6.鷲羽岳・水晶岳
七月二十日(水)【三日日】
4時に起床した。ずいぶんと寒かった。外に出てみるとテントは結露していなかった。ベンチレーターがかなり開いていて、テント内に外気が入ってきていたためかもしれない。寒いのもそのせいだったのか。着替えてから、前日と同じくフルグラとみそ汁による朝食をさっと済ませた。今日はテントをそのまま置いておいて、鷲羽岳と水晶岳に登ってから、ここに戻ってくる予定だった。行動用に持って行くおおかたの荷物はすでにアタックザックに詰めてあったから、準備は早かった。
鷲羽と水晶をピストンしてここへ帰ってくるのは昼になるから、その頃にはきっと、テント内は熱せられてひどい暑さになっているに違いない。食糧が心配で、近くのハイマツの下にでも隠しておこうかという考えが頭をかすめたが、動物に持って行かれるといけないので、腐るものはないのだという考えで、そのままテント内に放置することにした。
山荘に行って大便をした。今日も出が悪かったが、少し出たので、まあよかろうと思って出発することにした。山荘内でKさんに出会い、早いですね、自分はまだ今起きたばかりですと笑って話しかけられた。山荘を出る前に、受付の主人に登山口の場所だけ聞いた。一帯がハイマツで覆われていたから、その道が迷路になっていないとも限らないからだ。すると一本道だというので安心した。行ってきますと言うと、子供が、気をつけて行ってらっしゃいませ、と言うのがとても可愛らしかった。外に出るとそこでは宿泊者たちが出発の準備をしていた。見るとその中に桃井さんがいた。おはようございますと声をかけた。今日の予定はと聞くと、雲ノ平でもう一泊してから明日下山するとのことだった。ここでお別れだったので、お気をつけてと挨拶をして別れた。
表銀座がくっきりと見えた。まだ朝一番だから雲などない。もちろん槍ヶ岳も見えた。刻一刻と、空の色が変わっていった。
(三俣山荘前から望む表銀座。大天井岳から槍ヶ岳への美しいシルエット)
ハイマツをすぐに抜けて、鷲羽岳への一本道に出た。道がすうっとその絶頂まで伸びていた。軽装だし、右手では槍ヶ岳がだんだん明るくなっていく抑揚感にも押されて、調子よく登っていった。だが鷲羽岳の山稜は、高くなるにつれて急な曲線を描き出した。30分ほどは緩勾配の登り坂であったが、いつの間にか急坂になっていた。加えてそこから先はガレ場であった。早朝にもかかわらず少数の登山者がいたので、落石に注意しながら登った。岩場は急ではあったが、私はとても元気だったので、どんどん登った。2,924メートルの山頂は薬師岳よりわずか2メートル低いが、ほぼ同程度の山である。二日前は酸欠であんなに苦しんだが、今は高所に順応している。それに気温が低く、レインウェアを着たままでも平気なほどだから、暑さによる消耗もない。ぐんぐん登っていった。
山荘からのコースタイムは1時間半であったが、50分程度で山頂に達した。先客がいたが、じきに去ったので、それからしばらく独り占めだった。尾根上の山頂といった感じで、左右が切れていて高度感があり、とても気持ちのいい山頂だった。時刻はまだ6時前である。ふだんなら眠っている時間なのに、今はこんな高所のピークにいるのだと思うと、優越感にも似た不思議な気持ちがした。
周囲のどこを見回しても、私の目線より上には空しかなかった。そこには雲すらなかったから、余計に、たいへんな開放感があった。屹と天を指している鷲羽岳の標柱もかっこよかった。雲がないから、遠くはあったが槍ヶ岳の左側の位置に、富士山の姿も見ることができた。特に槍ヶ岳の景観が、こちらから見るとギザギザした北鎌尾根を従えている姿が秀麗で、たいへん美しかった。槍ヶ岳を正面に見ると眼下に鷲羽池があった。Kさんから薦められたが、かなり下方にあってまた登り返すのは嫌だし、まだ朝日が低くカルデラ地形の外周の影に覆われていて水量も少なく、下りてまで近くで見たいとは感じなかった。山岳における池は、えてして山との対比で見るものだから、私は上から見下ろす方が美しいと思う。それは、たくさんの火口池を持つ御嶽山を周回したときに抱いた感想でもあった。
槍ヶ岳の右方向には、大キレットから穂高岳、焼岳、乗鞍岳、御嶽山と続き、笠ヶ岳も見えた。西には昨日登った黒部五郎岳と、その左奥遠方に白山が見えた。眼下には鷲羽岳の大きな影も映って、なんだか楽しかった。反対の北側には、ワリモ岳を経てこれから目指す水晶岳の黒い山容があった。その左奥に、二日前に登った薬師岳も見えた。私はここでも夢中になって、写真をたくさん撮った。あとから上がってきた人にも撮ってもらった。
(鷲羽から穂高方面を望む)
目をこらすと、笠ヶ岳の手前、双六岳の稜線が左に落ちている鞍部に、ぽつんと山小屋が見えた。ピストンしてテントに戻った後に向かう予定の、双六小屋だ。あんなに遠いのかと思った。しかもこれから向かうのではなく、逆方向の水晶岳まで行って、ここからさらに離れた地点から向かおうとするのだから。
10分ほど撮影を続けて満足してから、不味い行動食を少し口にして、北進を再開した。いったん下ってのワリモ岳は、けっこう急峻なガレ場でロープもあった。ただ、慎重に行動すれば決して危険ではない山だった。初めて見る高山植物があった。最初は、形状からコザクラソウの仲間かと思ったが、色が違うので、あとから調べてみるとホソバコゴメグサだった。
ワリモ岳を通過し、ワリモ北分岐にもハイペースで到達したのだが、この辺りでぐっとペースが落ちてきたような、妙な脱力感に見舞われた。朝から鷲羽の急登を飛ばしすぎたかもしれないと思ったが、低酸素域であることや、二日間の疲労と睡眠不足など、原因はいくつも考えられた。問題はその原因ではなく、現に落ち込んだ体力でいかにして歩いていくかということであった。
そこから水晶小屋まで標高差はあまりないはずであったが、少しの登りがたいへんこたえた。水を口にしても、口の中の渇きが癒えることはなく、むしろ余計に渇いた。完全にばてているのであった。ばてて倒れそうになるのを支えていたのがストックであった。本当に、このストックには何度助けられていることだろうか。唾すら吐き出せないほどの渇きだった。
そうして、なんとか水晶小屋にたどり着いた。ここには水場がない。その焦りも、もしかしたら渇きに拍車をかけていたかもしれない。事前の情報によれば宿泊者には有料で水を分けてもらえるという記憶だったが、それ以外の人にはどうなのか自信がなかった。もちろんひっ迫していれば断られることはないだろうと思ったが、水晶をピストンして再びここへ戻ってくるのだから、まずはそれまで頑張ってみようと思った。
水晶小屋は小さな小屋だった。ともかくそこに腰掛けて、行動食を口に入れて休憩した。暑くなってきていたのでレインウェアを脱いだ。鷲羽岳では北鎌尾根に目がいって気づかなかったが、それより手前に赤い尾根が突き出しているのがよく見えた。水晶小屋のほぼ目の前に見えているから余計に目についたのだった。また、そこから硫黄臭が立ち込めていたことも注意を引いた理由かもしれない。それは、硫黄尾根に連なる硫黄岳と赤岳だった。その方角を前にして、左下へ下りる道があった。小さく、烏帽子方面と書かれた標識が刺さっていた。裏銀座縦走コースである。今は興味がないが、いつかここを歩く時が来るのだろうかと、その先の野口五郎岳の方向を眺めた。
小屋の北端に、この先から水晶岳には行けませんとロープが張られていたので、どこから行けばよいのか分からず小屋の人に聞こうと思った。ちょうど二人(ともに女性だった。他にひと気がなく、この二人だけで切り盛りしているのかと思うと驚いた)が外に出ていたので、道を尋ねると、小屋の上の道を行くのだと教えてくれた。トランシーバーで下界と通信しようとしている矢先だったので、もしかしたら邪魔をしたのかもしれないが、気さくに教えてくれた。
教えられたとおりに上がると(ついさっき下ってきたばかりの場所だ。小屋にばかり目がいって、分岐に気が付かなかった)、正面に真っ黒な水晶岳が見えた。しばらくはハイマツ帯の平坦な尾根で、まもなく岩場が始まった。ここは手を使う岩場だった。ハシゴも設置されていた。登山ガイドではヘルメットの着用にも言及されていたが、たしかにヘルメットの着用も違和感がないほどの岩場だった。私はストックを持ったまま岩場を登った。もし転落すれば大けがは間違いのない高度の岩場で、それは危険な行為であったが、私にとってこの岩場は片手が使えれば十分だった。
途中何度か、水晶などの採取は禁止と書かれた看板があった。そういえば水晶があるはずだと思って探してみると、容易に見つかった。鉱脈が岩場の随所に顔を出していて、岩の白っぽい部分をよく見てみると、はたしてそれが水晶なのである。禁止といっても四六時中監視しているわけではないし、残念なことではあるが、心ない、登山する資格のない人が存在することも事実であって、きっと法を犯して採取する人がいるのだろうと思うと寂しい気持ちがした。こういう岩場では、多少なりとも山を崩すことのないように、落石に注意して丁寧に登っていくように心がけることを今一度自分に言い聞かせた。
岩場が楽しいので、渇きをことさらに感じることはなかった。ただやはり疲労があったのだろう、小屋から山頂へたどり着いたのは、コースタイムとほぼ同じ40分後であった。水晶岳の山頂は狭くて急峻だった。しかもガレているので、けっこうこわい山頂であった。先客がいて良い撮影ポイントに居座っているので、私は待つ間、スマホの電源を入れてデジカメデータの取り込みと通信を行なった。今日はこの水晶岳が唯一の電波圏内で、これから先はまた圏外となる予定であった。また、カメラのバッテリーがなくなりかけていたので、予備のものに交換した。
やがて場所が空いたので写真の撮影を行なった。あとから来た人に、水晶岳の標柱と一緒に記念写真を撮ってもらった。こちらから見ると、鷲羽岳は手前のワリモのやや平らな尾根との対比で自己主張を控えめにしていた。代わって、今上がってきた水晶小屋からこの山頂までの尾根が深くカール状にえぐれている急峻さに目がいった。もちろん、鷲羽から見えたのと同じく、槍から御嶽までの山々がはっきりと見えたし、笠や黒部五郎もよく見えた。北側の展望もよかった。赤牛から先の尾根が見えた。きっとこの水晶岳を境にして、これより北へ行く人はぐっと減るのだろうと思った。広い北アルプスの山域の中でほぼ中心に位置するのが水晶岳だ。周囲をぐるりと名山に囲まれているのを目にして、ようやくにして最奥の山の山頂に立っているのだという感慨があった。よくぞここまで歩いてきたという感慨が、山頂で過ごす時間を長くした。データを処理していた時間なども含めて30分ほど山頂で過ごした。
(水晶岳から南を望む)
(同・北を望む。左手は薬師岳。右下に黒部湖が見えた)
ここでふと、三角点がないことに気が付いた。あとから来ていたベテラン風の人に聞いてみると、三角点はこの先のピークだと教えてくれた。それで地図を開いてみると、たしかに三角点の記号が北側のピーク上に描かれていた。標高はこっちが高いんだけどねと、その人はいろいろと教えてくれた。私は体力に余裕がなかったので、予定外の行動は増やしたくなかったが、あれくらいの距離であるし、ここで三角点に触れなければきっと後悔するだろうと思って三角点へ行くことにした。教えてくれた人にそう言うと、それがいい、そうしなさいと送り出してくれた。
5分ほどで次のピーク、三角点に到達した。すぐ横に10メートル高い水晶岳があるのに、なぜこちらに三角点を設置したのだろうかと考えて、不思議な気がした。しかし、ともかくも満足した。そこからまた岩場の下降であった。下降は登りよりも神経を使うものだ。一瞬の油断が命取りになったりもするので、過剰な自信は完全に忘れて、三点支持で下っていった。渇きのためにともすれば集中力が切れそうになるので、いつも以上に慎重に手足を動かしていった。岩場を無事に通過して尾根に至ると、もう、水晶小屋までは危険な箇所はなかった。
小屋に着き、ここで何か記念品を買おうと思っていたから、中に入った。屋根で布団を干している人がいたが、受付には誰もいなかった。ただし記念品は展示してあるのでそれを物色してみたが、あまり気に入るものがなかった。「水晶」と文字が入った手拭いを何かの本で見たことがあったが、高かったのでやめて、スタンプだけ押させてもらった。
無人の間にスタンプを押したので、なんとなく悪いことをしたような気分になった。もちろん無料なのだが、無人の時に勝手にさわってしまったようで、それがなんとなく気分悪かった。スタンプを断るのにわざわざ下りてきてもらうのが悪い気がしたが、屋根の人に言えばよかったと思った。だから、水を分けてもらうこともどうでもよくなった。気をつけて飲めば、まだ予備の水があるのだから、進もうと思った。
もと来た尾根を南へ進んだ。右手に赤池を見ての尾根歩きは楽だったが、そこからワリモ北分岐まで少し登り返しとなり、それがとてもつらかった。まったく身体が重かった。なんとか身体を持ち上げて分岐に到達し、そこから先は、鷲羽へ登り返すのではなく、黒部源流方向へ下りる道をとった。その方が、標高差が多少すくないのと、全く同じルートでのピストンがつまらなかったからである。
分岐からザレ場を下って岩苔乗越に出て、そこから左手に下降し始めた。この周辺にもけっこう人がいた。この先沢になるのが少し不安だったが、下からは何人も上がってきていた。
そこから下りかかってすぐ、水場と書かれた標識を見て、私は歓喜した。まさに救いの神だと思った。ちょうどその乗越の下から水が湧き出ており、そこが水場になっていた。黒部の源流でもあると思った。すでにボトルの水が底をつきかけており、あとは予備が一本あるだけだった。その予備で充分かもしれなかったが、ここを下りきったあとはまた登り返しがあるので、そこで尽きるのではないかという不安があったのだ。だからここでボトルを再充填できるのは本当に救われた思いだった。水はとても冷たくてうまかった。すでに9時を回って陽も高く、この冷たさに生気を取り戻す思いだった。
水を飲んでから、沢を下り始めた。広げた扇を立てているような120度くらいの広いV字型の谷であった。その正面に、大きく三俣蓮華岳が見えていた。これからどんどん下って、そこから登り返して最後にはあの三俣蓮華岳まで登るのだと思った。冷たい水で一度は生気を取り戻したわけであるが、渇きはすぐにまたやってきて、身体の芯から何かを抜かれたように力が出なかった。それでも歩かなければならなかった。道なりに、どんどん下ろされていった。下ろされる分、また登らなければならない。
(三俣蓮華岳。左上方に三俣小屋)
沢は下るにつれて、左右の支流を次々と拾って太くなり、どんどんその水量を増していった。これほど渇いているのに足元には川が流れているとは皮肉なものだった。水を飲んでも癒されないのは、単に喉が渇いているのではなく身体が渇いているのだ。じつにつらい下りだった。熱射も消耗の原因であったかもしれない。周囲にはクルマユリやハクサンフウロの花々が咲いていたが、写真を撮る元気もなく歩いていった。
そうして40分も下り続けて、ようやくにして黒部源流地点へ下りきった。やっと下りたんだと思った。ただ、それは下山という感覚ではない。ここから、下った分の登りが始まるのだ。もう下ろされることはないのだから、これ以上登り返す標高が増えなくてすむのだという、なんとも不思議な感覚であった。
登り返す地点に、ちょうど三俣山荘の方から流れ落ちてくる沢があった。帽子を脱いでそこに頭をつっこんだ。頭を洗った。三日ぶりの水浴びであった。消耗しきっていた。頭をふいて、乾くまで日陰で休んだ。口に行動食を押し込んで、水で飲みこんだ。
10分ほども休んだだろうか、立ち上がって、三俣山荘への登り坂を登り始めた。石段が中心となっている登山道だったから、段差のちぐはぐな不統一さと、ひとつひとつが高い段差とで、つらい登りだった。体力がついてこないから当然足も上がらない。ストックのゴムを片方失っているから、下手な角度で突いてしまうと、ストックの金属の先端が石の表面で滑って危ない。いろいろと支障があった。ここはもう完全に精神力で登ったと思う。ほとんど覚えていない。
40分ほど登って、三俣山荘に着いた。テン場を流れる小川の下流から上がってきた格好になった。ひどく疲れていたから、山荘でジュースを飲もうと思った。入って飲み物の陳列を見るとコーラが見当たらなかったので、受付にいた山荘の奥さんに炭酸はサイダーだけですかと聞くと、そうだと言うのでサイダーを買った。今朝の男の子ではなく、もっと小さい女の子がいて、ありがとうございましたと言ってくれた。外はひどい陽射しで暑かったから、中で飲ませてもらっていいですかと聞くと、快諾してくれた。小柄で若い奥さんであったが、日焼けして聡明そうな、さすがに山の人だという感じの人であった。
私は靴を脱いで、受付の後ろの談話エリアに座った。受付の奥さんが、何か作業があって二階へ行くから、お客さんが来たらベルを鳴らしてねと女の子に言って、上へ上がっていった。私のいる談話エリアは受付室の背中の仕切り壁に遮られて見えなかったが、その横は開口しているから声は筒抜けだった。女の子が理解している様子はなかったが、客の少ない時間帯であるし、そのうちに勝手に遊びだした声が聞こえてきた。
私はサイダーを飲んだ。身体に染みわたるような感覚だった。ただもうぐったりとして、動く気力がなかった。放心したように、独り、背中の窓の外の強い光と屋内の影とを感じながら、談話エリアの壁に貼られた掲示物や置かれている本の背表紙のタイトルなどを眺めた。黒部の山賊という本を書いたのがここのご主人の先代であり、その先代が今年の春に他界したこと、この山荘ではシカ害対策で駆除された鹿肉をジビエシチューとして提供していること、などが貼られていた。
二階建の小さな小屋だ。横の一枚壁の向こうから聞こえる女の子の独り言を聞きながら、あたたかい山荘だと思った。ここで小屋泊をしてもいいなと思った。子供はおそらく未就学児であろうが、夏以外はどうしているのだろうとか考えて、たいへんな山の暮らしに思いを馳せた。何年後かにまたここに寄ってみたいと思った。
そうしていると、中年女性のグループがやってきたようだった。受付の女の子に、これがほしいけどお金分かるかなとか話しかけていて、女の子の方はベルで呼ぶように言われていたことなど忘れて、何か要領のえないことを言っていた。助けてやろうかと思ったら、ちょうど二階から奥さんが下りてきたので難を逃れたようだった。
空き缶を引きとってもらい、トイレを借りた。山荘を辞すにあたって、奥さんに、三俣蓮華岳には雪渓を上へ上がればいいのですかとルートを聞いてみた。にこやかに、そうだと教えてくれた。きっとまた来ますと最後に言いたかったが、言葉が出てこなかった。オフシーズンは子供をどうしているのかとか聞いてみたかったがそれも聞けなかった。ただありがとうございましたとだけ言って、女の子に手を振って山荘を出た。水が減った分、出口で給水させてもらった。テントに戻る途中で、例の散らかされた一角を思い出してまた腹が立った。あんな家族に苦労をかけさせていいものだろうか、と。