4.テント泊、そして黒部五郎岳へ
テン場に着くと、まず管理小屋に行った。小屋の前のバケツにジュースやビールが入れられていて、そこに、例の冷たい水場から引いたホースが無造作にぶちこまれているものだから、バケツから水がじゃばじゃば溢れていた。私は思わずそれに見入ってしまった。
その様子からなかなか目が離せず、横目で見ながら、小屋に入った。狭い小屋は、土間と、上げ床の板間だった。板間の正面に係の人が座っていた。私はテント泊の手続きを行ない、テントに結びつける受付済カードを受け取った。係の人は5時までこの小屋に滞在するとのことで、あと1時間ほどは、売店が使えるのだと思った。
ようやくテントの中に入った。薬師岳へピストンに出かけている間、内部は密閉されていて、すごく暑くなっていた。服が汚れているのはあまり気持ちのいいものではなかったが、マットをふくらませて、そのまま横になった。身体がマットに吸い付くような感じだった。本当に疲れた。
しかしすぐに、あまりの暑さで横になっていられなくなった。荷物を端に寄せるなどして、少しテント内を広くしてから、水場に行った。そこで、冷たい水で顔を洗った。頭にも水をかけて、思う存分飲んだ。冷たさに、目が覚める思いだった。私はそこで、脱いだインナーシャツをじゃぶじゃぶ洗濯した。今日はハイクアップでとりわけ汗をかいたし、まだあと4日も着るものなので、洗えるところで洗っておこうと思ったのだ。あまりに冷たくて、手が、かじかんだ。簡単に濯いだだけの洗濯だったが、それでもよかった。
さっぱりして、水を満タンに汲んでからテントに戻った。洗ったシャツを干すため、シャツをストックに通した状態でテントに立てかけた。そうしてひと通り整理が終わると、目まぐるしかった一日の行動を終えたことに感傷をおぼえた。天候が素晴らしかったことにも気分がよかった。だから、冷たい水を飲んで渇きは癒えていたが、記念にビールを買うことにした。
もう一度管理小屋に行くと、バケツで冷やされている中からビールを選んで、小屋内に入った。私はビールを示して600円を渡すと、450円だと言われた。私が料金を見間違えていたのだろうが、少し得をした気になった。この管理小屋は、単なる受付のためだけの出張所だと思っていたが、こうして冷たいビールにありつけるとは、まったく嬉しい予想外れであった。
私は、テーブル代わりに使えそうな平たい石のそばにテントを張っていたので、その石に座ってビールを飲んだ。テン場はコルにあって、両脇を山に挟まれていたが、視界の中央に、黒部五郎岳がよく見えていた。明日はあそこに行くという実感はなく、暑いなという感覚のほかは、ただぼうっとして、山の中でビールを飲むだけだった。
ビールは、身体が求めて買ったわけではないから、しばらくすると、あまりうまいとは思わなくなった。それでも、ともかく飲んだ。飲み終わった空き缶は、管理小屋近くのゴミ捨て場に持っていった。ゴミ箱に空き缶を放り捨てると、入っていた他の空き缶に当たって、ややカン高い音がした。
手帳に日記を記したり、カメラのデータを携帯に移すなどして過ごしていたが、17時頃になって、食事の準備を始めた。テントの開口部に座り、目の前の平たい岩にコンロを置いて、火をつけた。食事はほぼすべてがフリーズドライの雑炊の予定である。
目分量で計り取った1食分の水を沸かしてから、4食分パックしてある袋から、1食分だけアルファ米を適当に計り取って、湯の中に入れた。そしてご飯ができるまで15分待った。
ご飯が出来上がると、そこにフリーズドライの具材のかたまり(初日はビーフシチューだ)を放り込んで、少し水を足してから再び煮沸した。かたまりがだんだん融けていって、ご飯がお湯にひたって雑炊が出来上がった。早速食べてみたが、ビーフシチューを薄めて食べているようなものだから、なんとも味気なかった。あまり食欲もないし食べたくなかったが、水を飲みながら無理に食べた。
ようやく食べ終わってコッヘルが空いたので、また水を入れて湯を沸かした。合計三度も沸かして、なんとも非効率だった。出来上がった湯でフリーズドライのおしるこを飲んだ。これはうまかった。
後片付けを終えると、その頃には干していたシャツも乾き、荷物の整理をしてから、水場へ行って、歯みがきとトイレをすませた。水場まで移動するのは実に面倒だった。
やることを全て終えてテントにもぐり込み、翌日の計画を見直した。このテント場は電波が入るが、明日以降は部分的にしか電波が入らないので、スマホで天気予報をよく調べておいた。あくまで麓の予報ではあるが、なんと、ここ数日は晴れという予報に変わっていた。梅雨が明けたようだった。
天気が心配なければ、あとは行程である。もともと明日予定していた薬師岳のピストンを今日のうちに終えてしまったことで、5時間分の余裕が出ていた。当初の計画では、4時出発予定のために3時には起床する必要があったが、1時間遅くしても十分だった。そして明日の予定泊地は黒部五郎小舎だったが、がんばれば、さらに三俣山荘まで進出することができそうだった。私は地図を見ながらその行程を計算して、イメージを思い描いた。
陽が落ちて日射がなくなると、山上は急に寒くなった。私はダウンを着て、シュラフにもぐった。いつものことだが、すぐには眠れなかった。加えて、テントを張った場所が、頭にしている方へ傾斜していて、マットの上を、シュラフが少しずつずるずると滑ってしまうのだった。自然にしている間は動くことはなかったが、姿勢を変えようと身体を動かすと、そのたびに少しずつ流された。周囲のテントから聞こえる声が耳についてなかなか眠れず、頻繁に寝返りをうったから、何度も体勢を元に戻さねばならなかった。眠れなかったのは胃腸のせいもあった。だいたい初日は身体が高山に適応していないから、疲労が胃腸にくるようだ。食欲がないところに食べ物を無理に流し込んだことも影響しているかもしれない。
そのうちに、疲労によって眠ったようだったが、また21時頃に目が覚めた。なおも話し声が聞こえた。そうして、うとうとしてはまた目が覚めてを繰り返したが、夜中、胃が気持ち悪くなって目が覚めた。そういえば頭も痛かった。高山病である。ビールなんか飲むんじゃなかったと思った。このように衝動的に気持ちが悪くなったのは初めてだった。頭の方が低いせいなのか、よほどに疲れていたせいなのか。とにかくこのまま横になっていられなくて、たまらず起き上がった。真っ暗なテントの中でザックに手を突っ込んで、今日はもう使わないと思って一番奥にしまいこんだ救急セットを探りだした。そこでライトをつけて、胃薬を適当につまんで飲んだ。
起き上がってしまったのだから、尿意を感じていたこともあり、トイレをすませてしまおうと思った。外に出ると、ダウンを着ていても非常な寒さだった。寒さはともかく、遠いトイレまで行くのが面倒だし、怖かった。
テントに戻り、再び暖かいシュラフにもぐり込んだが、胃の不快さがどうにもおさまらず苦しかった。頭もがんがんして痛かった。酸素が薄いと眠りは浅くなるものだが、体調が悪いので余計に寝つけなかった。
ゆうに2時間は、苦しみながらシュラフの中でもごもごとしていたと思う。その度に身体が頭の方へ流れるので戻さねばならず、落ち着く暇がなかった。時計を見ると2時だった。明日の長距離縦走のためには少しでも眠りたかったが、なかなか睡魔はやってこなかった。そうしている間に多少はまどろんだように思うが、セットしていた目覚ましの時刻まで30分を切ると、どのみち起きなくてはならないのだと感じて余計に冴えてきた。それでも、目を閉じていれば身体は少し休息できるから、そのままシュラフにくるまっていた。
七月十九日(火)【二日日】
目覚ましのアラームが鳴る少し前に、起き上がった。依然頭痛があった。暗い中、手探りでザックの中から行動服を取り出して、着替えた。着替え終えると、テントのファスナーを開けてフライをまくった。ひどい結露だった。
朝食は、フルーツ入りのグラノーラを用意していた。それを1食分、カップで量って皿に移し、湯を沸かしてそのカップでフリーズドライのみそ汁を作った。食欲はまったくなかった。なにかどろどろとしたかたまりが、胃の中心に居座っているような重苦しさがあった。
それでも、食べないわけにはいかないから、むりやり食った。フルグラは口当たりがよく、ほのかな糖分もあって、喉は通すことができた。変な取り合わせであるが、みそ汁は文句なしにうまかった。
食べ終わると、荷物を整理して結露の拭き取りをした。これがけっこうたいへんで、全面を拭くのに何度もセーム布を絞った。そうしてようやくひと通り拭き取ってから、水場に行った。他の人も順次起きて準備を始めていた。すでにあたりは白んできていて、ライトは不要だった。
水場で歯みがきをしていると、テン場から、私よりすこし年上かと思われるひとりの男性が下りてきた。挨拶を交わすと、今日の予定行程の話になり、私は黒部五郎から三俣を目指すが、体調が悪いので黒部五郎小舎が限界かもしれないと話した。彼も、雲ノ平経由で同じく三俣を目指すとのことで、お互いに長距離の行程を慮って笑みを交わした。彼はまだ話したそうな雰囲気ではあったが、私は歯みがきを終えてしまったので、それとなく下がってトイレに行き大便をした。山に入った初日の早朝は、普段と生活リズムが全く異なるために、往々にして便意を感じないものだが、この日は少しではあるが大便が出た。下から出してしまえば、胃は少し楽になるだろうと思った。
トイレから出てくると、水場にはもう誰もいなかった。私はテントに戻って、撤収作業を行なった。それら一連の朝の作業を終えたのは5時半だった。いつも、朝の準備は1時間で終えたいと思うのだが、なかなかそうはいかないものだ。
全ての荷物をザックに詰めて背負った時、思わず、うっ、と思った。それほどに重く感じた。長距離の縦走に備えて水を満タンにしたせいもあるだろうが、昨日より重く感じた。こう感じるということは、明らかに身体が弱っている証拠だった。こんな状態で10時間も縦走できるのだろうかと思った。けれども、先へ進まなくてはならなかった。
ザックを背負っていよいよ歩き出そうとするとき、さっきの男性(Kさんとしよう。私の知人のK氏と似ていた)が、向こうの方でテントをたたんでいるのが見えた。目が合ったので、ストックを持ったまま、手を上げて、行きますと合図を送った。彼も振り返してくれた。雲ひとつない早朝の空だった。遠くに黒部五郎岳がはっきりと見えた。手の平をかざせば隠れてしまうほどの大きさのあそこへ、今これから歩きだそうとしているのだ。
(テン場からの眺め。右手が黒部五郎岳。左奥には槍ヶ岳の鋭鋒も見える)
コル状の薬師峠のテン場から、まず太郎平まで登る必要があった。昨日下ってきた時の様子から、特に最初が急な階段状になっていることはあらかじめ覚悟していたが、実際にきつかった。ダブルストックをもってしても、短いこの坂は容易ではなかった。短いから5分もしないうちに登り切ったのだが、今日の縦走の厳しさを痛感させられる場面だった。この5分で、すでに息が上がってしまったし、とにかく胃が気持ち悪かった。
急坂を登えた所に広がる太郎兵衛平の木道の辺りは、ほとんど平坦だから楽だった。木道から左側には、黒部五郎岳の左手に槍ヶ岳が見えたし、右側には、薄い雲海に隠れる富山市が見えた。右前方、西の方角には、ひと際高い山がはるか遠方に見えた。きっと、白山だろうと思った。
展望を楽しめる平易な太郎兵衛平はすぐに終わって、太郎平小屋に着いた。テン場から10分程度だった。自分の真後ろから陽が上っているので、私の影がすうっと小屋に向かって伸びていた。正面の空が青く、太郎平小屋の赤い屋根と、前方の太郎山の緑とが、たいへんに美しいコントラストだった。
太郎平小屋の周辺は、例によって非常に素晴らしい展望だった。私はザックを下ろして小休止することにした。今日も良い天気だ。黒部五郎から鷲羽までのずらりとした山並みが、朝の斜光によって、刻み出されるような陰影をもって鎮座していた。今やってきた方角では、薬師岳の東南稜から太陽がちょうど上りきって、私のいる太郎平におびただしい陽光を降り注ごうとしていた。その逆光の下で、薬師岳がシルエットとなって、黒く見えた。それもたいへん美しかった。
ここから見る黒部五郎岳は、本当に、はるか先だった。机上論ではコースタイムで4時半の道のりだったが、進路の正面には北ノ俣岳がどんと構えており、それを越えてあの黒部五郎岳に行くということは、視覚的にはかなり無茶なことであるように感じた。太郎平小屋のベンチに座って胃の不快さと闘いながら、ではここで停滞するのか?と自問して、進むしかないのだという思いは揺るがなかった。
太郎平は、右へ下りれば折立への下山路、左へ折れれば薬師沢までずっと下ってから再びその分登って雲ノ平、そして正面へ進めば北ノ俣岳を越えて黒部五郎岳への縦走路、と、交通上の分岐点である。計画立案に際しても、いかにこの太郎平の交差点がキーポイントになったことだろうか。私は迷わず正面の進路をとった。
すぐ目の前には、ゆったりとした丘陵に向かって木道が伸びていた。直立できないほど胃が不快だったが、その木道は歩きやすく、周囲には高山植物が多数咲いていて、非常に開放的な空間を、ストックを身体の支えにして登っていった。初めてワタスゲを見た。ふわふわした綿毛に触れてみると、とても気持ちがよかった。
地図上、あまり高低差のないこの付近に太郎山の三角点があるはずだったが、登山道の周辺にはいくつか池塘があり、草木の生えていない部分がまだらになって、登山道らしき道は判然としなかった。これかと思うあたりを見回してはみたが、三角点への道は分からなかった。何より気分が悪くて一歩も無駄にしたくなかったので、それ以上探すのをやめて、先へ進んだ。この辺りで、先行していた年配の10名ほどの団体を抜いた。
木道付近で、軽装というか普段着に近い格好で向こうから人がやってきた。なんとも無茶なやつだと思いながら、すれ違うときに挨拶をしたが、それが若い女性であったので、なお驚いた。すれ違ってから、あれは昨日、太郎平小屋で受付をしていた女性だったろうかと思った。山小屋のアルバイトならば空き時間を使った散策は思いのままだ。山小屋では、若い女性たちが意外に多く働いているのを見る。山小屋に泊まり込みでアルバイトをする彼女たちが何を求めているのかは分からないが、そうしていつでも山の絶景に浸れる機会があることは本当に羨ましいと思った。
太郎山あたりでゆるいアップダウンを越えると、右前方に二つのこぶが見えてきた。北ノ俣岳と赤木岳だろうと思った。途中経由地点にすぎない北ノ俣岳が、まだあんなに遠くて高いのかとうんざりした。かなり気持ちが悪くなってきていたから、なおさらだった。
じつに、苦しい登行だった。私は何度も、重いザックを下ろして休止した。足が上がらないというより、上体が起こせなくて腰を利かせられないから、足とストックだけで登ろうとしているような状態だった。そんなだから余計に疲れた。
しかしこの時の自分の写真を見返してみると、げっそりした様子はないし、ここまで抜いてきた人たちには威勢よく挨拶を発して、しかも抜いてきているわけだから、彼らもまさか私が不調を抱えているとは思わなかっただろう。いかに体調が悪くとも、この素晴らしい景観の中では、力が湧いてきていたのかもしれない。
(右手の北ノ俣岳へ。弧を描くように、左手の黒部五郎岳を目指す)
北ノ俣岳への長い稜線上は非常に美しい登山道だった。視界を遮るもののない青空の下のハイキングだ。体調がよければいかに気持ちのいいものだったろうかと思う。ただ、そんな登山道も、所々段差が激しい箇所では、雨水によるものと思われる穿孔が進んでいて、登山道の木段が崩壊している箇所があった。そんなところでは、崩壊した段差をまともに乗り越えるのは体力を消耗するから、雨水の通り道である土砂の部分を歩いた。そのうちに正規の木段に合流するなどして高度を上げていった。それでも、どうしても高い段差を登らねばならない部分はあって、重いザックを担いながらそんな登りを続けていると、じわじわと胃が収縮してきて、何度も吐き気を感じた。いよいよ吐き気が高じてきて、おえとやってみたが、吐瀉してしまうことはできなかった。やたらと胃がむかむかした。
最初の団体を抜いてしまってからは、誰にも会わなかった。吐こうとしても吐けずに、ずっとつらい登りに耐えてきたが、脇にちょっとした灌木帯を見つけたので、誰もいないことを良しとして、ここで大便をして下から軽くすれば少しは楽になるかもしれないと考えて、そこでしゃがんでみた。だが、胃腸に不快物が沈殿していることは間違いないのに、便意がないから、軽くはならなかった。
結局体内を軽くすることができずに北ノ俣岳手前の急坂を迎えた。後方から一人登ってくるのと、前方に一人いるのが見えた。登山道の両脇はハイマツとハクサンシャクナゲの白い花とで覆われていた。石がごろつく路面にストックを立てながら登った。北ノ俣岳の直前で前方の一人を抜いて山頂に立った。
ああようやくひとつのピークだと思った。薬師峠から標高差300メートル強、とてもつらい登りだった。写真を撮ってから、ザックを投げ出して座った。さっき抜いてきたばかりの人が上がってきた。どことなく桃井かおりに似た、中年の女性単独行者だった。さっきは簡単な挨拶だけだったが、本当に天気がいいですねと話しかけて、少し会話をした。実に、いい天気だった。低層部に層雲が少しあったが、上空は真っ青な空だった。進路前方のいくつかのコル(下りて、また登るのだ!)を隔てた先の正面に黒部五郎岳があって、その左手には槍ヶ岳の美しい三角錐がはっきりと見えた。加えて右手には、これまで見えなかった笠ヶ岳が姿を現していた。両脇奥に槍と笠との典型的な姿を持つ二峰を控えさせた光景には圧倒させられるものがあった。
私はそこでの休憩中、無理に行動食を口に入れた。胃が気持ち悪いところへさらに食べ物を落とすことがどうなるか分からなかったが、これがきっかけで吐くことになったとしてもそれでよかったし、もし終息に向かうのならば、少しでも食べておかないとシャリバテになると考えたのだった。それにしても、この山行の一番の失敗は行動食であったと思う。口当たりや栄養を考えて1日分をひとつのパックにして持ってきたのだが、いろいろと入れすぎたために匂いが混じり合って、なんとも食欲を減殺されるものになってしまった。だから水でむりやり流し込むようにして食った。がんばってそれらを食べている間に、桃井さん(そう呼ばせていただこう)が先に行きますと去っていった。
行動食を胃に流し込み終えると、出発した。しばらくは広い台地状の尾根だった。山頂からその台地へ下りると、笠ヶ岳の右後方に、乗鞍と御嶽が見えた。非常に素晴らしい眺めだった。黒部五郎、笠、乗鞍、そして御嶽は、ほとんど等間隔に並んで見えた。こんな配列の眺望が得られるとは予想していなかったので、とても感動した。
台地を抜けると下りになった。すぐ下に桃井さんがいるのが見えた。私はすぐに追いついた。この程度の下りは早いものである。桃井さんに先をふさがれる形になってしまったが、その状態のまま、彼女はよくしゃべった。滑舌と風向きの関係か、よく聞き取れなかったのには困ったが、聞くと、神岡新道から北ノ俣岳へ上がってきたのだという。彼女は、一昨日の大雨のことを話していた。もちろん上がってきた昨日は降られなかったが、くるぶしや、場所によっては膝まで埋まるようなひどいぬかるみだったそうだ。神岡新道のことは不勉強だったが、地図で見たかすかな記憶では、あまり踏まれていなさそうな印象だったから、なるほどそういう難路なのだと分かった。
下りきった辺りで、桃井さんが道を譲ってくれた。こんな体調では逆にまた追いつかれるだろうと思いながらも、礼を言って先へ進んだ。いったん下りきってから再び登り返しだ。その赤木岳の登山道は岩場だった。大きな岩がハイマツの間にごろごろ積み重なっていて、その岩伝いに進んでいくのだった。浮いている岩はあまりなくて、よく整備されていると感じた。それよりも、岩伝いの登山道は楽しかった。途中、赤木岳の道標があった。そこで休憩していると桃井さんが追いついてきて、ここが赤木岳かしらと言った。私は道標を見ていたので、たぶんそうですねと答えた。赤木岳のピークは頭上にあって、登山道はピークを巻くようになっていた。
そこからまたずっと下りだった。赤木岳の直下はそのまま岩場の下りで、少し慎重を要した。この頃、ようやくにして胃の不快感が消えた。すでに3時間近く歩いてきていて体力は消耗しているはずだったが、折しも下りであるし、脚がよく前に出た。また桃井さんに追いついて、少し話した。左側の沢は赤木沢だと教えてくれた。私は三俣を目指すと話したら、彼女も黒部五郎小舎か三俣山荘かいずれかにすると言った。いろいろと聞いていると、まったく猛者だと感じた。失礼ながらその年齢で、しかも女性でこの規模の単独行をするのだから、私と変わらないではないか。また、その控えめな話し方も好ましく感じた。こういう人こそ真の登山家だと思った。私の荷を見てテントかと聞かれたので、私も逆問してみると、小屋泊だが、昨夜は北ノ俣避難小屋で宿営したとのことだった。ということはシュラフを持っているのだろう。それなりに大きな荷物を背負っておられて、その点も、私とほとんど同じ条件だと思った。
そうして1時間ほど歩いた頃か(すでに桃井さんを後方に離している)、中俣乗越に着いた。標高で見ると2,450m付近だ。まったく、たいへんな思いをしてここまでやってきたのに、2,661mの北ノ俣岳その他のアップダウンはここでリセットされて、スタートの薬師峠からはわずか150mしか上がっていないことになる。しかしこれは縦走における宿命である。こういう考え方をしてみると、一見無駄とも思える縦走に惹かれるものはなんなのだろうと、少しおかしく感じた。もちろん水平距離は相当なものだ。例の時計で例えると、10時半の位置にある薬師峠から、10時の太郎平、9時の北ノ俣岳、そして8時の位置が、今いる中俣乗越だ。黒部五郎岳は7時の位置である。あともう少しだ。
また高低の視点になるが、本日の最大の登りがこの先だった。2,840mの黒部五郎岳の絶頂まで、およそ400mの直登である。ここから山頂までのコースタイムは2時間弱もある。北ノ俣岳からも、この長い登り坂がよく見えていた。朝からずっと、あんなところまで歩くのかと思っていた黒部五郎岳が近づき、いま、最大の難所にさしかかっているのだった。
この付近から、黒部五郎岳方向から下山してくる人に出会うようになった。きっと早朝に黒部五郎小舎を出て、私と逆路で縦走している人たちだろうと思う。難路を前にしても、賑わいだした活気と、これから黒部五郎岳の難所なのだという興奮とで、気持ちは逆に、はやった。
またひとつ小ピークを越えるあたりだったか、ストックが岩と岩に挟まれて引き抜いた際に、ゴムキャップがなくなっているのに気が付いた。ザックを下ろして付近を探してみたが見当たらず、これまでにも挟まれて引き抜いたことは何度かあったから、もしかしたらそれ以前に失くしてしまったのかもしれないと思った。やがて桃井さんが上がってきたので、失くしちゃったと言うと、ごめんなさい気づかなかったわと謝ってくれた。なにもそういうつもりで言ったわけではなかったので、非常に恐縮した。そんなこんなで、抜きつ抜かれつ、桃井さんと一緒に黒部五郎を目指しているような感じだった。
山頂直下の急登部分に最初に取付いたのは私だった。ここまでの縦走でだいぶ疲労がたまっていたが、体調が復活して腰が利くようになっていたので、案外と力強く登ることができた。また、随所にイワギキョウの群落があって、白いガレた山肌との対比を楽しみながら登った。けれども、そんなふうに余裕があったのは最初のうちであった。いよいよ低酸素帯に入り、昨日の薬師岳と同じように、また一歩一歩が苦しくなった。ここも傾斜が急で、ジグザグの登山道だった。この直登エリアでは何度も足を停めた。ゼリー飲料でアミノ酸を補給したりして、少しずつ登っていった。何度も足をとめて、ストックに寄りかかって呼吸を整えては、また次の目印を自分で定めて、次はあそこまで、もう少しがんばろう、いやあそこまで行こう、などと言い聞かせながら登っていった。
そうして、やっとのことで肩に着いた。眼下には、中段に桃井さんがいて、もっと下の取付部分には、太郎平小屋直後で抜いたあの団体も、いつの間にかその姿を見せていた。私は少し休憩して呼吸を整えた後、そこへザックをデポして、サコッシュに貴重品と行動食だけを詰めた軽荷となり、ダブルストックを推進力として山頂へ向かった。軽荷となったおかげで、驚くほどのスピードで身体が上がった。肩からわずか5分で、はるか遠かった黒部五郎岳の山頂へ到達したのだ!
目の前に三角点があった。ガレた岩に覆われた、少し狭い山頂だった。そんな雰囲気がとてもアルペン的で、美しいと思った。そして、聞きしに勝る、たいへんな大展望だった。私が到着したときは誰もいなかったから、その素晴らしい山頂と大展望を、完全に独り占めしたのであった。
南側には、笠ヶ岳と、その左手に、穂高岳から大キレットを経て槍ヶ岳までの稜線が見えた。そして東側の直下には、大きなスプーンでえぐった痕のようなカール地形が雄大な広がりを見せていて、遠く正面には明日登ろうとする鷲羽岳が見えた。もちろんその左手には黒い水晶岳と、さらにその左に赤い赤牛岳が見えた。さらに視線を左へやると、雲ノ平を隔てて赤牛と対峙するように、昨日登った薬師岳の優美な姿があった。また、赤牛と薬師に挟まれた谷のはるか遠方には、昨日は雲の中にあって見えなかった立山と剱岳の姿も見ることができたのだった。
(山頂三角点と、南側の展望)
(東側。中央の雲ノ平の向こう、一番右手が、明日登る鷲羽岳)
私は我を忘れて、夢中で写真を撮った。快晴の空の下で、こんなにも周囲をぐるりとすばらしい山々に囲まれているなんて。この時間がいかに素晴らしいか。誰もいない山頂、名峰の数々、美しい空、山、岩、それらすべての自然。私にとって、ここでは時間が止まっていた。
だが私は同時に、このピークが今日一日の計画行程上は半分の途中地点にすぎないことを冷静に認識していた。それにこの先しばらく電波圏外になってしまうことを認識していたので、スマホの電源を入れて、天候などの情報確認のために通信をした。
まもなく桃井さんが上がってきた。私は桃井さんと登頂を喜んだ。彼女が写真を撮ってくれというので、標柱が壊れて落ちてしまっていた「黒部五郎岳」の名板を持たせて、三角点と一緒に写真を撮ってやった。私もすでに自身で撮影済だったが、同じく撮ってもらった。そうして、一番のポイントを譲って、自分は南の方に少し離れた所で座って、笠ヶ岳と槍ヶ岳方面を眺めた。ずっとこうして眺めていたかった。ただ何も考えず、時が本当に止まればどんなにいいだろうかと思った。大展望の前で、私はただ山の空気の一部となって、そこに座っていた。