四 ナサーンの街
カヌトの家から街道を西に進み、橋を渡ると、アシ山脈の麓に、ミナキが生まれて初めて目にする、城壁に囲まれた大きな街が開けていた。城門を潜る時にカヌトが言った。
「ここが、ナサーンだよ」
国境に近い街だけあって、ゆき交う人々は、色々な装束を身にまとい、肌の色や話す言葉も様々である。あまりの人の多さに、ミナキが目をぱちくりさせていると、荷を載せた馬の手綱を引いたカヌトが、微笑して説明してくれた。
「ここはニギの領土ということになってはいるが、魔法使いたちを束ねる、魔法学術協会という組織のニギ支部に一番近い街でね。自然と、諸国の魔法使いたちや、その力を必要としている人たちが集まるんだよ。だから、まあ、ここはニギであってニギではない場所と言ってもいいかもしれない。――だから、ヒョウ軍もこの街は襲わなかったんだろう」
そんなところがあるなんて、今まで知らなかった。母が言っていた通り、森の先の向こうは、自分が住んでいたのどかな農村とは、別の世界だったのだ。
見慣れぬ街は珍しく、ミナキはきょろきょろしながらカヌトのあとをついていった。
「これから会いにいく医師も、普通の医師じゃない。魔法学術協会に属している魔法医なんだ」
カヌトはそうつけ加えると、街の中心部から少し離れた場所に向かった。床が地面についた、一軒の小さな建物の前で立ち止まり、その隣にある厩に馬を繋いだ。建物の中に入ると、二人は土間で草履を脱いだ。
受付にいた中年の女人が、カヌトに気づくと声をかけてきた。
「おや、カヌトさん。お久し振り」
「お久し振りです。今日は診療を受けにきたんですよ。先生に、この娘を診てもらいたくてね」
ニギ語で告げると、カヌトは座敷に上がった。彼に手招きされて、ミナキも隣の座布団に座る。座敷は適度に込み合っていて、ここが人気のある診療所であることが分かった。やがて順番がくると、ミナキはカヌトとともに、戸で仕切られた部屋の中に入った。
中にいたのは、はっと目が覚めるような美しい女人だった。肌は褐色で、異国風の彫りの深い、華やかな顔立ちをしている。年齢は、カヌトと同じくらいだろうか。
(じゃあ、この人が魔法医なんだ)
魔法使いの医師というから、ミナキはもっと年嵩の、髭でも蓄えた男の人を想像していた。ミナキが驚いていると、カヌトは魔法医に親しげに話しかけた。
「久しぶりだね、シーリャ。この娘はミナキという。今日は彼女を診てもらいたくてきたんだ」
「症状は?」
シーリャと呼ばれた魔法医は、にこりともせずに質した。美人なだけに、その姿には何とも言えない迫力がある。慣れているのか、カヌトは臆した様子を見せない。
「声が全く出なくなった」
「じゃあ、とにかく声を出そうとしてみて」
ミナキは言われた通り、朝やったように、声を出そうと試みた。結果は同じだった。まるで声が出てこない。
シーリャはミナキの喉に手を当てると、異国語で何かを唱え始めた。喉元が少しずつ熱くなっていく。手を放すと、シーリャは端麗な唇を開いた。
「喉や声帯に異常はないわね。――何があったの?」
「実は……」
カヌトは昨日のできごとを、かいつまんで話し始めた。ミナキにはその話が、自分とは接点のない、どこか遠い国の少女の身の上話のように聞こえた。
話を聞き終えたシーリャは言った。
「なるほど、ね……。おそらくはその時の衝撃で、声を失う病にかかったのでしょう。ただ、経過を観察してみないと、はっきりしたことは言えないわね」
では、自分は病気なのだ。そう知らされて、奇妙な安堵感と受け入れ難い気持ちの両方が、ミナキのうちに湧き起った。
シーリャはつけ足す。
「それと、分かっていて欲しいことがひとつ。この病は、いつ治るとは断言できない病よ」
「どういうことだい?」
「運がよければ、明日治るかもしれないし、一年先になるかもしれない――そういうことよ。治療法もあるにはある。でも、確実なものではないわ。心の病は、風邪のように、はっきりとしたことは言えないの」
ミナキはがっかりした。それはつまり、この病が魔法医にも治せないかもしれないということだ。
「ミナキさん、他に何か気になるところはない? 例えば、食欲がないとか、気が滅入って、何もやる気が起きないとか」
シーリャの問いかけに、ミナキは首をふるふると振った。確かに気分が落ち込むことはあるけれど、そこまで酷くはない。
「そう。それなら、今のところ、他の病は併発していないようね。それで肝心の治療法だけれど……」
「どうすればいい?」
真剣な声で、カヌトが訊いた。シーリャはてきぱきと答える。
「定期的にうちに通って、声を出す訓練をして。せっかくきたんだから、今日から始めましょう。……その前に、ちょっとカヌトと二人だけで話がしたいの。構わないわね?」
「もちろん。ミナキ、少しの間、座敷で待っていてくれないかな。話が終わったら呼ぶよ」
カヌトに促され、ミナキは座敷に戻るために立ち上がった。
あとに残されたカヌトは、シーリャの何か言いたそうな目に気づいた。
「どうしたんだい」
「どうしたんだい、じゃないわよ!」
シーリャは描いたような眉を釣り上げ、母国語であるラシッド語で言い放った。ラシッド語は魔法学術協会の共通語だ。
「あなた、どういうつもり? あんな来年か再来年には嫁にいくような、難しい年頃の女の子を引き取るなんて! 何かあったら責任取れるわけ?」
まくし立てるシーリャをカヌトは手で制した。
「まあまあ。ちょっと落ち着いてくれるかな。患者さんが驚くよ」
シーリャはいったん口を閉じると、声量を抑えた声を出す。
「カヌト、あなた、自分の立場を分かって行動しているの?」
氷片のような冷たいものが、カヌトの心をよぎった。
「分かってるよ。痛いほどにね。――だがね、現実問題として、彼女にはいくあてがないし、いつ治るか分からない病も抱えてる。こちらから引き取ると言い出しておいて、今更放り出すわけにもいかないだろう」
「なら、支部長に相談するとか……」
「あの人には、もう迷惑をかけられない」
ため息をつくようにカヌトは答えた。シーリャは食い下がる。
「あなたはヒョウ人で彼女はニギ人でしょう。確かに、あなたは今回の襲撃に関わってはいない。でも、そのうち、一緒にいることが辛くなってくるかもしれないわ。そういう緊張した関係は、心の病にとってよくないのよ」
その言葉は、カヌトが昨日から自問自答していたものと、ほぼ同じだった。それでも、今、彼女の手を放すべきではないと、カヌトは思ったのだ。
「君の言いたいことは、よく分かるよ。だけどね、今この時が、彼女の人生の別れ道なんだ。希望を取り戻して歩いていけるか、それとも道を踏み外すかの、ね。だから、わたしは、彼女の傍についていたいんだ。彼女をよく知りもしないくせに、と言われようともね。――自分と同じ間違いを、彼女に犯して欲しくはない」
シーリャはじっと聞いていたが、やがて、諦めたように言った。
「……仕方ないわね。好きになさいな。だけど、これだけは約束して。くれぐれも感情的になって、彼女を怒ったり責めたりしないで。回復が遅れてしまうわ。ただでさえ、新しい環境で過ごすことになって、心細い思いをしているんだから。……それと、可愛い娘だからって、手は出さないように」
「ありがとう。気をつけるよ。だけど、最後の台詞は余計だろう。さっきもだが、人を変態みたいに言うなよ」
憤慨する振りをしながらも、ここにミナキを連れてきてよかったと、カヌトは思った。シーリャは愛想と口は悪いが、患者の心に寄り添える医師だ。そういうところは、昔から何ひとつ変わっていない。
カヌトは、ふと、思いつきを口にした。
「シーリャ、ミナキに文字を教えるのはどうかな。書くことができれば、話すことができなくても、言いたいことが伝えられるだろう」
「いいと思うわ。自分を表現できるんだもの」
「それじゃあ、さっそく、帰ったら提案してみるよ」
シーリャに改めて礼を言ったあと、ミナキを呼ぶために、カヌトは座敷に戻った。
発声訓練を終えたミナキは、両手を交差させてシーリャにお辞儀をすると、カヌトとともに診療所をあとにした。
訓練は何種類もあり、色々な声の出し方で歌おうとしたり、心に魔法をかけられた状態で声を出そうとしたりと、一風変わったものだった。
今から心に魔法をかける、と言われた時、ミナキは少し怖かった。だが、それは心を穏やかにする魔法で、短時間で効果の切れる安全なものだと説明され、本当にその通りだったので驚いたものだ。どうも、大きな村にいた医師よりも、魔法医であるシーリャのほうが、知識もあれば、腕も立つようだった。
訓練をしても、相変わらず声は出てくれなかった。それでも、シーリャに「声を出そうとすることが大切なのよ」と励まされ、ミナキは少し前向きな気持ちになれた。
その折に、シーリャは初めてこちらを安心させるような笑顔になり、ミナキは思わずその美しさに見とれてしまった。シーリャ目当てにこの診療所を訪れる男の患者は、きっと多いに違いない。
もしかして、カヌトもそうなのだろうか。そう思うと、ミナキは何だかすっきりしない気持ちになった。
それはそうと、訓練がどんなものだったか、カヌトに聞いてもらいたいのに、言葉が出ないという現実は、ミナキをもどかしい思いにさせた。
(話す以外にも、何か言いたいことを伝える方法があればいいのに……)
そう考えたあとで、ミナキは思い出した。そういえば、朝、カヌトが言っていた。文字を読めたり書けたりすれば、意思の疎通ができて便利なのだと。頼めば、カヌトは読み書きを教えてくれるだろうか。でも、どうやってそのことを伝えよう。
ミナキが考え込んでいる間にも、カヌトは馬を連れて街中を歩き、何軒かの店を回った。店ではミナキがカヌトの家で見た、火を灯す筒のようなものをたくさん扱っており、中には薬を扱っている店もあった。カヌトは知り合いらしい店の人に挨拶をして、荷から取り出した品物を納め、お金を受け取っていく。
最後に訪れた店では、店主にこんな相談を受けた。
「カヌトさん、この花瓶なんだがね。花が長い間元気でいる魔法具だというんで買ったんですが、逆に花が枯れてしまうんですよ。どうにかならないですかね。直してくださったら、お礼は弾みますよ」
「ふむ、単に故障しているのか、それとも呪いがかかっているのか……。分かりました。引き受けますよ」
「よろしくお願いしますよ。それにしてもカヌトさん、そろそろこの街に腰を落ち着けて、商売を手広くされてはいかがですか。お住まいがあの森の近くじゃ、ここまでいらっしゃるのに不便でしょう。あなたほどの職人がもったいない」
カヌトは困ったように、ちょっと笑った。
「まあ、確かに不便ですが、わたしは今の暮らしが気に入っていましてね」
梱包された花瓶を預かって店を出ると、カヌトはミナキを振り返った。
「つき合わせてすまなかったね。わたしは自分で作った魔法具や薬を売って生活しているんだ。さっきみたいに魔法具の修理も請け負っているがね。要は魔法具職人さ。あ、魔法具というのは、魔法の力を宿した道具のことだよ。君も昨日見ただろう? うちにある硝子灯も、その一種だよ。あれは火さえ灯せば、燃料がなくても、火を消すまで、何日でも燃えているんだ。しかも、魔法使いでなくても使うことができる」
カヌトの話を聞いていると、ミナキは不思議な気持ちになった。まるで、夢の中に迷い込んでしまったようだけれど、もっと魔法の話を聴いてみたいと思う。ミナキの顔がよほど真剣そうに見えたのか、カヌトはほほえんだ。
「気に入ったのなら、歩きながら魔法の話をしようか。……さて、遅くなってしまったが、そろそろ買い物にいこう」
カヌトは市場や店で魔法具の材料や日用品、食材などを買って回った。着替えが全くないので、ミナキは衣類を買ってもらうことにした。欲しい衣類の中には下衣もあり、カヌトと一緒の時に選ぶのは恥ずかしい。また必要になったら自分で縫えばいいと思い、隠すように下衣を選び、ミナキはさっさと自分の買い物をすませた。
そうして、二人は西日が射す頃、ナサーンを立った。