雨に唄えば
雨降りは嫌いじゃないけれど、ひとりの時は余計に寂しい感じがして、少しだけ苦手だ。
助手席に置いていた茶色い包みから付箋のついた本を取り出した。色気も何もない学生の頃に教科書として使っていた民俗学の本。
彼に貸してあげようと用意していたのだけど渡しそびれてしまい、それからなんとなく続いていた彼とのやり取りもパタリと途切れて幾日か過ぎて、私は携帯電話を眺めてこの日何度目かのため息をついた。
もしかしたらまだ彼が居るかもしれないと、少しばかりの期待をしていつもの駐車場に来てみた。たぶんいつものように気ままな時間を過ごしているのだろう、今日は雨が降っているせいか広い駐車場の建物寄りに彼の黄色い車があって、私は少し離れた隅っこに車を停めた。
たった二十歩の距離、でも、私には彼に声をかける勇気はなかった。ザアと降りしきる雨は何もかもを容赦なく叩く、フロントガラスに伝う雨は小さな波の模様となって私の視界を遮った。迷子の時のような心細さに、私はだんだんと悲しくなってハンドルに突っ伏した。「馬鹿みたい」ぽそりと口にして。
そのままじっと雨音を聞いていた。雨宿りの鳩がホウホウと情けなく鳴いて、灰色の空を飛行機ゴウゴウと音たてて行き、左手に握っていた携帯電話がリンと鳴って、思いがけない彼からの着信に私はおずおずと電話を受けた。
――いまラジオで良い歌が流れています、このまま聞いてください。
私は小さく電話口から流れてくる音に耳をそばだてた。古い感じの曲調に合わせて男性歌手が英語で歌っている。大きく小さく、強く優しくゆらぐ、嬉しそうに陽気に。そして、静かに曲が終わるとシンギンインザレインでしたとラジオ番組の司会者が言った。
――ずいぶん古い映画なのですが、雨に唄えばをご存知ですか。
――僕の好きな映画のひとつで、学生の頃にビデオテープが擦れるほどに観ました。
――ジーン・ケリーが、さっきの歌を唄いながら軽快にタップを踊るのです。土砂降りの雨の中でくるくると傘を回しながら。あの場面は本当にわくわくします。
――すみません、つい夢中になってしまって、そろそろ電話を切ります。
「待って、……もう少し、もう少しだけ」私はか細い声で小さなお願いをした。
――こちらこそ喜んで、なんなら雨の中踊ってみせましょうか。それにしても、この距離にいて電話で話すなんて、なかなか趣き深い。
ザアと降りしきる雨はまだしばらくやみそうにない。そんな雨降りの夕方。