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水に流すカード

作者: N(えぬ)

 ある30代の男性が午後の陽が暖かい公園のベンチに座っていた。

 彼は、中堅商事会社で営業関連の仕事をしているのだが仕事で失敗して、上司にひどく叱責され、外回りに出たものの仕事をやる気が起きず、この公園のベンチに座り込んで、失敗を嘆き、どうやって挽回すればいいかとうなだれているのだった。

 彼がベンチに座ったまま両肘をひざについて地面を見つめていると彼の前に人が立った。男性は顔を上げて見ると、一人のスーツ姿の40代後半くらいの男が彼の前に立っていた。男は彼を見上げた男にニッコリほほ笑んでぺこりとひとつ頭を下げた。

「どうなさいました?先ほどからようすを拝見していましたら、ずいぶんと落ち込んだ表情をなさっていたもので。」

「ああ、いや……仕事でね……。そんなことあなたに関係ないな。放って置いてください。声を掛けてくれたのは、うれしく思い思いますが。」

「仕事で何かトラブルが起きてしまったのですか?もちろん、見ず知らずのわたしに突然話しかけられて、実はこれこれこうでなんて話す人はいませんネ。」

「ああ、そのとおりですね。人に話せば気が楽になる悩みというのもあるとは思いますが、今回ばかりは、それでは済まないでしょうし……。」

「相当に深刻なトラブルなんですねえ。それは、いい人に出会った。あ、いや失礼しました。怒らないでくださいネ。実はわたし、わたしの姿を見てピーンと来たかとも思いますが、スーツに黒いカバンという見るからに、そしてそのとおりの、とある会社の営業マンなのです。」

 男は、そう言いながらスッと彼の隣に座った。

「ええ、そんな感じだなと思いました。それで、わたしに何か売ろうと言うんですか?いまは悪いけどあなたの営業トークを聞く気にはなれませんよ。」

「そうでしょう、そうでしょう。ひどく落ち込むほどの失敗をなさったというのですからね。でも、わたしが紹介したい品は、そんなあなたにピッタリのものなんです。」

「ふむ。なにか気晴らしになるとか、そういうものでしょうか。」

「いえいえ、そうではないのです。見た目はこういうものなのですが……。」

 営業マンの男はカバンの中から名刺入れくらいの黒い箱を取り出して蓋を開けた。中には、やはり名刺サイズの白いカードが束になって入っていた。そのカードの表面には何も書かれていない。箱から一枚カードを取り出して営業マンは彼のほうへ差し出して見せた。彼が手に取ってそのカードを見ると、裏にも何も書いていない。表も裏も何も書いていないただの白いカードだった。

「なんです、これ。何も書いていない、ただの白い紙切れじゃ無いですか。」

 彼が不思議そうに、そして少しいらだたしげに営業の男へカードを突き返した。

「何の変哲も無い白い紙に見えるでしょう?でも、このカードにはすごい効果があるのです。」

「効果?どんなものです。」

「はい。これは当社の自信作『水に流すカード』といいます~。」営業マンは、声のトーンを一段上げてニッコリ笑った。きっとそれがこの男の「営業時のキメ」なのだろう。

「水に流すカード?なんですかそれは。」

「これは、誰かとトラブルになったときなどに相手に渡すと、瞬時にそのトラブルが水に流されるというカードなのです!」

「ええっ?!」

「驚いたでしょう?うそだと思ったでしょう?でもホントなのです。」

「信じられませんよ。そんな……。」

「そうでしょうとも。ということで、ちょっと実演させてもらいます。それで効果がほんとうだとおわかりいただけるはずですから。……ええっと、あそこに歩いている男性がいますね。見るからにガラが悪そうな……もし、あんな人を殴ったら、きっとタダでは済みませんね!……いいですか、よーぉっく見ていてくださいネ!」

 営業マンの男は立ち上がると歩いているガラの悪そうな男に小走りに近づいていく。残された男は、営業マンが何をするつもりなのかまったくわからなかった。だが次の瞬間、

「えっ!なんてことをするんだ。」

 営業マンの男の行動を見てあっけにとられた。なんと営業マンはガラの悪い男を呼び止めると、いきなり思いっきりぶん殴ったのだ。殴られた男は見知らぬ人間にいきなり殴られたのだからビックリしている。そして当たり前だが声を張り上げて激高した。見ていた彼は、――これはホントにタダでは済まないだろう。と思った。

「スミマセン!スミマセン!」

 営業マンは、そう言いながらさっき見せた『水に流すカード』というヤツを差しだした。

「こ、これを受け取ってください。どうぞ。」

 殴られた男は、その差し出されたカードがなんなのかわからないまま手に取った。するとどうだ。顔を真っ赤にして怒っていたガラの悪い男は、

「なんだコレ……。」そういってカードを裏返したりして見た。だがカードには何も書いていないので不審そうに営業マンを見返すと、

「……ううん、まあ、謝ればそれでいいんだよ。今回は水に流してやるヨ。気をつけてくれよナ。」

 殴られた男はカードを営業マンに返してそう言うと、スタスタと歩いて行ってしまった。すると、営業マンはクルッとベンチに座ってみていた彼のほうへ向き直ってVサインをして見せ、小走りで帰って来た。

「どうです、驚いたでしょう?効果を見ていただけましたか。普通じゃあり得ないですよね。知らないやつにいきなり思い切り殴られて、鼻血まで出てましたよ。それが、このカードを受け取った瞬間に許してくれました!」

「な、なんてことだ……。」

 ベンチに座っていた彼は、営業マンの顔とカードを交互に見て唖然としていた。そして、

「すごい効果だね。それで、それをいくらでボクに売ろうというんだ。」

「ええ、最初はお試しと言うことで、試供品を差し上げます。」

 営業マンは、そういうとカードサイズの封筒のような容器をカバンから出した。それには、『試供品 5枚入り』とだけ書いてある。それと共に、

「ええ、こちらが値段表になります。」とA4大の紙を彼に渡した。

「最低購入単位は10枚から。10枚単位で購入枚数が増えるごとに割引させていただきます。」

 値段表を見ると1枚の額はけっこうな値段だった。まあ、買って買えないことは無い金額ではあるが。

「ううん、ちょっと考えちゃうな。」

「ええ、でも、効果は間違いありません。使いどころを限ればそれほど負担にならないと思いますよ。むしろ『持っていてよかった』と必ず実感していただけると思います。それと、あまりむやみやたらと使える値段ですと、世の中が変わってしまう可能性も当社は考えていますので生産枚数も制限を加えております。まあ、ある意味『環境に配慮した』と言うことでご理解ください。」

「そうか、なるほど。世の中のみんなが持っていたら価値が下がるとも言えるしな。」

「とにかく、まずは試供品をご自分でお試しになってみてください。」

「うん、そうするよ。買うときはどこに連絡すればいいんだい?」

「はい、頃合いを見てこちらからご連絡させていただきます。それと、なにぶん生産枚数が限られておりますので、ご注文に応じかねる時もあるということをご承知おきください。」

「そうですか。わかりました。……じゃあ、早速、社に戻って使ってみよう。」

「効果、ご期待ください!」

 営業マンの男は、ニッコリ笑ってVサインをして見せた。



 彼は会社に戻ると、朝からこっぴどく自分を叱責した課長のところへ向かった。右手には例の『水に流すカード』が握られている。だが、もし効果が無かったら、タダの白紙のカードを渡すことになる。

――イザやるとなると勇気がいるな。

 だが、今回彼が犯した失敗は首になってもおかしくないレベルのもので、朝の課長の話しぶりでは、おそらくそうなるだろうという予想があった。

――一か八か、やってみるか。

 彼は課長のデスクの前に立った。少し周囲がざわついているのがわかる。「辞表、出すか?」そんなささやき声が聞こえて来た。彼は血の気が引いていくのがわかったが意を決して、

「課長。」

 課長はこれ以上無いというくらい渋い表情で吐き捨てるように、

「なんだね?」

「これを……。」

 彼は両手で拝むように『水に流すカード』を課長の前に出した。課長は、辞表を出すものだと思ったが名刺のようなカードだったので、少しいぶかしそうに、

「なんだこれは。」

 そういうとひったくるように彼の手からカードを取った。課長は、カードの裏表を確かめる。何も書いていない、白い紙。

「まあ、今回の君の失敗だが、致し方ない面もあったと考えている。けさは言い過ぎたと思っているよ。君も反省しているようだし、これを糧にまた頑張ってくれ。」

 体を「くの字」にして課長の話を聞いていた彼は、ビックリして声が出そうになった。むしろ、周囲で様子をうかがっていた同僚社員達が声を上げた。なにしろ、どでかい失敗を課長があっさり許したのだから。

「はい。これからも一生懸命頑張ります。どうぞ、ご期待ください。」

 彼は「あの営業マン」のことばをまねした。課長は「うむ」とひとつ頷いて見せた。



 彼はトイレに駆け込んで個室に入ると小躍りして喜んだ。

――あんなにうまくいくなんて。これで首がつながった。

 彼は手元に残る試供品のカードを何に使うか考え始めた。



 彼は『水に流すカード』を次に、以前に浮気がバレて別れた元カノに使ってまたもや大成功。

「アタシも怒りすぎるくらい怒っちゃったと思って反省してたんだぁ。アナタからこうして謝ってきてくれてウレシイわ。……ね、きょうはどこかおいしいお店で食事しましょ!」

 見事に復縁できた。

 これで彼は、もはや疑う余地も無く『水に流すカード』を買うことに決めた。だが、あの営業マンの連絡先はわからない。まだ試供品が残っているけれど、無くなる前に是非とも買いたいと思った。

 数日後、彼が営業の外回りで歩いていると後ろから肩をたたかれた。振り返るとあの営業マンが例のニッコリ笑いとVサインポーズで立っていた。

「ああ!会いたいと思っていたんだ。ぜひカードを買いたくて。」

「そうですか!ありがとうございます。では、そこのコーヒーショップで商談と参りましょう!」

「うん、そうしよう。」

 彼はカードの営業マンに50枚買いたいと申し出たが、今回は在庫があと10枚しか無いという。

「なんだ、そうなのか。それじゃああんまり割引が無いじゃないか。けっこう高いのに……。」

「すいません。今月はよく売れまして、もう在庫がないのです。」

「わかったよ。じゃあ10枚でイイヨ。」

「はい、ありがとうございます。今後ともよろしくごひいきのほどを!」



 それからの彼は生きていく上でかなり気持ちが楽になった。特に仕事では、なにしろ失敗を恐れなくていいのだ。思い切った営業戦略を使ってみて、失敗したらカードできれいさっぱり「水に流して」もらえるのだ。そういう気楽さが好結果に結びついて、あのときクビになりそうだったのが出世コースに乗れるところまで来た。以前とは比べものにならないくらいに給料も増えたし、俄然「モテる」ようになった。生活が派手になり、女性関係も華やかになった。そのせいで、以前に浮気で別れて『水に流すカード』で復縁したカノジョとまたトラブルになった。だが今度は、

――もっといいオンナが向こうから言い寄ってくるんだから。

 そう考えてキレイサッパリと別れてしまった。そして、新しいカノジョを作った。今度の相手は以前なら考えられなかった、とある高級クラブのナンバーワン。このカノジョは金が掛かった。とにかくいろいろおねだりされる。それに応えるために仕事にも熱が入り、「失敗を恐れない」仕事ぶりで出世もトントン拍子になった。

 ところがある日、引っ越したばかりの高級マンションの彼の部屋に、いかつい男がやってきた。

「俺のオンナに、手ぇだしたナ!」

 クラブのナンバーワンの「オトコ」を名乗る「ヤ」の付く職業の人間だ。

――これは、マズい。

「どう落とし前付けてくれるんだィ?アンタ、会社でトントン拍子に出世してるって言うじゃないか。そういうヒトは、さぞ厚い誠意を見せてくれるんだろうナァ。」

 誠意を見せろというのはつまりカネだ。そんなのに金を出したら、いつまでもたかられてしまう。こんなときも、もちろん、

「これで、ひとつご勘弁を……あっ。」

 水に流すカードを男の前にそっと差しだして、と思ったのだがカードが底をついているのを忘れていた。

「ナンダ?どーした。」

 男は彼に迫った。彼はその場をとにかく取り繕って、

「いまは『誠意』をお見せすることができないので、また来週にでも来てもらえませんか。用意しておきますので。」

「ふん、そうか。わかった。きっとだぜ?じゃあナ」

 そう言い捨てて帰って行った。

「いや、参ったな。カードを早急に手に入れないと……。」

 それから心待ちに、あの営業マンからの連絡を待った。そして一ヶ月も待ったころにやっと、また街中で後ろから肩をたたかれた。

「おお、キミ。会いたかった!」

 彼は思わず道ばたで営業マンに抱きついてしまった。なにしろ、この一ヶ月、例のオトコに何度も「誠意」を要求されて、多額の金を渡した上に毎度怖い思いをさせられて困っていたのだ。

「これで助かる。」ニッコリVサイン。

「はい。毎度ありがとうございます!」ニッコリVサイン。



 オトコがまた「誠意」を見に彼のマンションにやって来た。きょうはもう水に流すカードを用意して待っていた彼は、これまで毎回青ざめた顔だったのがニヤニヤしていた。そして応接間でソファに座り、懐から茶封筒を取り出してガラステーブルの上をスベらせるようにオトコのほうへ差しだした。オトコは封筒がいつもの銀行の封筒では無い上に、ヤケに薄っぺらいのを見て少し眉間にしわを寄せた。封筒を手に取ると、中身を取り出した。「ナンダァこれァ?」

 「水に流すカード」を受け取った人間がみんなそうするように、裏表を見て何も書いていない白い紙だと確認する。そして、瞬時に表情が穏やかになり、

「まあ、誘ったのはあのオンナのほうらしいからナ。もう勘弁してやるか……。」

 そういうことばが自分から出てきたことを自分で不思議そうにしながらオトコは帰っていった。

「フゥ……危ないところだった。もしカードがなかったら大変なことになるところだったナ。それにしても、あのオンナ、俺に金ばかり使わせて……なんてこった。」

 オトコを見送り、そう独り言を言いながらイタリア製の革張りソファーに、どっかと腰を下ろし。

「これも勉強か。水に流してやるゼ。」

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