異世界に呼ばれた聖女の本当に大事なもの
全員分の飲み物よし。
課長のご機嫌よし。
ボルテージは今が最高!
「今回もお疲れさまでした。かんぱーい!」
いつも通りの手慣れた音頭をとってジョッキを打ち鳴らす。
春先だが冷えたビールが美味い。
にへらっと頬を崩したのを最後に、私の意識は暗転した。
(待って! 今日の打ち上げのために3か月頑張ってきたんだから最後まで楽しませて!!)
「私のビール!」
伸ばした手は、はしっと掴まれた。
絶世のイケメンに。
「え?」
さっきまで私の前に座っていたのは、バブルの臭いを色濃く残したイケイケ系の課長だ。
決して少年っ気を残した精悍な顔の金髪青年などではない。
私に負けず劣らず唖然とした顔をした彼は、震えるように叫んだ。
「まさか、成功したのか!」
刺さるほど真剣な表情に、私は一歩後ずさる――――後ずさろうとする。
うおおおお、と表現するような喝采が湧き、金髪青年に人が群がる。
肩を組む人。飛びつく少女。乱暴に頭を撫でる中年。
どの顔も一様に晴れやかな笑顔で、そしてすべての人が土埃と血にまみれ、迫力が異様すぎる。
「て、手を……手をはなして……」
掴まれた右手をあらん限りに伸ばして輪から離れようとしているのに、私の右手はびくともしない。
誰一人聞いてくれる様子はない。
熱狂的なサポーターの輪の中に間違って紛れ込んだ子猫の気分だ。
せめて危険から遠ざかりたい、と気配を消してびくびくと待つ。
(お願いちょっとでいいから気づいてー)
そんな願いは誰にも拾われなかったようだ。
とうとう、盛り上がる輪から飛び出した背中に勢いよくぶつかられ、「きゃう!」と私のヒールは地面を見失った。
「危ない!」
そう叫んだのは黄色い声だったが、
「みんな除けろ!」
そう言って膝をついてまで私の背を支えてくれたのは右手の先の彼だった。
「すみません。危ない目に合わせました」
私の目をしっかりと見つめてそう言ってくれた彼に私は、
「あ、はい」
としか返せなかったが、問題はそこではなかった。
「聖女さま、魔王を排しよくぞこの世界にお越しくださいました」
そう。
私の状況の方がよっぽど問題だったのだ。
世界が闇に包まれ魔王が、以下略。
というわけで彼ら『勇者一行』は魔界の地まで旅してきたらしい。
『勇者』こと小国の第一王子は、天から授かった聖なる力で異世界から聖女を召喚した。
何のためにって、聞かなければよかったと心底思う。
「魔王の力はあまりにも強大で、私共には打ち取ることが叶いませんでした。そのため、魔王と同じだけの力を持った存在を異世界から召喚し、その対価に魔王を異世界へと押し込めたのです」
「それはこういうことですか? 質量保存の法則というやつ?」
「質量保存?」
「お風呂の中に岩を落としたらお湯があふれるとか、相手の手を温めるために冷たい手を握ったら自分の手は冷えるとか、そういう」
「ああ、等価交換」
「それです」
多分彼が言っているのは土地活用の手法とかじゃなく、商業や錬金術的な意味の方だろう、と思いながら、冷や汗をかいた私はすばやく頷く。
「その通りです。魔王を異世界に追いやるには、同じだけの力を持った方をお呼びするしかなかった。どうか許してください」
「それは……」
断言はできない。
「私は帰れるんですか?」
「異世界から再び強い力を持つ方を見つけ出し召喚することができれば」
勇者は苦々しい顔をして、私から目を逸らしながら言った。
「可能です」
そうなるだろう。理屈としてはきっとそうなるだろう。
例えそれが大変な作業――――もしくは儀式、であろうとも、一度できたことが二度できないわけがない。
ただ、私も沈黙した。
私が帰りたいというのは、私の正当な要求だと思う。
でもその代わりに他の誰かが召喚されるのであれば、その人の負う悲しみは私の決断の結果だ。
それでも、何が何でも帰る。そう言えないのは、私の弱さゆえだ。
次の誰かが彼に召喚される。その人が同じように拒否すれば、また次の誰かが。
そのたびに彼はこんな顔をするのか。
ようやく世界の果て(推測)まで来て、魔王を倒したというのに。
押し黙る私を見て、彼は決断を先送りにした。
「召喚に必要な材料を、国に帰る道すがらで集めます。ですのでひとまず私たちと共においでくださいませんか?」
否やはなかった。
彼はリューギンテと名乗った。
一行からリュー王子と呼ばれているので、私もそうした。
「リュー王子、こっちのビールもおいしいね」
「ようございました。よもや長きに渡るお仕事の打ち上げの宴を我らが邪魔してしまったとは、お詫びのしようもございません」
「その代わりこっちで魔王討伐の打ち上げの宴に入れてもらってるし、このビールでお手打ちってことで」
あまりに申し訳なさそうに彼が接待してくるので、私はあっさり許してしまう。
飲みの席ではみんなに楽しく盛り上がってもらいたい。そんなサービス精神が首をもたげてしまったのだ。
(課長たちも、打ち上げ盛り上がったかな。私の代わりにいきなり魔王が来たのかな。大丈夫だといいけど)
あの現実的な世界に『魔王』が召喚されて周囲を攻撃する想像ができなさすぎて、代わりに私は勇者一行を眺める。
男女も年齢も恰好も様々だけど、仲がよさそうに笑い合う姿。
途中の町の古びた酒屋を背景に、彼らが語り合う声が漏れ聞こえてくる。
「あのときリュー王子が怒り出しちゃって……」
だとか、
「大変だったよねー。あいつには絶対勝てないって思ってたよ」
だとか、何も特別ではない、今までの思い出話。
赤髪青髪何でもござれの彼らの見た目には全く親近感を覚えないが、話の内容は心に刺さる。
『取引先の部長のあの顔見た? 神経質な顔で腕時計カチャカチャ動かして落ち着きないったら』
『あのときの課長かっこよかったですよー。一生ついてきますって思いましたもん』
『佐々木がふざけてあんな資料作るせいで俺らの残業増えたんだからな……』
こうやって話したかった。
ちょっとした苦労を労わり合って、明日からまた頑張りたかった。
ここにいる勇者一行みたいな、職場のみんなと。
隣からさっとハンカチが差し出された。
魔王と戦う間によく汚れなかったなと感心するような、折り目のついた清潔なハンカチ。
「あー、だめ。泣けてきちゃった」
遠慮なくハンカチを顔に押し当てると、出るわ出るわ。
(もうこれ何の涙なんだろう。寂しいっていうか、悔しいっていうか)
わけがわからなくなってすすり泣く女に付き合いながらもため息一つつかない王子は、私の指からビールグラスをそっと奪い取る。
その気遣いさえも猛烈に悲しい。
「お背中撫でさせていただいても?」
囁き声に顔を上げないまま頷くと、王子御自ら背中をさすってくれた。
ぐすぐす泣く中に、その手はあたたかく、力強い。
悲しい。
悲しい。
悲しい。
私が、あの世界を捨てようとしていることが悲しい。
「私、自己犠牲精神なんてなかったはずなのにね」
めそめそ告げる私に、彼は神妙に相槌を打った。
「あなたたちも私たちと何も変わらない『ヒト』なんだなって思ったら、魔王と交換になんてしないでって、言えなくなっちゃうじゃない」
我ながら甘い考えだと思う。
そんなに簡単に決めていいことじゃない。許すべきことじゃない。
でも、
「ばかみたい」
そう言って泣く私の背を、王子は温め続けてくれる。私の気のすむまでそうするつもりなんだろう。
宴の輪にも加わらずに。
「ばかみたい」
もう一度強く言うと、大きく息を吸って顔を上げた。
自分で決めたくせに自分がかわいそうで泣く私も、それにバカ真面目に付き合う王子も、みんなばかみたい。
今日の宴は今日しかないのに。
「リュー王子、行こ。私にここに来るまでの話聞かせてよ」
立ち上がり、こわばった顔でぎこちなく笑う私を、酒場の一行が気遣うように見上げている。
そっとしておいてくれながらも、気にしていたのだろう。
(こんなのって、盛り下がるったらないよ!)
ね、と腕を引く私をぽかんと見上げた王子は、すぐに笑顔をにじませて酒場中に響く声で言った。
「勿論です。とっておきの話をお聞かせしますよ。なあ、みんな」
上がった歓声は、乾杯の後の同僚たちのそれとそっくりだった。