げると、双六の稜線に雲が流れていた。
右手の斜面から、どこからともなく水が流れ出ていて、いく筋もの流れが道を横切って下へ落ちていた。何度もそんな小川を渡った。そんな豊富な水に潤されてか、巻き道ルートは高山植物の楽園であった。勾配が緩いのに足が前に出ない、そんなつらい状況にもかかわらず、それら植物に囲まれて、知らず心が穏やかになっていた。ふと振り返ると、右手に大きく鷲羽岳が見えた。高山植物にその美しい雄姿が映えて、なんとも言えず素晴らしい景観だった。私はもう、双六の稜線を断念したことを後悔していなかった。
巻き道ルートは双六小屋と三俣山荘をつなぐ最短ルートだから、登山者が多くいた。私が途中出会った中には、私のような重装備をした人はいなかった。多くの人がエールを送ってくれた。
何度か楽園の途中で休憩を重ねながら、徐々に進んでいった。途中に一箇所だけ、ほかとは違って勾配の急なところがあった。そこは本当につらかったが、それを越えてしまうと双六岳がぐっと近づいた。
右上を走っていた稜線がぐぐっと落ち込んで、目前で、巻き道ルートと合流していた。その分岐点に立つと、それまで双六の稜線に遮られていた風が身体に感じられた。雲は多かったが、稜線を覆っていたガスはとれて、上に双六岳が見えた。ここにザックをデポしてピストンしようかという考えが一瞬頭をよぎった。きっと、時間にすればそれほど要せずに往復できたであろうが、そのわずかな行動すらできないくらい、あまりにも疲弊しきっていた。一刻も早く休みたかった。
私は立ったまま水だけを飲んで小休止した。左下にある双六山荘まであとわずかな距離なのだから、不味い行動食を無理に食べなくてもよかった。ようやく今日の行程が終わるのだと思った。双六岳には今もっとも近づいているから、山頂を前にしながら下りるのはやはりつらかった。なんなら明日の朝、空荷でピストンしてもいいと思った。
そこから小屋までは急な下りだった。下りきった広い鞍部に大きな小屋かあって、そこからまたせり上がっている正面の尾根が、かの西鎌尾根だ。鞍部の左、北側が切れていて、雪渓があった。雪渓の上には大きな落下傘のようなものがあって、風にゆらゆらと動いていた。あれはなんだろう、風速を示すものなのだろうかと思った。
小屋は眼下に大きく見えていたのだが、意外にもなかなか近づかなかった。屋根が赤いから大きく見えるのだろうか。比較的通行者が多いこの坂を、ストックを支えにしながら下った。そうして次第に小屋に近づいた。すると、先刻気づいた雪渓上の物体が、なんとテントであることが分かって驚いた。風で飛ばされてきたのだ。コロコロと雪渓の上を転がっていたから、中には何も入っていないようだ。私も今春、大峰山で、中に荷物が入っているのにテントを倒されたことを思い出した。昨夜もびゅうびゅうとすごい風に眠れなかったことも記憶に新しい。それにしてもこのテントの主はどうしたのだろうか、小屋に泊まったのだろうか、などと考えながら歩いた。
(双六小屋)
15時頃、ようやく小屋に着いた。正面入口に対峙して厨房が分立しており、飲食用の窓口が別に設けられていた。それほどに大きな規模であった。こうして飲食カウンターが別なので、涸沢ヒュッテを思い出した。ここは交通の要衝であって敷地も広い。大きさでネーミングを決めるとするならば、三俣山荘はどちらかというと小屋のイメージだったし、この双六小屋は山荘と呼ぶべきであろうと思った。
二つの窓口に挟まれた空間にはベンチが置かれて、何人かが食事をしていた。ジュースやビールが入れられて冷やされている水槽があった。私はそれら平和的な光景を見回してから、中に入った。広い土間があり、左側に受付カウンターがあった。私はそこでテント泊の受付をして、スタンプも押させてもらった。
右側のテレビに天気予報が映っていた。明日は曇り。あさっては曇り時々雨となっていた。私は画面をじっと見ながら考えた。天気は間違いなく下り坂だ。明日はもつとしても、次の下山日は雨になるだろう。その最終日に鏡平の眺望を期待するならば、朝の早いうちしか可能性はない。早い時間帯に鏡平に到達するためには、この双六小屋から発たねばならない。だが今日のこんな調子で、はたして笠ヶ岳までの稜線を往復できるのであろうか。
私は、受付に声をかけた。さっきの若い男が返事をしたが、私は軽く会釈をして彼を制し、横に座ってコーヒーを入れている年配の男性に目線をやった。明らかにこの人がここのご主人だと思われた。よしんばそうでなくとも、彼が信頼できる山男であることを直感で感じた。
私は、笠ヶ岳のピストンを考えているのだが現実にできるものなのかと尋ねた。ご主人はたいへんに驚かれて、やる人はまったくいないわけではないが、非常に稀だと言われた。そして私の姿を見て、あなたなら行けるかもしれないが、とにかく遠い、アップダウンはきつい、案内する際は通常片道6時間と案内している、槍ヶ岳のピストンは聞くが笠ヶ岳はほとんど聞かない、などと教えてくれて、最後にきっぱりと、正直言っておすすめはしませんと断言された。そして付け加えて、笠に行くならあっちに山小屋もあるから、そこで泊まる方が絶対に楽しめますよと笑顔を見せて教えてくれた。私はご主人の言葉に打ちのめされたような気がした。はっきりと奨めないと言われたが、そこに感情はなく、ただ事実と客観的な見解が断然と示されただけだった。厳しい見解ではあったが、私の質問に対して、その根拠を挙げながら答えてくれたことに、私はたいへん良い印象を感じた。さすがに山のプロの対応だと思った。私は、よく考えますと礼を言って辞した。
鞍部はT字の形状を示していて、交点にある双六小屋から下方側にテン場があった。左の尾根と右の双六岳との間の視界がよく、テン場の終端に双六池が水面を示していたが、その方角にあるはずの笠ヶ岳は、雲で見えなかった。
テン場は広い砂地だった。すでに30張ほどのテントが張ってあったが、まだまだ十分にスペースがあった。私はそこらに張られたテントの間を歩いて、場所を物色した。ところどころ雨水の通り道があって、砂地がえぐれている場所があった。それらは避けて張る必要があったし、やかましそうな隣人も敬遠したかった。
私は小池新道に近い端を定めてテントを張った。南側から吹き上がってくる風が少し強かった。明日どうするか、まだ決めていなかったが、ピストンするとしたらここにテントをデポしていくことになるので、いつも以上に耐風を意識してペグを打ち込んだ。さっきの転がったテントのようになりたくはなかった。
テントに荷物を押し込んで、マットを膨らませて寝ころんだ時には本当にぐったりとした。双六岳の分岐点から小屋まではだいぶ下ろされたから、あそこを再び登って双六岳をピストンするなどという考えは完全になくなった。いつかまたここへ来た時に双六岳をやろうと思った。もはや双六岳への執心はなかった。頭の中は明日の行動のことでいっぱいだった。
選択肢が増えたからこその悩みであろう。この選択肢が生じるのも、初日から苦しい思いをして後半に余裕を生んだためだ。身体を苦しめて、挙げ句に悩みを増やしていると考えるとおかしかったが、それも縦走の楽しみだと思った。
近接した所には誰もテントを張っておらず、その後も近くには誰も来なかったが、二つ分ほど空けて横に、隣同士で話している人がいた。いずれも私より年上ふうで、女性と、その女性に蘊蓄ひけらかせて話している男性だった。女性がいちいち感嘆するのを良しとしてか、男性がいよいよ自己の武勇伝を話すので、それが耳障りだった。私はその時疲弊しきっていたせいか、精神的にもまいっていた。だから彼らの会話は単に耳障りなだけでなく、私の孤独感をいっそう大きく感じさせた。
私はなるべく聞かないようにしながら、笠ヶ岳の地図を眺めた。往復12時間のアップダウンを歩けるかどうかという点に関しては、おそらく歩けるだろうと思った。だがそれは、テントに戻らなければならないという強制力を課して歩くだけのことで、きっと今日以上につらい行動になるだろうと思った。等高線を見ればアップダウンの規模は容易に分かった。それ以上に、越えても越えても、また下り坂と登り返しが冷然と突きつけられることの精神的なダメージは、今日の分の疲労が加算され、さらに大きくなるだろうと思った。
それでも、私はアタックザックの準備を始めた。笠ヶ岳までピストンしようと思った。なぜこう決断したのか、自分でもよく分からなかった。今いる鞍部ですらこの強風で、笠ヶ岳の稜線にテントを張るのが怖かったことと、Kさんにまた会いたいという気持ちが、その理由の一部であることは間違いない。それと頭にあったのが、かつて何度か訪れた鏡平で、槍ヶ岳の眺望を得られたのはただの一度であったと言っていたKさんの言葉であった。雨天ならば望むべくもないから、少しでも可能性のある時間帯にそこを通過するコースであることも、ひとつの要因であった。
私が寝そべって孤独な思索をしている中、時間の経過とともに人が増えつつあった。テントを立てる音や、相変わらず楽しげに話している近くの男女の声、その他幕営をしている人たちの会話。なぜか、むしょうに人恋しくなった。
遠くで会話が聞こえた。テントが見つかってよかった、ペグを打たなきゃ、いい勉強になった、などと、若い声と年配の声がやり取りしていた。ああ、先刻のテントの持ち主だなと思った。天幕を閉じているから、すべては音声だけを聞いていた状況だった。
そのうちに、外が異様にざわついている空気を感じて、天幕を開けた。あそこにいる、とかいった声も聞こえた。大勢の人がひとつの方向を見上げていた。その方向、双六岳の遠い斜面上に、黒い点が動いているのが見えた。クマだった。緑色の草花で覆われているその辺りで、何だか分からないが、しきりにエサを物色しているようだった。遠目だが小型のクマで、まるまるとしたクマがごそごそとやっているのは可愛いらしさすら感じたが、それも遠い位置にいる安心感によってであった。きっとクマの方も、眼下にたくさんのテントと小屋があって人間が多数うろうろしている様子を見ているだろう。クマはクマで人間がこわいから、わざわざそんな所へみずから下りてくるはずはない、そんな安心感だった。こうして互いに距離感を保つことができればトラブルにはならないだろうにと思った。
17時になったので夕食の準備にかかった。今日の雑炊はチゲスープだった。これも3日目となると手慣れたものである。クッカーと食材を手早く入れ替え、コンロも効率よく使ったが、相変わらず風が強いので湯が沸くまで時間がかかった。できあがると、香辛料の香りが鼻を衝いた。これまで食欲はほとんど感じなかったものだが、今夜は食欲があった。スパイスの香りに誘発されただけではなく、高地適応がさらに進んでいることと、今日の行動が実にエネルギーを消費したためだと思った。この旅で初めて、うまいと感じる食事を摂ることができた。
消費によって食材のパッカーが小さくなっていくことも嬉しかった。事前に主だった食材の個装袋は取り外してきたから、食事後のゴミは薄いラップのみとなるのだ。ただ、重い行動食は食べきれずにほとんど残っていたから、ザックの重量にはあまり効果を示さなかったが。
食事を片付け終えると、ハブラシを持って小屋に行った。テン場が広いので、移動は少し面倒だった。小屋の脇の水場は、貯水タンクから給水されていてぬるかった。そこで歯磨きをして、すぐ横のテン泊者用トイレに寄った。
小屋の中に入ってみると、さすがに夕刻だけに賑やかだった。土間が広いので、私がいても邪魔にはならなかったから、そこでテレビの天気予報を見た。明日の天気が曇りのち雨に変わっていた。私はそれを見て唖然とした。こんなに早く天候が崩れるのかと。うしろのカウンターの向こうで、ご主人が受付係の若者に、また天気が変わったよ、悪くなってる、と話しているのが聞こえた。山上において天候悪化というニュースは独特な意味を持っていた。私は緊張感に包まれた。それは最初から覚悟していたはずだったが、いざ現実となるとやはり衝撃があった。
私は土間に立って、テレビを見つめながら考えた。明日は笠ヶ岳のピストンをやめようと思った。あさっての朝まで天気がもつ可能性があるからこそのピストン計画だったが、明日から崩れるのであればその意義はなかった。
外は、残照の明かりが次第に落ちて暗くなりつつあった。長いこととどまっていたガスがとれて、テントへ戻る道すがら、テン場の終端にある双六池の向こうに笠ヶ岳の姿が小さく見えた。明日はあそこまで行くのだと思った。
テントに戻ると、準備してあったアタックザックをしまった。ピストン計画をやめて笠ヶ岳へ移ると決めてしまうと、ほっとした。この体調におけるピストン計画には悲愴感すらあったから、それに比べれば、片道6時間の距離をゆっくり歩いていけばいいだけだというのは相当に気が楽だった。
ただしそれは同時に、荒天の笠ヶ岳の稜線でテントを張ることを意味していた。それについては、もしもひどければ小屋に泊まればいいと思った。Kさんに会えなくなることは仕方ないが、下山後の新穂高で会える可能性は残っていた。
計画の変更により、そうやって、悩んでいた点をひとつずつ変更していった。また、諦めることになる鏡平に関しては、まったく逆の発想が浮かんだ。笠ヶ岳への道中、稜線から鏡平まで下りて、景色を見てから再び稜線へピストンしてやろうというものだった。その発想が浮かぶと、私は我ながらばかだなと思った。稜線から250メートルも下の鏡平へ、逆ピストンしようなんて、普通は考えないだろう。だがそれは名案だった。あさっては展望を期待できないだろうが、明日の早い時間帯ならば期待できるだろう。鏡平のみに目的を絞るならば、アップダウンの厳しい笠ヶ岳の長い稜線をピストンするよりも、鏡平その場所をピストンする方が楽だと思った。
そう考えてシュラフに入った。風は弱くなっていたが、外の会話は依然として聞こえていた。暗いテントの中で、むしょうに寂しかった。
少し眠ったものの、例によってすぐに目が覚めた。家へ帰りたいと思った。明日は笠ヶ岳だ。まだもう一夜を山で明かさなくてはならないのだと考えるとつらかった。だから、下山した後のことばかり考えた。新穂高に着いたらまずは温泉だ、そのあとビールを飲もう、バスの時刻までどれほど余裕があるか分からないが、新穂高で昼飯を食ってもいい、間に合わなければ高山で食べるのだ、下界で最初に食べる食事なのだから何にしようか、昨年高山で食べたカレーはうまかった、などと、そんなことばかり考えていた。なかなか眠れなかった。夜は風が弱まってくれた。