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第五話



 先日の乗客、西宮から電話で連絡があったのは、笠原家を出たその日の夜の事だった。

 また婚約者と父親がもめたから、家を飛び出してしまった、しばらく乗せてくれと言う。

「へえ、あの子また揉めちゃったの」

「あの客っていうよりは、あの人の婚約者と父親って言ってましたね」

「へー、前より厄介なことになってなければ良いけれど」

 レイコの言葉に、佐藤は素直に頷く。

 佐藤達は西宮に指定された場所に車を止め、待機していた。閑静な住宅街の一角である。どの家も窓から明かりが漏れているが、生活音までは聞こえてこない。

 佐藤は窓を開け、外気を車内に取り込んでいた。

 助手席ではレイコが相変わらず長い脚を組んで座っている。今日は姿を現しているが、消える時もある。その日の気分で出るか出ないかを決めているらしい。

 ちなみに以前、脚が長いことをほめようとして「コンパスみたいっすね」と言ったことがあったが、こめかみにヒールを突き立てられただけだった。

 空には三日月が上っている。窓を開けていると、ひんやりとした、冬と春の間の風が入り込んでくる。

 大きく欠けた月を見るとき、佐藤はよく、日光を反射していない暗い部分の方に想いを馳せる。そうすると、見えていない部分が脳内で補間され、地球から遠く離れた球体をはっきりと認識しているような、不思議な感覚に陥る。

 満ちていても欠けていても、月は月、球体は球体だ。単に人間に見えていないだけで、球状の天体はそこに存在するのである。

 佐藤は思考を現実に戻した。

「でもまあ、どうなんでしょうね。どっちみち面倒な事には変わりないでしょう」

 またあの面倒な話を聞くことになるのかと思うと、気が重くなる。正直もう会いたくない類の客だ。

 佐藤は自分の仕事において大切にしている言葉がある。それは「要らん事はするな」だ。サービスを提供する側は、客に失礼が無いよう、また面倒をかけないよう最低限の努力をする必要がある。最低限のサービスを提供して初めて最低限の見返りを得ることができる。しかし、客側にも、提供者に著しく迷惑な態度を取る事は許されるべきではない。客もそれ相応の常識を備えているからこそ成り立つのが「サービス」である。

 そして佐藤にとっての著しく迷惑な態度とは、平たく言えば面倒な客だ。

 話が長い、自分の話しかしない、無駄に運転手に絡みに来る。

 佐藤は運転手であって、カウンセラーでも、なんとか相談所でも、自慢話をへえへえ聞いてくれる気遣いの出来る後輩でもない。佐藤にとって、雑談はサービスの一環ではなく、単なる負担なのである。

 深夜タクシーの最低限のサービスは、一晩五千円でどこへでも連れていくこと。旅客輸送のみで雑談その他お断り、とした上の五千円なのだ。それもあるからこそ、料金を格安にしているのである。

 はあ、思わずため息が出る。それを聞いていたレイコがどこか面白そうに言う。

「面倒がらずに働きなさいよ、社会人」

「はいよー」

 全く、面倒なことこの上ない。

 佐藤は、今日何度目かのため息を吐いた。




「運転手さん聞いてくださいよ。父さんったらあの日から彼にまったく口を聞こうとしないんです」

 後部座席に乗り込んで開口一番、西宮は愚痴を吐き出した。

 話を聞きつつ、佐藤は車を発進させる。走るコースは先日と同じで良いだろう。

「それは大変ですねぇ」

 佐藤は適当に相槌を打つ。レイコが言ったように、話を聞き、共感の姿勢を見せることに徹する。当のレイコは、うるさくなりそうだからと言って姿を消していた。

「彼も意地になっちゃうし。それになぜか私にまで「話が違うじゃないか」、って食って掛かってくるんですよ? 意味わからなくないですか」

「ああ、なるほど、確かに」

「それにお母さんにまで、彼を説得してから挨拶に来なさいとか言われて、もうほんと何なのって感じなんです」

「……それは大変だ」

「それでそれで――」

 ……佐藤にとってはそろそろ我慢の限界である。いまも話は聞かずに「へえ」とか「なるほど」とかを発しているだけなのだが、適当な姿勢がバレる兆候はない。

 信号が赤に変わったため、佐藤は車を停車させる。明かりの点いたスーパーやレストランが片側二車線の道路を挟んで両側に広がっている。佐藤はルームミラーで、店の明かりに照らされた女性をちらりと見る。

 彼女はおそらく、相当頭に来ているのだろう。興奮して顔が上気している。しかし、怒りを吐き出すだけで満足するのであれば、面倒くさがりの佐藤にとっては不幸中の幸いだ。そう思ったのも束の間、西宮が突飛なことを言い出した。

「と言う訳で、運転手さんにもうちに来てほしいんです」

 ……は? こいつは一体何を言い出すんだ。

 信号が青に変わる。しかし、佐藤は後続車にクラクションを鳴らされるまで、それに気づかず固まっていた。慌ててギアをローに入れ、アクセルを踏む。

「今、なんて」

「だから、私の家にきて、運転手さんに彼と父の仲を取り持って欲しいんです」

 佐藤の中に、ふつふつと怒りが湧いてくる。

「なん」でそんな面倒なことをわざわざ俺がしなくちゃならない。出かけた言葉を何とか飲み込む。

 佐藤は乱暴にアクセルを踏み込み、前の車を追い越す。

 もう一回言ってみろ。

「……すみません。もう一度説明してもらえます?」

「運転手さんに、彼と父の関係を何とか修復してほしいんです。だからうちに来てください」

 佐藤は、妙に冷静な態度を取っている自分に気づく。そんな己を自覚したまま、なおも問いを発する。

「……なんで俺なんですか」

「それはほら、前に乗った時、運転手さんすごい良い事言ってくれたじゃないですか。だから、運転手さんなら二人を説得してくれるんじゃないかと思って」

 それが原因か。佐藤は分析する。すなわち、面倒なあまりレイコに頼り、そこでレイコが女性を説得したまでは良かった。しかし彼女の中では、佐藤は人生経験豊富な信用できる運転手で、「あの運転手に頼れば万事解決」という風に捉えられてしまった。

「運転手さんなら絶対うちの親も説得してくれると思うんですよね」

 なんで、俺がわざわざしなきゃならない。

「しかも一晩中相談に乗ってくれるっていうのもすごく助かるし。これ本当良いサービスですよね」

 調子の良い事を。

「うん。いい人に会えてよかったな。あ、そうだ。連絡先交換しましょ。運転手さんってライン持って」

 もういいだろう。

 ようやく、佐藤は口を開いた。

「お客さん。俺は、タクシードライバーです。タクシーは旅客自動車運送事業と言うんですよ。平たく言えばサービス業だ」

 いきなり一体何を言いだすのだろう、女性の顔にはそう書いてある。しかし、佐藤は話を止めない。

「サービス業と言えばどういうものを思い浮かべますか? よくあるのはホテルなんかですかね。いいホテルだと、客の言うことをあれこれ聞いてくれるところもある。

 サービスというのは顧客を満足させるために行う行為だから、ホテルマンという職業がある。タクシーだって客の要望があれば運転以外のサービスも提供する。客の話を聞いたり、観光案内をしたりする」

 女性は、佐藤の纏う雰囲気が変わったことに気づいたのか、後部座席で黙っている。

 だが、佐藤には彼女が聞いていようがいまいが、別にどちらでもいいような気がしていた。ただ、誰も聞いていなくても、誰かが聞いていたとしても、言わなければならない気がした。

「でも、サービス業も品質には差がある。そっけない態度の店員しかいない店だってあるし、何でも言うことを聞いてくれるプロのホテルマンだっている」

 佐藤は面倒臭いことは嫌いだ。だから最低限のサービスだけ提供すればいいように、最低限生きていければいいように、一晩五千円の定額でタクシーの運転手をしている。

「俺は面倒な事が嫌いなんですよ。だからお客さんの家には行きません」

 客の家までのこのこと入っていくタクシードライバーなど、聞いたことが無い。自分の家のことは自分で解決してくれ。

 佐藤は自分の価値観を他人に押し付けるつもりはない。他人に強要はしない。しかしそれは相手が干渉してこないときに限った話である。

 相手に自分の価値観をとやかく言われる筋合いはないし、批判される謂れはない。

 佐藤は面倒くさいことが嫌いである。自分がすべきこと以外はしない。それは佐藤が最も大切にしている価値観であり、佐藤を佐藤たらしめている「軸」である。

 誰に何と言われようとこの価値観を曲げるつもりはない。たとえ間違っていたとしても、賛同する人間が一人もいなくても。面倒事を避けるというただ一点において、佐藤が主張を変えることは絶対に無い。

 この客は自分の都合の良いように他人を利用しているだけの面倒な人間だ。話を聞いてくれる人間には、相手の反応も見ずに愚痴を吐き続ける。かと思ったらこちらの目も気にせずに泣きべそをかき、相手に気を遣わせる。自分のことをドラマの主人公だとでも思っているのかも知れないが、現実はドラマじゃあない。あんた中心に世界は出来ていない。

 佐藤は善人ではない。

 この非常識な客が訳の分からないことを提案した時点で、佐藤の答えは決まっていた。

 佐藤は言った。ぽつりと、足元に小石を投げ捨てるように。

「降りてくれ」

 佐藤は車を停める。

 後ろでは、女性が硬直している。能面のように表情を消している。やがて、佐藤の発言を理解したのか、目を閉じて小さく息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 彼女が目を開ける。そこには先ほどまで燃え盛っていた怒りは無く、冷たい色に染まっていた。西宮は財布を開け、そこから五千円札を取り出してくしゃくしゃに丸め、運転席に投げつけた。紙屑のようになった五千円札は佐藤の横顔に当たり、後部座席の足元に落下する。

「死ね」

 車から降りる間際、女性はそう吐き捨て、バタンと音を立ててドアを閉めた。

 再び静寂と闇が世界を支配する。佐藤は最後にもう一度、ため息を吐いた。

「めんどくさ」

 丸められた紙幣が、かさりと音を立てた。


「随分きっぱり言い切ったわね」

 車を走らせ始めてすぐ、レイコが助手席に姿を現した。寝ているわけではなかったらしい。そもそも佐藤は、幽霊に睡眠という概念が存在するかどうかを知らない。

「明日は笠原さん家行くわよ。ゆうたもきっと私に会えなくて寂しい思いをしているに違いないわ」

 佐藤の内心などたやすく把握しているであろうレイコは、敢えていつもの調子で話しかけてくる。

「あんたは間違ってないわ。まあ確かに、あれはサービス業をする人間が言うべきことじゃあないけれど」

 でも、とレイコは続ける。

「あんたのした事は間違ってない。今日は特別にあたしが保証したげるわよ」

 レイコは、核心を口にはしなかった。

 その後は二人とも黙っていた。車は国道を北に向かって走る。進行方向を数キロ行くと、大きな駅がある。辺りは街灯や店の明かりに照らされ、闇は建物の陰で息をひそめている。

 しばらく進んだところで、おもむろに佐藤が口を開いた。

「どれだけ面倒事を避けても、逃げようと思っても、逃れられないのかもな」

 言葉の意味を察したレイコが苦笑する。まあがんばりなさいな。

「人生何事も経験よ、若者」

 佐藤も苦笑して返す。

「ふっ、幽霊が言わないでくださいよ」

「永遠の二十八歳の人生経験なめんじゃないわよ」

 適当に言葉を交わしていると、前方に駅が見えてくる。県内でも有数の大きさを誇る駅である。レストランや美容室など、さまざまな店が入っている。

 近くにはデパートや大型の娯楽施設などもあり、駅を中心として活気のある街並みが広がっていた。

 佐藤は客待ちをするため、駅の正面に車を停める。正面玄関からはスーツを着たサラリーマン、制服姿の男女、くたびれた服を着た中年の女性など、さまざまな装いの人間が出入りしている。

 これらの人々も、それぞれが生きてきた年月分の経験を経て、現在を生きている。それぞれの価値観に沿って生きている。

 佐藤が玄関の人の流れを見るともなしに見ていると、その中から一人の男性がバンの傍へと歩いてきた。歳は大学生くらいだろうか、リクルートスーツを着ている。採用面接があったのか、疲れを顔に滲ませている。

 夜はまだまだこれからである。佐藤は一つ深呼吸し、後部座席のドアを開ける。

 レイコはいつものように姿を消している。

 佐藤もまたこれまでの夜と同じように、男性に行き先を尋ねた。

「どこまで行きましょう。先に説明しておきますが、このタクシーは一晩の利用でどこまで行っても五千円を料金としていただきますよ」

 真っ黒のバンは、闇の中へと滑るように走り出した。


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