第三話
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「あんたから頼み事なんて、珍しいこともあるものね」
助手席に姿を現した二十代後半ぐらいの女が、面白がるように言った。
車内には、運転席に座る佐藤と、助手席の女の他には誰もいない。
さっきまで乗せていた女性は「ありがとうございました」とすっきりした表情で言って帰宅した。彼女を下ろした今は、近くのコンビニの駐車場に車を止めて、小休止している。
助手席の女、レイコはすらりと伸びた足を優雅に組んだ。その足はダッシュボードをすり抜ける。
「面倒だったんですよ」佐藤は憮然として答えた。
「さすがにあの状況で俺が何を言っても響かなかったでしょ」
まあそうね。レイコは事も無げに答える。体が透けて向こう側が見えていた。
「だから、人生経験豊富な私に任せようと思ったわけね。佐藤クン」
「永遠の二十八歳が良く言いますね」
あんた生意気ね。そう言ってレイコは涼し気に笑った。
レイコはおそらく幽霊だ。断定しないのは、レイコ以外の幽霊らしきモノに出会ったことが無いからである。
半透明だし、物体をすり抜けるし、人間に取り憑いたりする。
そして佐藤は現在、レイコに取り憑かれている。
きっかけは二年前。佐藤が乗せた客が、当時も幽霊のレイコだった。レイコとはそれ以来の付き合い――否、憑き合いである。
ちなみに、レイコは霊子と書く。名付けたのは佐藤である。
レイコには生前の記憶が二つ抜け落ちている。一つは、自分が何者なのか、もう一つは、自分の住処。
ではなぜ、それらの記憶が無いのか、そしてその意味は何なのか。未だに記憶を取り戻すための手がかりは何も掴んでいない。
そのような状況で、佐藤はレイコに取り憑かれ、深夜タクシーの運転手として生計を立てていた。
誤解を生まないために言っておくが、あくまでレイコの記憶云々は「次いで」である。
タクシーを運転している主目的は佐藤の生活だ。それを脅かしてまで幽霊に手を貸したくは無い。
「まあ、今回だけですよ。今日はたまたまレイコさんに頼んだ方が楽だった。それだけだ」
佐藤は仏頂面で答える。
「今度からは名前呼ぶだけじゃなくて、ちゃんとお願いしますって言いなさいよ。常識よ。そのくらいのこと小学生でもできるわ」
「どうせ今回だけですよ。もう頼まない」
「あー、人生の先輩にそんなこと言っちゃっていいのかしらー?」
佐藤は顔を背け、窓の外に目をやった。ちょうど隣に、トラックが駐車する。
鬱陶しい腹立つ面倒臭い。レイコを一言で表すならこれに限る。
すぐ調子に乗るわ挑発はするわ、面倒なことこの上ない。
しかも佐藤のやり方にあれこれ口出しする癖に、自分は何もしないのである。
それを言ったら、幽霊にできることがあるのか、と勝ち誇った表情になる。
それはともかく、佐藤の頼み事というのは、つい先ほど、レイコを呼び出したことに端を発する。
レイコを呼び出した時、彼女は姿を消していた。
彼女のからの返事を待って、佐藤は心の中で呼びかける。
――おはようございます。レイコさん起きてますか。
――一体どうしたの。
レイコの声が頭の中で反響した。レイコに憑かれた状態での会話は、必然的に脳内ですることになる。
――今日の乗客なんですが……
佐藤が一通り説明すると、少し間が空いて、脳内にため息が響いた。
――それくらいのことでわざわざ起こすんじゃないわよ。何かあったのかと思ったわ。
レイコに頼るほうがもっと面倒だったか。佐藤は後悔した。
だがここは我慢。黙ってレイコの言葉を待つ。
――まあいいわ。それじゃ、あんたは今から私が言う事を繰り返して彼女に伝えなさい。
効果はてきめんだった。そうですよね! 運転手さんもやっぱりそう思いますよね。
あー、分かってくれてよかった。
それまで泣いていた筈の女性は、ころりと態度を変え、彼氏から連絡が来たので帰ります、と清算を済ませて帰っていった。
……何だったんだ本当に。全身の力が抜けた。
佐藤は背もたれにだらりと倒れ掛かり、ふう、とため息を漏らした。
「よくもまあ、あの面倒臭いのをあそこまで元気にしましたね」
女性客の、異常ともいえる態度の変わり様を改めて思い返していた佐藤は、挑発に飽きて窓外をぼーっと眺めていたレイコに話を振った。
佐藤への態度はさておいて、レイコの説得は佐藤が唯一感心した点である。
レイコは事も無げに「簡単よ」と言った。
「ああいう子はね、自分が世界で一番可哀想って思いたいのよ。それが気持ち良くてやめられないの。だから人前でも平気で泣くし、自分の立場に同情して共感してくれる人間を無条件で歓迎する。
だから彼女みたいな人間に対してはまず話を聞く。それから、「辛いよね、うんうん。私には想像もつかないほどの苦しみなのね」みたいなことを言っておけばいいのよ。そうすれば「私は悲劇のヒロインなんだ」って信じるわ。あとは、大丈夫だからきちんと話し合ってみたら? 彼もお父さんもきっとわかってくれるわ、とか適当に言っておけば、それでもう解決よ」レイコは手をひらひらさせた。「造作も無いわ」
佐藤は腕を組み、首をかしげる。
そういうものなのか、他人の心に微塵も興味のない佐藤には永遠に理解できそうもない。
「そういえば、今日はどうだったんです。何か思い出せる事とかは」
佐藤は話題を変えた。どう、と言うのはレイコの事だ。
レイコは自分の膝に目を落とした。背中までの長い髪がさらさらと滑り落ち、彼女の表情を覆い隠す。
コンビニの明かりが彼女を照らしている。しかし彼女の膝にも、その下に透けて見えるシートにも影はできない。
「無いわ」
低く、そう呟いた。「ここも多分違うと思う」
「そうですか」
佐藤もつられて下を向く。
分かっていた。聞いたのはゼロに近い可能性でも確かめるためだ。
レイコには息子がいる。レイコに家族と呼べる存在は、その息子だけである。
今年で十四歳だというが、彼女が息子と別れたのは、息子がまだ四歳の時だ。
当時二十代後半だったレイコは、命を落とした。死因は謎だ。その後九年間、幽霊として彷徨った後、佐藤と出会った。
レイコには生前の記憶がほとんど無い。息子の記憶を除けば、一つもない。
自分のことは忘れても、家族の記憶ははっきりと刻み込まれている。
いまも彼女の息子――祐也はどこかで生きている。レイコはそう信じていた。
佐藤は、レイコの息子探しをほとんど諦めていた。日本という一つの国の中から、たった一軒の家を探し当てるのがどれほど難しいのか。ずっと旅をしてきた佐藤には分かる。その困難は痛いほどに理解していた。
もう永遠に見つかることは無いのではないか、あるいはそもそもレイコには家など無くて、元は何か、人ではないものが幽霊になったのではないか、と何度も思った。
しかし、
「次の街よ。佐藤、お願い」
そんなことは言えなかった。言う気が起きなかった。
レイコは顔を上げ、凛とした眼差しで前方を見据えた。瞳には先ほどまでの翳りは無く、決然としている。内心は不安な筈だ。一年もずっと共にいると、なんとなく考えることが理解できるようになる。
「……しょうがねえな。まあ、気長に行きましょうよ」
そうね。レイコは、しっかりと頷いた。