10.再登・笠ヶ岳 そして下山
七月二十二日(金)【五日日】
3時半頃に起床した。すぐに天幕を開けてみると、穂高の稜線がはっきりと見えて、槍ヶ岳の向こうの空が明るくなっていた。それを見た私は、期待できそうだと直感し、御来光を見に山頂へ行こうと思った。
最後のフルグラで素早く朝食を終えて、4時過ぎにテントを出発した。軽装だし気がはやっているせいか、20分もかからずに山頂へ再登頂した。山頂にはすでに二人の人がいて、日の出を待っていた。山頂から見る光景に私は絶句した。槍ヶ岳、大キレット、穂高岳の稜線が黒々と目前に展開し、小槍を従えた槍ヶ岳の左側の空が赤紫色に染まっていた。上空にはやや崩れかけたうろこ雲があって、地平線に近い雲も同じ色に染め上げられていたが、槍ヶ岳の直上の雲はまだねずみ色のままで、雲の天井が見事なグラデーションに彩られていたのであった。
(早暁 笠ヶ岳からの眺め)
御来光はまだだというのに、私はすでに魅了されてしまって、何枚も写真を撮った。昨日は何も見えなかったのに、今日は地平線まで見えているのだ。これほど興奮する状況はなかった。色彩の届かない後方には、焼岳、乗鞍、御嶽の姿があり、方角を転じれば白山も見ることができた。そのうちに、一人、また一人と、山荘から人か上がってきた。
光のグラデーションは刻一刻と様相を変えていった。まずは天井の雲の色だ。地平線から、だんだんとこちら側に向かって、雲が赤紫色に染まってきた。それと呼応して、地平線のあたりを染めていた赤紫色がピンク色に変わった。そのピンク色が次にこちら側へやってくるという具合に。
そしてついに、地平線の彼方にぱっと眩いオレンジ色の輝きが放たれた。次の瞬間、その光源の周りがさっと紅色に染まった。折しも槍ヶ岳の上空が、さっき地平線を彩ったピンク色にようやく染まったところだった。
少し視線を左側、つまり北方に向ければ、東から黒部五郎岳、薬師岳、立山と剱岳、水晶岳、鷲羽岳の山群が、薄紫色の雲の下に黒く居並んでいた。ああ、この四日間で歩いた山並みだと思った。彼方に立山と剱岳があり、それより手前に位置する四座と、それらをつなぐ稜線を、すべて歩いたのだと思った。最終日の今日、最終地点である笠ヶ岳から出発地点の方角を眺めているのだ。昨日見られなかったのに、今日になってそれらを一望できたことに、奇跡的な意味があるようにすら感じた。たいへんな感動であった。
地平線を染めた紅が徐々にこちら側へやってきていた。その数分後、私は息をのんだ。空に浮かんでいる雲のすべてが、紅く、いや赤く染まったのである。真っ赤な雲の天井の下で、真っ黒なギザギザした稜線が天を衝いているのだ。私は夢中でシャッターを切った。まばたきする時間すら惜しかった。なぜなら神秘的な時間はそう長くはなかったのだ。太陽はどんどん昇って、赤い色彩が、次第にそのおびただしい強い光の中に包まれようとしていた。赤い雲は、まるでそれに抗うかのように桃色の輝きを見せた後、白い強大な光に包まれてしまった。
(真っ赤に染まる空)
一瞬のうちに、私のよく知っている雲に変わった。あの壮大な色彩が一体どこへ消えてしまったかと思われるほど、辺りは、朝らしい、薄い青色を帯びた静寂の色彩に立ち戻っていた。
興奮に終始したモルゲンロートのショーが終わっても、天空にはなおその余韻が残っていた。薄い青みを帯びた大気は、銀色ともねずみ色とも言えない微妙な色彩を見せ、それからゆっくりと紺青の空を私たちに見せた。時間のゆるす限り、山頂にいた人たちはその余韻にふけった。地平線が赤紫色に染まってから、わずか20分足らずの出来事であった。私には、それがまるで2時間ほどもの長い時間に思えた。
5時が近づくと、人びとは三々五々、山頂から下りていった。名残惜しかったが、私も下りることにした。充分に山頂を堪能したと思った。昨日の登頂の数倍にも感動は大きかった。早起きして、またここまで来てよかったと思った。もしかしたらこの旅で一番の感動であったかもしれない。それがこの最終日に得られたのだ。この感動の瞬間に立ち会ってしまえば、結果論だが笠ヶ岳のピストンなど考えていたことがばからしかった。開放的で快適なテント場と、この御来光だ。笠ヶ岳で泊まって、本当によかったと思った。
小屋まで下りて、歯みがきと大便を済ませてからテントへ下りた。山へ来て初めて、快調な便通だった。昨日は思いがけず腹痛に見舞われたが、今日の下山は何も心配することはないと思った。テントを収納している間、すっきりと槍ヶ岳が見えていた。早朝の涼しい風に吹かれながら、あらためて、素晴らしい泊地だったと思った。天気予報に反して今日も晴れるだろう。もし天候が崩れるとしても、下山中は大丈夫そうだと思った。
片づけをしている間に、少しずつ山荘から人が下りてきて、傍らを通り過ぎていった。昨日のご夫婦もいた。昨日はありがとうございましたと礼を言うと、先に行きますねと奥さんが笑いながら言って、ご主人も手を上げてくれた。テント場を去ったのは6時を回った頃だった。昨日は大きな岩に「ガンバレ」と書かれていたが、逆方向のこちら側には「サヨナラ」とペンキで書かれていた。おおざっぱだと感じた山荘だったが、登山者への思いやりと努力のつまった山荘だったなと思った。大規模な双六小屋もよかったが、こんな山荘も好きだと思った。
(テント場をあとにする。あの雲海の下へ、下りるのだ)
昨日とは反対向きの稜線歩きが始まった。じきに抜戸岩が現れて通過したが、その先の抜戸岳までが長く感じた。途中のアップダウンで息が上がると、決まって振り返って笠ヶ岳を望んだ。今日は青空の下に美しく姿を見せていた。その姿は、みるみるうちに小さくなっていった。抜戸岳直下では、こんなに下ったかなと思うほど、なかなか登り返させられた。
抜戸分岐から、双六方面への稜線の向こうに、三俣蓮華岳と鷲羽岳が見えた。背後にはもちろん笠ヶ岳も。この分岐点から尾根の反対側へ乗り越して、一気に下っていくのだ。笠ヶ岳はまだ見えるであろうが、鷲羽はこれが見納めだった。それらの山々と別れを惜しむように、先行していた人々がその周囲で休憩をしていた。先のご夫婦もいた。さっきテントを片づけてたばかりなのに早いねと元気よく言われた。40分も前のことだが、たしかにコースタイムよりは早いペースで歩いてきていた。奥さんがプシュっとコーラを開けた音が聞こえて、思わず生唾をのみこんでしまった。
私もそこで皆さんと一緒に休憩をした。この景色もさることながら、こうしてせっかく出会った人たちと別れるのもなんだか切なかった。きっと、ここで私が抜いてしまえばもう、追いつかれることはないだろう。ここがお別れなのだと思った。いろいろと言いたいことが頭に浮かんだが、何を言ったのか、はっきりと覚えてはいない。ご夫婦に、あらたまって、お礼と、無事の下山を言っただけだったろう。
そこから、カール地形の急坂を300メートルほど一気に下った。急だから、ストックを注意して使いながら下った。杓子平だ。ここも例外ではない美しさだった。灰白色の岩稜に縁どられた笠ヶ岳の稜線と、緑色の裾野。チングルマなどの高山植物が咲いていた。振り返って仰ぐと、先ほど抜いてきたご夫婦やほかの方々が上の方にいた。時折、急な道の感想を話している声が聞こえた。それもやがて聞こえなくなった。
すり鉢型の杓子平を通過して南の縁に到達したところから、笠ヶ岳を見た。直線距離はさほどでもないかもしれなかったが、抜戸岳をぐるっと回るように下山してきたから、アプローチの上ではもうずいぶんと遠い山になってしまっていた。そして、道がこの先、すり鉢の縁から反対側へ急降下するはずだったから、もう、ここで見納めだった。はるか遠くに見えていた山、ルートを二日も悩んだ山、最後に素晴らしい奇跡を見せてくれた山。私はその姿を目に焼き付けて、笠新道へ足を向けた。
(笠ヶ岳に別れを告ぐ)
そこから千メートルの急降下だった。道は最も急で、しかも南側斜面であるから直射日光を浴びて体力を消耗した。急斜面をジグザグに下りていった。その間、トリカブトやニッコウキスゲをはじめ、見たこともない花々が咲く様に救われながら歩いた。ササユリやシモツケソウなども見た。長い下り坂はともすると集中力を途切れさせた。間もなくすると滑りやすい岩で覆われた道になったから、集中力の欠落は事故につながる危険なものだった。ただでさえ片方のゴムキャップを失っているストックは、一操作の油断も許されなかったし、下半身の消耗がバランスを危うくさせることもあった。これは危ういと感じるたびに、狭い登山道で休憩をとった。ひどく暑かった。
この日は金曜日だったから、一日休んで前入りしようと目論む計画からか、下から上がってくる人がたくさんいた。狭くて岩で覆われた登山道でのすれ違いは注意を要するので、そのたびに少しずつ消耗した。中には疲労のあまり上を見ずに上がってくる人もいるから要注意だった。一度、私がバランスを崩した時にそうして突き進んできた人がいて、ひやりとした。もしその時に接触などしていたら、私はきっと転倒していただろう。ちょうど谷側にいたから、そこは崖ではなかったが少なからずけがをしていたに違いない。
長期の縦走を終えた下山者と、これから山に入ろうとする登山者との行き交いは、考えてみれば面白いものだった。もうはるか昔のことのように思えるが、五日前の折立登山道では私が逆の立場だった。あの時の自分と比べれば、今の自分は大きな感動で満たされている。しばらく鏡を見ていないが、日焼けと疲労と無精髭によって、外見も違っていることだろう。そう、登ってくる人たちは、急な笠新道の勾配に苦しみながらも柔和な眼をしている。私はきっと、いくらか野性を帯びているだろうと思った。
森林限界の高山域から標高を下げて樹林帯に入ると、同時に気温も上がってきたから、持久力が加速度的に失われていった。休憩をとる間隔が短くなった。時間はたっぷりあって焦る必要はまったくないのだが、長い下り坂は時間と高度の感覚を狂わせて、苛立ちがつのった。精神的な感覚に頼らず高度計を極力見るように努力しようとするものの、焦りや苛立ち、つまりは精神的な疲労を、隠すことはできなかった。途切れがちな集中力を維持して足元に注意を払いつつ自分とも闘わねばならない下りだった。そんな長い下りが二時間半も続いた。
登ってくる人とのすれ違いによって少しずつ体力が削られるものの、それらの人たちと言葉を交わすのは楽しかった。私のザックを見て縦走ですかと聞いてくれる人が何人かいた。さらに詳しく聞いてくれた人がいて、折立から五日間歩いてきましたと言うと、本当にいいねえと敬意すら持っていただいていると感じさせる眼で私を見てくれた。その人も相当山をやり込んでいるような印象だったが、そんな彼から発せられる敬意は、私の行動結果に向けられているのではなくて、五日間も山に行こうとした私の山を愛する精神に向けられているのだと感じた。だから私は行程をいちいち述べるのではなく、自然と、いかにそれが素晴らしいものであったかということだけを語った。私の稚拙な言葉で語ろうとすればするほど、それが陳腐なものに映ってしまうから多くは語れなかったが、へえ本当にいいねえとだけ繰り返しながら私に向けられる眼差しで、その理由すらも分かってくれているように感じた。最後にそんな人に出会えて共感を抱いてくれたことが嬉しかった。
笠新道の登山口が見えた時には、もう膝ががくがくだった。林道まで急いで下りたかったが、そんな状態で身体が意のままにならなかった。ようやく林道に下り立った時、事故なく下山できたことに本当にほっとした。水場があったので、むさぼるようにその水を飲んだ。冷たくておいしい水だった。水の消費量を気にする必要も、これでなくなった。
林道を右へ行けば新穂高であったが、小休止の後、反対の左方向への道をとった。近くにあるはずのわさび平へ寄ろうと思ったのだ。笠ヶ岳のピストンをやめたことで、鏡平は諦めることになったが、ここから近いわさび平まで足をのばすことくらいは可能だった。ふらふらになった自分へのご褒美に、名物の冷たいトマトを食べようと思ったのだ。それを勧めてくれたKさんは、今どうしているかなと思った。
道は林道だから歩きやすかったが、ほのかな登り坂であった。ふだんならば気が付かないかもしれないほどの勾配だったが、そんな程度の坂でもつらかった。まさに精も根も使い果たしたような状態だった。コースタイムは10分と書かれていたが、その10分がとても長いものに感じた。わさび平小屋はなかなか姿を見せてくれなかった。もしかしたら小池新道を下りて来るKさんと会えるかもしれないと思ったが、会えなかった。
ようやく着いたわさび平小屋は立派で、多くの人でにぎわって活気があった。木製の水槽がいくつか置かれていて、最初に見た二つの水槽にはビールやジュースが入れられて冷やされていた。小屋を回ると横手にも二つの水槽が置かれていて、そこが野菜と果物のコーナーだった。トマトのほか、野菜はキュウリ、果物はリンゴ・オレンジ・バナナに、スイカもあった。水が引かれていて、その水槽に流れこんでいた。どれにしようかと迷ったが、やはりトマトがうまそうだった。受付に行ってトマトをくださいと言うと、外にあるから取ってくださいとのことだった。金を払って水槽へ戻ったが、それでは金を払わずに他の物を取ることもできるではないか、あるいは、周囲の人から見れば私がまるで無銭で取っているように見えるではないかと、ここもまた、なかなかおおざっぱな山小屋だなと思っておかしかった。
水槽に手を入れてトマトを取った。握りこぶし大の、大きなトマトだ。水槽はかなり冷たい水だったから、食べる前から絶対にうまいことがわかって、嬉しくなった。だから、食べる前に記念写真を撮った。そうしてトマトにかぶりついた。泣けるほどにうまかった。キンキンに冷えていたし、大きくて甘かった。下山した喜びもあって、格別なうまさだった。朝から水と少量の行動食しか口に入れていなかったから、夢中で食べた。トマトのわずかなヘタを残して、あっという間に食べてしまった。じつに感動的なトマトであった。
食べ終えて、立ち上がった。これから新穂高まで、約一時間の林道歩きだ。わさび平小屋から緩い勾配で下っていくのだ。さっきの笠新道登山口を通過し、途中で鉄骨の橋を渡ったが、その頃には、傍らを流れていた川が急な幅広の川に変化していた。その辺りに最後の水場があったので、手持ちボトルに水を満たして、ザックの中の水は全部捨てて軽くした。ストックもさっと泥を洗い流して、短く引っ込めた。
短くしたストックを両手でぶらさげて乾かしながら歩いた。橋を渡ってからは、右手に川、左手に山という位置関係で林道を歩いた。疲労していたが、負担のない林道歩きだった。樹木が陽射しを遮ってくれるし、川音が聞こえていて涼しかった。時折、はっとするような冷たい風も吹いてきた。
しばらく歩くうちに、その冷たい風が、左手の山の中から流れ出ていることに気が付いた。風穴である。そんな風穴がいくつもあったのだ。それに気が付くと、楽しくなった。長い林道歩きはつまらないものだったが、そこら中にある風穴から出る冷気がアクセントをつけてくれた。一箇所、顕著に吹き出ている風穴があって、その前に立つとひじょうに気持ちよかった。そこに座って水を飲み、ストックを収納した。
林道がヘアピンの急カーブを見せた。建物が見え隠れした。いよいよ終わりかなと思った。その先にゲートがあった。新穂高の登山口である。これから入山しようという人が三人ほどいた。登山届ポストや、コースの概要を示す案内板などが設置されていた。そこを過ぎた。
目の前に、ぽっかりと広い谷が開けた。そこを大きな川が流れていた。眩しかった。ずっと樹林帯にいたので強い光に慣れるまで少し時間がかかった。川を渡るとすぐそこが新穂高のバス乗場だった。ロープウェイ乗場もそこにあった。着いた!下山したんだ、と喜びが抑えきれなかった。
まずは温泉だ。事前の下調べによって、中崎山荘奥飛騨の湯という施設に行く予定だった。位置がよく分からなかったので、ロープウェイ乗場の外でだんごを売っている人に場所を聞いて、教えてもらった。少し下ったところにあった。
きれいな施設だった。大きなザック棚にザックを置いて、着替えの衣服だけを更衣室に持ち込んだ。何度か自撮り写真の画像で見てはいたが、鏡で見ると、びっくりするほど顔が日焼けしていた。入念に二度身体を洗って湯につかった。日焼けした肌がぴりぴりと痛んだが、そんなことは構わなかった。じつに気持ちがよかった。浴場には飲泉や冷水があった。眺望はなかったが露店風呂があって、湯温はそちらの方が快適だった。まだ正午前で人も少なく、ゆっくりと入浴した。汗と砂で汚れた服装をすべて脱ぎ捨てて、温存していたきれいな服に着替えた。身体を拭き終えると、入浴後のせいか、日焼けした顔の皮膚がまだら状にむけて、なんともみっともない顔になった。特に鼻と口のあたりがひどかった。
入浴後、ロープウェイ乗場まで登り坂を戻った。予定のバスの時刻までまだ一時間以上もあった。一本早いバスに乗ることもできたが、そこの食堂で昼食を食べることにした。
窓に面して川を望むことのできる席を占めて、料理が出来上がるまでの間、ザックを整理した。生ビールはとてもうまかった。疲労しきって、入浴した後の身体に、きゅうっと染み渡った。注文した温かいラーメンをちびちびと食べながら、スマホの山アプリの整理をした。
食事を終えて土産物売場を物色してからバス停に下りた。Kさんの姿を探したが、いなかった。双六小屋から小池新道を下りるだけだから、出発時刻によっては私より早く新穂高に着いたかもしれないし、入浴したり食事をしたりしている間に一本早い便に乗ったのかもしれないと思った。彼ならば、乗り遅れるなど考えられないから、そのいずれかだろうと思った。だから結局、彼とは三俣蓮華岳で別れたきりとなってしまった。ここで会えていたら、笠ヶ岳の旅を話したかったし、きっと今日は鏡平からの眺望も良かっただろうからその話を聞きたいと思っていた。それはかなわなかった。
高山までおよそ二時間のバスに揺られながら、Kさんや、桃井さん、笠ヶ岳のご夫婦のことなどを思い浮かべた。すべてはこの五日間における刹那の出会いであった。だが、私はそれにどれほど救われたことだろうと思った。名前すら知らない出会い、それは文字通り一期一会だった。
高山から京都行の高速バスに乗り込んだとき、これでようやく、帰るんだなと思った。もはや自分は下界の一部であった。
山旅は、山頂に登頂するだけの旅ではない。なのに、写真を見返すと、どうしても風景の良いところばかりが残っている。登頂は最大の目的であり、感動のほとんどはそこに集中しているが、旅とは、計画から下山に至るまでの行動と思索のすべてを指すものだ。そこには決して鮮やかではない思い出もたくさんある。今回の山旅はこれまでの山歴の中で最長のものであったから、その分、たくさんの思い出があった。だから私は、画像に残らない、きっと消えてしまうであろう記憶を、なるべく忠実に記録しておきたいと思った。
薬師岳、黒部五郎岳、鷲羽岳、水晶岳、笠ヶ岳の五座はいずれも素晴らしい山だった。それが素晴らしい思い出は、山それ自体の素晴らしさと、この五座の点を縦走でつないだ旅によるものである。
記:2016.8.21~9.19