01
「ねえ、あなた――わたしに殺されてみる気はあるかしら」
「はい?」
俺は思わず呆けた声を上げてしまった。
しかしそれも仕方のないことだろう。軽めの朝食を摂った後、優雅に紅茶を嗜んでいる最中に何の脈絡もなくそんなことを言われたのだ。動揺しない方が難しい。
俺は衝撃的な発言をした女性の目をじっと見た。
ヴァイオレット・アングラマイン。
俺より少し年上の女性である。射干玉の、という枕詞がこれ以上ないほど似合う黒い御髪をお持ちで、目鼻立ちの整った顔をしている。少々病的で気だるげな雰囲気が出ているが、それもまた妖しい魅力と言えるだろう。
「えっと……どういう意味でしょうか」
「どうって、そのままの意味だけれど。ほら、あなたってこの世界……スヴェルニア出身ではないでしょう?」
その通り。俺はこの世界の人間ではない。
俺の出身地は日本――すなわち地球だ。およそ四年前まで、俺はありふれた日本の中学生だった。それなのにある時、気づけばスヴェルニアというこの世界に放り込まれていた。
一体何があったのか。残念ながら、それは俺にも分からない。何も覚えていないのである。
ヴァイオレットが言うには、異世界への移動には凄まじい負荷がかかるらしい。その負荷のせいで記憶が飛んでしまうことも、十分考えられるという。
いずれにせよ事実として、俺は知らぬうちに地球ではない世界の森の中にいて、前後の記憶を完全に失っていた。
初めは大いに混乱した。気が付いた時には見知らぬ森の中で寝ていたのだ、混乱しないわけがない。みっともなく泣くことこそなかったものの、喚いたことはあったと思う。
ただ泣こうが喚こうが現実が変わることはなく、俺は見知らぬ森での生活を強いられた。サバイバルの知識はテレビで仕入れたいまいち役に立つのか立たないのか判断しかねるものばかりだったが、十日、あるいはそれ以上の期間、命をつなぐことに成功した。俺が降り立った森に凶暴な魔獣がいなかったこともあわせて、運がよかったのだろう。
しかし軟弱と言われようが現代を生きる中学生が未開の森で生活するのは、なかなかに辛いものがあった。ここが日本ではないらしいということにはすぐに気づけたが、未来への展望もなく、日に日に心が摩耗する。そんな俺を救ったのが目の前のヴァイオレット・アングラマインと右に座るアージェ・アングラマインの姉妹だった。
仕事で森に入ったという彼女たちと遭遇した俺は、久方ぶりに人と会えたことが嬉しくて自分の事情をすべて話して助けを請うた。今にして思えば治安がいいのか悪いのかも分からない土地で初対面の人間に色々と話すのは結構危うい行為であったが、それが功を奏してヴァイオレットの興味を引き、彼女たちの世話役として同行を許された。
「そうですね、俺は他所の世界の人間です」
「ええ、だからあなたを元の世界に戻す魔法を研究していたわけだけれど……」
「まさか、その魔法ができたんですか?」
彼女が送還魔法の開発に取り組んでいたのは当然知っている。その理由が善意ではなく、魔法に対する探究心であることも。
「ええ。けれど元の世界に戻るためには一度死ぬ必要があるのよ」
「お、おう……なかなかのハイリスクですね……」
死ねば地球に帰れると考えるべきか、帰るためには死ななければならぬと考えるべきか。どちらも同じことだが捉え方がまるで違う。
「それで、どうする? あなたが望むのなら殺してあげるわよ?」
ヴァイオレットが酷薄な笑みを見せ、俺の背中はぞくりと震えた。
「……あー、いや。やめときます」
「あら? 元の世界に帰る気はないのかしら」
「帰る気……まあ帰りたい気持ちは当然あるんですけど、前ほど熱望してるわけじゃないっていうか」
この世界に来た当初は心の底から日本に帰ることを望んでいた。無意識のうちに「帰りたい」と呟いてしまうくらい、望郷の念に駆られていたのは紛れもない事実だ。
しかしこの世界で暮らすうちに心境の変化が生じていた。
「どうして?」
「んー……理由はいくつかあるんですけど。一つはあれですね、今更帰ってどうするんだっていうか。ほら、あれから四年も経っちゃってるわけですし、帰ったときに説明するのが大変じゃないですか。異世界に行ってました、なんて言ってもおかしな目で見られるだけですし」
「別に四年後に戻る必要はないわよ」
「へ?」
「時間は普遍的なものではないの。世界が違うと時間という概念は意味をなさない」
俺は少しだけ彼女の言葉を咀嚼するために時間を取った。