第二話
3
「はあ、家出ですか」
「はい」
暗い車内、乗客を乗せたタクシーは当てもなく街を走る。
運転席に座る佐藤は、面倒に感じつつも、先ほど乗り込んできた女性の話を聞いていた。
「そうですか。部外者が言うのもなんですが、大変ですねぇ」
聞いておいてなんだ、と思われるかもしれないが、佐藤は構わず、若干投げやりにそう返した。
案の定、後部座席からはムッとした気配が伝わってくる。
「そうなんですよ。それでね、実は今日は実家に帰省して、彼と両親との顔合わせをしたんです」
そう来るか。
二十代前半くらいだろうか。斜め後ろに座る、気の強そうな女性は半ば強引に話を繋ぐ。ちょっと強引な気がしないでもない。佐藤は内心で大きくため息を吐いた。
客は乗せても調子には乗せるな。これが佐藤のモットーである。
つまり、運転手としての仕事はするけれども雑談相手にはなりません。という意味だ。
運転手は運転をすればいい。話を聞くなんてのは運転手の仕事じゃない。
これは佐藤の持論だが、人生にはやらなければならないことと、やらなくても良いことの二つがある。
前者は生きるために働くこと。後者は「余分なサービス」だ。
佐藤の場合、生きるためにタクシーの運転手はしても、その他の面倒事――例えば話し相手になったり、車内の設備に多くのコストをかける等――は極力避ける。
義務を小さく、権利を大きく。これが幸せへの近道である。
つまり簡単にまとめると、「客の話を聞くのは面倒臭い」。
仕事が忙しいとか、飲み過ぎるとカミさんに怒られるとか。アルコールで真っ赤になった赤の他人の、どうでもいい雑談に一体何の価値があるというのか。その上に面倒な話なら、尚更メンドクサイ。
家出なんていうのはその最たるものである。
いつもなら気配で察しても聞かずにスルーしたが、さすがに口に出して呟かれると、無視もしづらい。
今日は疲れる夜になりそうだなぁ。今度は悟られないように小さくため息を吐く。
「顔合わせですか」
「はい。今の彼氏とは付き合って一年になるんですけど。そろそろ結婚したいな、となって。挨拶のために、今日私の実家に彼と行きました。挨拶自体は何の問題も無くて、両親も私たちの結婚を受け入れてくれました」
「なるほど」
「でも、夕食の時に父と彼が口論になって。最初はほんの些細なことだったんです。でも二人とも自分の考えを曲げなくて。だんだんヒートアップして行って。
せっかくの団欒の時間なのに、なんでこんな事になるのって怒って出て来たんです」
「そうでしたか」
「はい、こんな理由でお恥ずかしいんですけど。帰るのもなんだか気まずくて」
「なるほどお」
要約すると、女性は彼氏と結婚の挨拶のため、実家に帰ったが、父親と彼氏の反りが合わず喧嘩になり、女性はこらえ切れなくなって飛び出してきた。という所か。
なんで喧嘩になった張本人ではなく、その他の人間が家出をするのだろうか。疑問に思ったが、口には出さない。どうせ面倒なことになるからだ。
「それでね!」
「うぉ……はい」
いきなりの大声に、思わずびくりとなる。女性は前のめりになっていた。
「彼、お父さんが私のことを悪く言ったとか言って怒るんですよ? お父さんはただの謙遜で言っているだけなのに。ほんと子供みたい」
女性は天井を仰いだ後、後ろにだらんともたれかかる。
今の態度からすれば、別に謙遜だけではないのでは。しかし、黙っておく。
「しかも、お父さんもすぐにキレちゃうから、私が何を言っても聞かないし、挙句の果てには、そんなことにいちいち拘るなって。私の頭が固いってどういう事なのよ」
もはや女性は、佐藤のなるほど、という相槌も聞いてはいなかった。間髪入れずに次々と愚痴を吐き出していく。
「前からずっと思っていたんです。沖田君、あんまり他人の話聞かない人なんだなって。そういう所は嫌だなって。しかもお父さんも人の話聞かないんです。そういう所はなんでか似てるんです。お父さんは大学の話なんて全然聞いてくれなくて。そのくせ、結婚は今のうちに考えておけ、とか社会に出ても学生気分でいたら置いていかれるぞ、とか意味わかんないアドバイスは一丁前にしてくるんですよ。やかましいわハゲ」
内容が彼氏の沖田君の愚痴からハゲ親父の悪口に変わっている。
「なんで男ってああも人の話を聞こうとしないんだろ。運転手さんもそう思いますよね」
全く男って生き物は……というやつか。それを男に聞かれても困るのだが。
いい加減面倒になって来た。佐藤は気が短いのである。ここらで切っておかなければ自分の気が持たない。
「話の腰を折る様で申し訳ないんですが、ご家族や彼氏さんには、お客さんが今タクシーに乗っているという事を連絡されていますか」やや強引に話に割り込む。
聞かなくてもよいかと思ったが、これは一応確かめておかなければならないことである。
深夜タクシーは夜が明けるまでが営業時間だ。日の出までに営業を終えなければならない事情があるし、佐藤としても決めた時間以外に働くのはまっぴらごめんである。
迎えが来たり、すぐに帰宅する予定ならばいいが、朝までとなると話が違ってくる。
「してないですけど……。どうしてですか」
ルームミラー越しに見る女性は、怪訝な表情を浮かべている。話を無理矢理中断されるのは嬉しいことではない。
これも佐藤には想定内だ。なにせ、同じような客は何回も乗せたことはあるし、その度にこういう顔をされたものである。初めは聞きにくくて仕方がなかったが、いまでは尋ねることに何の躊躇いもない。ひょっとすると、慣れと成長は紙一重なのかもしれない。
佐藤は録音した音声を流すように、何度も繰り返してきた説明を始めた。
「すいません。余計なお世話でしたね。なにせ、このタクシーは特殊なんで」
女性は「はあ」と戸惑いがちに答える。
「まず、料金について説明しますね。うちのタクシーの利用料は、一晩で五千円です。
どこまで乗ってもこの値段は変わりません。近所のコンビニまで行こうが、日本縦断しようが、一律五千円頂きます。
利用時間の上限は日の出までです。それまでしかお客さんを乗せることはできません。
太陽が出た時点で、そこがどこであろうが降りていただきます。それから……」
「ちょ、ちょっと待って」女性は慌てて話を遮った。
「なんでしょう」このタイミングで待ったがかかるのは毎晩の事だ。
「そもそもこのタクシーって大丈夫なやつですか。なんか、人身売買とか」
そう来たか。しかしこれも想定内。
「ちゃんと許可はもらって営業してますよ」
佐藤はそう言って、ほら、とポケットから取り出した免許証を後ろに示す。
「あ、えっと、はい」女性がぎこちなく頷くのを確認する。戸惑ったままだが、納得は得られたらしい。
「えと、それじゃ、日の出までには降ります……?」
「ご理解いただきありがとうございます」
ほとんど棒読みで感謝の意を表明する。
「あ、そうだ。寝たくなったら適当に寝てください。椅子を倒したりして。布団類は後ろに置いてるんで」
以上。説明文再生終わり。
話し疲れたのか、佐藤の説明を聞いた後、女性は窓の外に目をやっていた。長い長い愚痴がやっと終わったことに、佐藤は安堵のため息を吐いた。
ピロリン、と後部座席で音が鳴った。ルームミラーにちらりと目をやると、女性がスマホの画面を見つめていた。顔が青白く照らされている。
怪談のオチでライトを顔に当てるのに似てるな。佐藤は心中で呟いた。
女性が乗り込んできて一時間ほどが経とうとしていた。現在、午後九時二十分。
佐藤は街の外周をぐるりと回るような道を選んでいた。もう間もなく一周する頃である。女性はいまだ行き先を指定していなかった。
すると、それまで黙って画面を見ていた女性がスマホを仕舞い、不意に口を開いた。
「運転手さん。聞いてくれます?」
どことなくしおらしい口調だった。ようやく落ち着いてきたのだろうか。
「はい。どうぞ」
佐藤の返事を聞いているのかいないのか、再び黙り込む女性。またしばらくして。
「私って、プラスマイナスゼロか、ちょっとだけプラスな人生が理想なんですよね」
「はあ」また始まった。佐藤はうんざりとした気持ちになる。いったい何の話だ。
女性は独り言のように、言葉を紡いでいく。声には、湿り気が混じっていた。
「普通に大学行って、普通に付き合って。普通に結婚して。ちょっと幸せな人生が送りたいんです。別に宝くじ当てたいとか、そう言うのは要らないんです。そこそこ幸せならそれでいいんです。運転手さんもそういうの、良いと思いませんか?」
「まあ、人それぞれですかねぇ」
「でも、私これから、どうしたらいいんだろ。もし両親に結婚を反対されちゃったら。そんなの絶対に嫌なんです。両親とはちゃんとわかり合って、納得したうえで結婚したいし。もう、どうしたら……」
すすり泣く声が聞こえる。だんだんと嗚咽が大きくなる。
ああ、面倒くさい。怒りモードの次はすすり泣きモードか。そもそも何の関係もない赤の他人の前で泣くか普通。こちらの迷惑も考えてほしいところである。
さんざん愚痴った後は泣きたいだけ泣く。それも会ったばかりのタクシーの運転手の前(というか後ろ)で。一体どうしろと言うのだ。慰めてほしいのか、甘やかして欲しいのか。
本っ当に面倒臭い。
「はあぁ」
佐藤は大きくため息を吐いた。流石に今回は聞こえたのか、女性が気づいて顔を上げる。
これ以上面倒を被るのはごめんである。早いところ解決してもらおう。
佐藤は涙目の女性に聞こえないよう、無声音を発した。
「レイコさん」