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水谷健吾の短編集

思考実験短編「暴走桃」

作者: 水谷健吾

目前を流れる川の勢いが徐々に早くなった。

「来たわね」

お婆さんは直感した。その予感に呼応するように川上から巨大な桃が流れてくる。直径1メートルはあるだろうか。普通の桃であれば考えられないほど大きかった。

洗いかけの着物を脇にどけ、お婆さんは巨大果物を見つめる。

だが、おばあさんの表情は"それ"が近づくにつれてみるみる曇った。


「早すぎる」

普段、この川の流れは非常に穏やかなものだった。近隣の主婦たちが洗濯をし、子供たちの水遊びをする。そんな憩いの場所として機能していた。

しかし今は違う。まるで台風が直撃した時のように水流は荒々しく、轟々という音が聞こえてきそうな程だった。それはあまりに突然の変化だった。

「こんなはずじゃ」

お婆さんは昨晩見た夢のことを思い出した。不思議で幻想的なあの夢のことを。


真っ白な光の中にお婆さんは立っていた。上下も左右もない眩しさに包まれた世界。夢の中であると直感しつつ、いつも見るような夢とは少し違うことも実感していた。

そんな彼女に向け、どこからともなく声が聞こえた。妙に説得力のある、神秘的な響き。


「明日、川で洗濯をしているあなたの元に巨大な桃が流れてきます」

「桃、ですか」

声の主に向け、お婆さんは尋ねる。彼女の質問には答えず、不思議な声は話を続けた。

「家に持ち帰ってその桃を割ってみるのです。中には一人の男の子が入っているでしょう」


眠りから覚めた後もその内容はしっかりと頭に残っていた。

「桃の中に男の子…」

もしそんなことが起きたらどんなに嬉しいか。待望の息子。旦那と待ちわびていた子供。もう自分とは縁のないものだと思っていた我が子。

そして今、お婆さんは川のそばで立っている。既に桃はお婆さんの目の前にまで近づいてきていた。川の流れは先ほどよりもさらに強くなっている。

地面に膝をつき、できるだけ手を伸ばす。桃がやってくる。おばあさんの左手が桃に触れる。掴もうと力を入れた瞬間

「あ」

つるっと桃は滑り、お婆さんの横を通りてしまった。

「なんてこと」

お婆さんは川下へ視線をやる。このまま海にまで運ばれでもしたら大変だ。

「どこかに引っかかってくれないかしら」

その時、ある光景が彼女の目に飛び込んだ。

「あの子たち…」

この村に住む5人の子供が、川中の大きな岩にしがみついていた。どうやら川遊びをしている最中に水位が上がり、陸に戻れなくなってしまったらしい。

そして、例の桃はまさにこの5人の子供たちの元へと向かっていた。


瞬間、お婆さんの頭の中に2つの未来が浮かび上がった。それは極端とも思えるような二者択一であった。しかし、なぜかお婆さんはどちらか一方が必ず起きるのだと確信できた。


1つは「桃が迫っていることを子供たちに教えない」という未来。その場合、巨大桃は岩にしがみついている数人の子供にぶつかる。すると、その数人が他の子の腕や足を掴んでしまい、結果的には5人全員が水流へと飲み込まれ、彼らは帰らぬ人となってしまう。だが、巨大な桃は溺れ死んだ1人の子供の体に引っかかることで無傷のままお婆さんはそれを手にすることができる。


もう1つは「桃が迫っていることを子供たちに教える」という未来。子供たちは迫りくる桃をなんとか避けることができ、そのまま岩にしがみついて一命を取り留める。しかし巨大桃はすさまじい勢いで岩にぶつかってしまうため、桃の中の男の子は絶命する。


「5人の命を犠牲にすれば桃は助かる。桃を犠牲にすれば5人は助かる」

お婆さんは独りつぶやく。桃はぐんぐんと子供たちへ向かっていた。子供たちは岩にしがみつくことに精一杯で、迫りくる桃に気づいていない。


-5人の命と1人の命。どちらを優先すべきなのか。


普通に考えれば5人が死ぬより1人が死ぬほうがまだマシだ。つまり子供たちを助けるために桃を犠牲にすべきである。

「でも…」

単純に数字だけの問題なのだろうか。お婆さんは悩む。自分が何もしなければ桃は子供たちにぶつかる。これは運命であり、事故とも言える。自分は傍観者でしかない。

一方、子供たちに桃の接近を知らせたら、自分は意思を持って桃の中の子供を殺してしまうことになる。ある意味これは殺人とも言える。


-運命で死ぬ5人。意図を持って殺す1人

桃の中の子を犠牲にすれば被害は少なくて済む。だが、そのためには自分が意図的に手を加えなければならない。しかも待望の我が子をだ。


「だけど…あの5人の子供にだって親はいるわ」

お婆さんは決断した。5人を助けようと。どちらかを選ばないといけないのなら、やはり5人を助けるべきだと。命に重さはないけれど、こんな状況では数で選ぶしかない。お婆さんは自分自身を納得させ、子供たちに危険を知らせようとした。


しかしまさにその時、さらなる未来のイメージがお婆さんの脳裏に浮かびあがった。桃の中から生まれた男の子が「桃太郎」と名付けられ、そしてお供の動物たちと共に鬼ヶ島の鬼を退治している映像だ。


鬼。この村の人間を何十人と殺している凶悪な生き物。もし今のイメージが現実のものとなるのなら、桃太郎が生まれたことによってどれほどの村人が助かるだろう。少なくとも5人よりは多いはずだ。


-運命で死ぬ5人の子供。意図を持って殺す1人の英雄


声をかけて5人の子供たちを助ければ、鬼退治をするはずの桃太郎が死ぬ。何も言わずに桃太郎を助けるなれば、5人の幼い命が消えて無くなる。桃はまもなく子供たちの元へとたどり着く。今が未来の最終分岐点であり、最後の判断を下す時。


「…………」

お婆さんは、子供たちに何も言わなかった。


それからの出来事はお婆さんの予想通りであった。桃がぶつかった子供たちは全員が溺死してしまい、巨大桃は水死体となった子供に引っかかって海まで流されずに済んだ。目前の川はまるで役割を終えたかのようにいつもの穏やかな流れへと戻り、お婆さんは巨大桃を手に入れることができた。


数十分後。お婆さんは山道を歩いていた。自宅は山の中腹にある。背中に巨大な桃を担ぎ、険しい山道を彼女は1人で歩いていた。

「早く帰らないと」

先程の出来事を誰かに見られていたかもしれない。もしかしたら野犬に桃を襲われるかもしれない。いくつもの不安が折り重なり、家路へと向かう足は早くなった。そしてその焦りが、新たな不幸を招いた。


「あっ」

足を滑らせたお婆さんは崖の下へと転がり落ちてしまったのだ。

「いた…」

幸いにもお婆さんに大きな怪我はなかった。桃も潰れることなくお婆さんのそばに転がっている。しかし彼女の目の前には切り立った崖があり、先ほどまで自分が歩いていた場所は遥か上の方に見えるだけだった。


「おーい、おーい」

山道に向けて声をかけるが答える者はいない。立ち上がろうと膝を立てた瞬間、全身に激痛が走った。どうやら骨が折れてしまっているようだ。

「おーい、おーい」

声の出る限り叫んでみる。やはり応答はない。

「大丈夫。きっと誰かが見つけてくれる」

お婆さんは桃の中にいる我が子に語りかけた。


3日が経ぎた。依然としてお婆さんは崖の下にいた。休みなく叫び過ぎたのが良くなかったらしい。彼女は喉を痛め、今やほとんど声が出ない状態だった。少し前に自分を探す旦那の声が聞こえた。

「ここよ、私はここよ」

できる限りの声量で呼び返したのだが、お婆さんのか細い声は山の木々たちに吸い込まれてしまった。


そして今、お婆さんは激しい空腹と渇きに襲われている。周囲に食べられそうなものはなく、湧き水のような気の利いたものも見つからない。

…この巨大な桃を除いては。


-桃を食べるべきか否か

お婆さんの問題はそこまで差し迫っていた。


「もし桃を食べたら」


きっと桃太郎は死んでしまう。桃が流れてきた時と同じようにお婆さんはその未来に確信を持てた。桃は家まで持って帰り、包丁で桃を割る。この工程を踏まない限り桃太郎は生まれないのだ。


「もし桃を食べなければ…」


お婆さんは桃を見た。3日も経っているというのに、巨大桃は川からすくい上げた時のみずみずしさを保っていた。数ヶ月、いや数年経ってもこの桃は腐ることなく存在するのではないか?そう思えるほどのオーラを、お婆さんはこの桃から感じた。自分が餓死したとしてもこの桃はおそらく別の誰かに拾われるだろう。新しくこの桃を拾うのはきっと自分と同じような老婆のはずだ。彼女はそれを家まで持ち帰り、中に男の子が入っていることを知る。男の子は桃太郎と名付けられ、やがて鬼を退治する。

それもやはり、確信できる未来だった。


-桃を食べるべきか否か


桃を食べれば自分は生き延びる。代わりに桃太郎が死ぬ。

桃を食べなければ自分は死ぬ。しかしいつか村を救うはずの桃太郎が助かる。


-桃を食べるべきか否か


桃太郎と殺すのなら、それは自分の意思による殺人だ。

自分が死ぬのなら、それは事故であり運命だ。



-桃を食べるべきか否か


自分の意思によって1人の英雄を殺すのか。

運命に従って自分1人が死ぬのを選ぶのか。



川での一件より、どちらを選ぶべきかは自明な気がする。そう。自明なのだ。自分が当事者でさえなければ。



「…ごめんね」

お婆さんは桃に手をやった。ひんやりとした感触が手に伝わる。よだれが口元からこぼれ落ちた。



「ごめんね、ごめんね」

遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/12 20:53 退会済み
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