1.縦走計画
薬師岳、黒部五郎岳、鷲羽岳、水晶岳、笠ヶ岳。
私が最初にこのエリアを縦走しようと考えたのは、相当前のことになる。それがいつのことだったか、はっきりと覚えてはいないが、2015年の夏に表銀座を縦走し、時をおかずして剱岳登頂を果たした後ではなかっただろうか。その年の登山テーマは、槍・剱という、登山者ならば必ず憧れる二座に登頂するということであって、その次の目標として、このエリアの縦走計画を思い描いたのだと思う。
北アルプスの中でも奥地に位置するこのエリア、中でも黒部五郎岳や水晶岳といった山々はとりわけ最奥部にあり、最低でも三日間は要する山として名高い。ただ一座に登るだけでもたいへんだが、それだけの日数をかけて一座だけ登るというのはもったいない。それならば、ある程度日数をかけて、このエリアの百名山を軒並み制してしまう方がよいのではないかという考えは、それ以前からもあった。ちょうどこの年は、入社十年目には十日間の特別休暇を取得できるという会社の福利厚生制度のもとで、その権利が当たる年だったから、時間的にも可能なタイミングでもあった。
こう書いていると、あたかも前の年にはすでに計画を立案していたようだが、その頃はまだ漠然と、いつかこのエリアをやろうと考えていたにすぎない。2016年の元日に、一年間の目標の山の名を紙に記したが、北アルプス深部の山々の名は二番目の順位に記されているのみだ。それどころか笠ヶ岳にいたっては、そこに名が記されていなかった。まずは特別休暇を取得できることを確実に確認する必要があったし(会社の制度が変わる可能性があるため)、その頃は、早春期をターゲットに晩雪登山を計画していた瑞牆山と金峰山の方に意識が向いていたから、冬季の間は北アルプスを具体的に考えていなかった。登山計画書を書き始めたのは四月以降だっただろう。
前述したが、当初この縦走計画に笠ヶ岳は含まれていなかった。また当初は、正反対に南側から入山して北の折立へ下山する考えだったし、雲ノ平を経由するルートなども検討していた。それら計画は三つのパターンとなり、それぞれの見地に立った計画を作成した。所要日数は、いずれも四日間と試算した。
だが検討を進めるうちに、今回、初めて予備日を設けることにした。過去の登山では一度も設けたことはなかったが、奥地ゆえに一度入山してしまうとエスケープすることができないから、万一天候悪化など不測の事態が生じた場合は停滞するほかないことを想定したからだ。
予備日を設けると、予備日を使用しない場合に、余った一日をどう過ごそうかという悩みが生まれた。しかも予備日はどこで使うことになるか分からないから、余る場合の行程を別に組むのならば、それは最終日でなければならない。予備日を使用する場合とそうでない場合の二通りの行程を、最終日に設定するということだ。
そうして、終盤に薬師峠で幕営することになる北行きルートは、その先、折立へ下山する以外の選択肢がないため消滅した。反対に、双六小屋から小池新道を下山するという南行きルートに、笠ヶ岳を予備計画として加えることにした。前記した雲ノ平も予備計画として魅力があったが、南北いずれから入山しても、ルートの選択機会を最終日に温存しておくことができないため、消滅した。
こうしてできた計画が次のとおりである。
一日目 富山県・折立から入山、登行。薬師峠で幕営。
二日目 薬師岳ピストン。のち、黒部五郎岳から黒部五郎小舎へ縦走し、幕営。
三日目 黒部五郎小舎から三俣山荘へ縦走。テント設営し、鷲羽岳・水晶岳をピストン。
四日目 三俣山荘から笠ヶ岳へ縦走。笠ヶ岳山荘で幕営。
五日目 笠新道で岐阜県・新穂高へ下山。
ここで、どこかで予備日を使用した場合は、四日目を五日目と読み替え、笠ヶ岳を中止して三俣山荘から小池新道で新穂高へ下山する計画だ。
また逆に、行程に余裕が生じれば、五日目に笠ヶ岳山荘から長駆して弓折分岐まで戻り、鏡平にも立ち寄ってみたいという、ひそかなよくばりも抱いていた。
この計画によれば、四日目に通過する双六小屋以降でルート変更をすることが可能だし、下山後に新穂高で温泉に入浴することも可能だ(長期縦走なので特に重要だ。北行きルートの場合、下山口の折立には温泉がない。山上ならともかく、五日間入浴しない状態で下界をうろつくことは憚られた)。
行程を立案すると、次は、それを実現するための行動計画に着手した。私のこれまでの山行経験は、最長でも前年の表銀座縦走や、二年前の穂高・焼岳の三泊四日であるが、それらはいずれも一日目が平易な前泊的行程であったから、実質的には三日の行動でしかない。それを二日も多い五日間も行動するわけであるから、ほとんど未知の領域だった。いかに体力を持続させるか、それが食糧計画と軽量化にかかっていた。
かつては、サバ缶やレトルトカレー、パスタソース、おにぎり、エネルギー飲料などを持参していたが、水分を多く含むそれらは極めて重量物となる。比較的短い期間であれば、ただ頑張るという精神力でもって対応できていたが、今回はそうはいかない。食べていけば徐々に減るとはいえ、その間ずっと重い荷物を背負ったまま何日も歩かねばならないことを考えると、食糧の軽量化こそ最重要であった。
この点について、たいへん苦労して情報収集をした。軽量化の見返りとしてカロリーが低下する点をどう補うか、そして何より、疲れ切った状態でも食欲を起こさせる食材でなければならない。
結局のところ、副食物のフリーズドライ化と、エネルギー源のコンパクト化に尽きた。そして、実際に食える代物かどうかという点について、六月に準備登山も兼ねた生駒全山縦走を行なって、想定行動の上で実際に調理して食べてみて、調理法と食感を検証した。
また、さらなる軽量化のため、可能なものはすべて包装を外してラップで再包装し、ゴミの軽減を行なった。これは軽量化と同時に、ゴミの分の容量を減らすことができてコンパクト化にもつながった。(大きなゴミ袋をザックに下げて下山してくる人を時々見るが、あれを終始背負っているのだと考えると、あらかじめゴミを持って行かない努力の意味が分かる)
最終的にパッキングを終えてみると、初日に富山で現地調達する水と若干の食糧を除いて十五キロ強という、驚きの結果だった。現地調達分を合わせても十八キロ程度でおさまる計算で、ほぼ二十キロ平均だったこれまでの幕営装備より二キロも軽い。これは予備衣服の削減や、今回ヘルメットや冬季装備が不要な行程だったという要因もあるが、グラム単位で問われる装備を思うと画期的な成果だったと思う。なお、このパッキングは出発の前日のことである。食糧の保存の問題もあり、また、量的に余剰も不足もないように、献立はぎりぎりまで悩んだ。
さて実行のタイミングについてである。今回は任意のタイミングで取得できる特別休暇であるから、天候の良い時期に行けばよい。しかし業務や家庭の都合を考慮せざるをえないのが社会人登山の大いなる悩みである。そこで七月の第三週を仮予定に設定して準備を進めることにした。
バスの予約も必要だ。今回は京都から富山まで夜行バスで行き、富山駅から登山口の折立までは富山地鉄の夏山バスで行く計画だが、昨年九月の剱岳登山の際、同じ富山地鉄の室堂行き夏山バスが、二十日ほど前に電話したらすでに満席だった苦い経験がある。その轍を踏まないよう、予約が可能となる一ヵ月前の日の朝一番に待ち構えて、9時になった瞬間に電話をした。開業直後のはずだったが、なかなか電話がつながらず、二十分ほどかけ続けてようやくつながり、予約を取ることができた(その日は出張していたが、出張先で隠れて電話をかけまくった)。それに合わせて前日の夜行バスも予約した。さらに、天候に応じて実行日を変えられるよう、二日後に同じことをして、二日ずらした便も予約した。これにより、仮予定期間の前半と後半どちらでも実行できる状況となった。それが一ヵ月前のことである。
六月後半からは毎日天気図を眺めた。梅雨特有の温帯低気圧が梅雨前線に乗って周期的に日本へ到来していた。七月に入ると梅雨前線は順調に北上して、第一週であったか、週間天気予報で翌週に梅雨明けするとあり、現に九州は梅雨明けしたから、安心して第三週に特別休暇を正式に申請した。
ところが第二週に入ると梅雨前線は急に北上を停めた。それまで順調に張り出してきていた太平洋高気圧が勢力を弱めたのだった。すると当然のこととして、第三週の週間天気予報は、すべて、曇り時々雨となった。いろんな天気予報サイトを見て情報を集めたが、それで天気が改善するわけではなかった。二、三日様子を見ていたが状況は一向に変わらず、休暇をずらすか雨でも強行するかを本気で考えだした。
この、出発前週という直前の時期に考えていたのは、行程のどの期間で雨に降られるのがましだろうか、という点だった。その答えは迷うことなく後半だった。二日目の薬師岳と三日目の黒部五郎岳はともに霧中での登山が危険なエリアである。薬師岳はかつて愛知大学の登山部が全滅するという事故も起きている。天候がよい期間に、このエリアを抜けてしまいたかった。
予約していたバスは、十六日(土)と十八日(月)京都発の夜行である。それぞれの翌日に折立から入山することになる。十四日の段階で、十六日と十七日が雨の予報となり、その状況は翌十五日(金)でも変わらなかった。しかも十八日以降の一週間は、ずっと曇時々雨の予報であった。その日は金曜日だから、もし休暇をずらすならば、その日が休暇変更を申請する最終機会である。だが、規則上可能とはいえ、すでに休暇中の申し送りを終えているにもかかわらず前日に予定を変更するというのは気が引けた。それに、それではいつにすればよいのか、天候の確証はなかった。だから雨中の登山を覚悟して、そのまま第三週を休暇にすることとした。同時に、予報確度の高い二日後の十七日が雨の予報だから、十六日出発のバス(すなわち前半決行)をキャンセルした。キャンセルの際に翌十七日の夜行便の予約状況を聞くと、空きが出ているとのことだった。富山地鉄の折立行については、ここ数日間は十分に空きがあるとのことだった。(それでは、初日にあれほど電話がつながらなかったのは、私のように急かしい人々が予約電話を集中していたせいだったのだろうか。きっと予約の電話回線は一本しか用意されていないのだろう。)
翌七月十六日(土)、休暇が始まったが、朝から天気予報をにらみ続けて、気が気ではなかった。予報は、十八日が晴れ、十九日と二十日がそれぞれ曇で降水確率三十%、それより後半は雨の予報だった。これでいくと、前半の天候が保証(?)されているうちに、早く出発してしまう方が得策ではないかと考えた。確保している十八日の夜行便で出発した場合、週の後半が雨続きの予報であるから、行程の終盤で降られる可能性が高い…そう思って、前日にキャンセルが発生したと聞いた便(翌十七日発)の状況を確認してみた。すると、まだ空いているとのこと。その便を予約した。そうして一日悩んだ。翌十七日発とするか十八日発とするか。バス会社には迷惑な話であるが、切符を直前に買うまでキャンセルは可能だ。
一日悩んでその日の夜、翌十七日発とすることをようやく決断した。休暇を申請した第一週目時点ではとっくに梅雨が明けている見通しだったのに、大きな誤算だった。天気図を見てもすぐに梅雨が明ける気配はなかった。高層天気図まで調べた(よく分からなかった)。梅雨である以上、五日分の天気を予測するのは不可能だ。あとは覚悟の問題で、前半の数日だけでも好天を期待できるのは有難い、その間に危険エリアを抜けてしまおう…そう考えての決断だった。出発日がなかなか決まらず、自分だけでなく周囲にもやきもきさせた。
切符を購入し、ぎりぎりまで確保していた十八日出発の予備便をキャンセルし、食糧のパッキングを終えると腹が据わった。“曇り時々雨”とは、結局のところ“よく分からない”という意味なのだ、昨年の立山・剱登山では、下界が雨であったにもかかわらず天上はあんなに快晴ではなかったか、…そんな楽観的な考えも片隅にあった。(つまり、天気予報は平野部の都市における予報なのだ。低層部と高層部の天候は、雲の厚さと高度により必ずしも一致しない。)
七月十七日(日)【前泊日】
阪急高速バスのほとんどは深草からの乗車であるが、夜行便に限って京都駅前からの乗車が設けられていたので、今回は初めて京都駅前から乗車した。深草に比べて電車の乗換が不要なので便利だった。
京都駅前出発は23時20分の予定である。万一電車が遅延してはいけないので、30分ほど前に京都駅に到着した。京都駅前のコンビニで、トイレをすませ、翌日の朝食と昼食用のおにぎりを調達し、乗車場のある阪急ホテル前に行った。そこは京都駅の真正面で、日中はおびただしい人の往来がある場所だ。そんな場所からバスに乗車できるなど、今まで想像したことはなかった。
23時頃に到着すると、そこは昼間とは趣を全く異にした、静寂に包まれていた。ホテル前には確かに停留所を示す標識があった。夜行便に限っての停車場である。そこには、大きな旅行鞄を持ったバス待ちの人々が十数人ほど、てんでに立っていて、夜という感傷もあってか、すでに旅愁を感じさせるほどであった。
無事に停留所まで来ると、あと気がかりなのはバス自体の遅延だった。昨年の表銀座縦走の折は松本行のバスが30分以上も遅延し、結局現地で高額なタクシーを利用せざるをえなかった苦い経験がある。今回は遅延した場合の富山駅からの交通手段を確認済であったが、その代替手段は二時間近いロスとなるため、なんとか、計画通りの折立行直通バスに乗りたかった。
しばらく待つうちに、別の行き先のバスが到着した。待っていた中から数名がバスの中へ消えていった。停留標識には、高速バスの行き先と時刻が表示されていた。長野や北陸行の便が多かったように思う。次に来たバスはしばらく停車していて、そのうちに運転手がどこかへ電話するなどして、どうやら到着していない人がいるらしかったが、結局出発していった。もし私が京都駅に遅着していたら、こうして置いてけぼりになったのだと思うと心寒かった。
次に来るのが富山行の便だった。およそ10分後のはずだったが、その時間が長く感じた。そろそろかと思って時計を見ても、2分しか経っていなかった。待っている人の中には、登山ザックを持った年配の方もいた。定刻通りに到着するかどうかと心配しながらただ待つというのは、なかなかつらいものである。しかも23時という深夜のため、京都駅が目の前にある立地にも関わらず交通がまばらで、静かすぎて寂しい。余計に不安になる静けさの中、京都駅のいくばくかの照明を眺めながら、ただ待った。
とうとう時計が定刻を指したが、バスは到着しなかった。どきりとして、浮き足立ちそうになる気持ちを感じた。心配して、バスがやってくるはずの方向を見つめて待った。すると1分も経たないうちにバスがやってきた。本当にほっとした。ちょうど私の目の前に停車したので、一番に受付をした。トランクにザックを放り込もうとして見ると、すでに大阪から乗車した人のものか、いくつかの登山ザックが積まれていた。
バスは三列シートで、示された座席は一番前の左窓側だった。キャンセル分を直前で予約したのだから不利な座席になることは覚悟していたが、果たしてその席がそうであった。二席分のキャンセルがあったとのことだったが、隣の中央列シートは空いたままだった。そこではなく窓側に座れたことを単純に嬉しがった。その空席をはさんで右窓側の座席には、若い女性が座っていた。
バスが走り出し、眠ろうとして座席を倒したが、すでに大阪から乗車している人が後列にいて眠っていたので、あまり不遠慮に倒すことは気が引けた。じわじわと倒していったが、どこかでそれ以上倒せなくなって、その位置で眠ろうと決めた。そこで初めて、この席が不利な席であったことを知った。つまり、最前列であるから、すぐ前が壁であって脚が伸ばせないのである。それ以降の列であれば、左右どちらかの通路側へ足を投げ出せばよいのだが、そこに壁があればいかんともしがたいのだ。加えて、座席の頭部分のヘッドレストが、どうしても高すぎて枕代わりにならなかった。備えの毛布を丸めていろいろと工夫してみたが、だめだった。足も、フットレストや左窓の窓枠に置いてみるなどやってみたが、どこに足をおいても脚のどこかに負担がきた。
バスは京都南インターから高速道路に乗り、深草停留所を経て、24時過ぎに滋賀県内のどこかのパーキングエリアで最後のトイレ休憩となった。尿意を感じなかったので私は車内に留まり、引き続き、眠る姿勢に腐心した。後列の人も動く気配がなく、座席シートを調整することはできなかった。それまでの間、右の女性もずっとごそごそしていた。私と同じように、困っているようだった。
休憩時間が終わって出発となり、バスが夜間走行に入るということで、目の前のフロントガラスと乗客席との間にカーテンが引かれた。昨年に一度だけ夜行バスで筑波山へ向かったことがある。その時はもっと眠れたと思う。やはり脚が伸ばせないのが一番の難点だった。まったく眠れないまま五日間も登山をするのはかなり無謀だ(少ない睡眠でもそれなりに歩ける自信はあったが、かならず身体に疲労が残るので、なるべく眠りたい)。
と、そうこうしているうちに眠った。だが身体のどこかが痛くなって、一時間もしないうちに目が覚めた。そのたびに頭や脚や腰などの位置を変えていろいろと試した。それもまたすぐに目が覚めた。その繰り返しだった。