二 襲撃のあと
薄暗い森の中に入ったミナキたちは、しばらく歩くと、道から外れた巨大な木々の間で休むことにした。若者は太い木の幹に寄りかかり、ミナキは草むらの中に座り込んだ。
(ヒョウ軍は復讐しにきたのかな……)
ちらっと、そんな考えが頭をよぎった。
五年前、ニギはヒョウに大きく攻め入った。その時に、象や馬に乗った騎士たちに率いられた軍隊が、ミナキたちのトビ村を通り、村人たちが糧食を提供したこともある。それに、ニギとヒョウはミナキが生まれる前から、何度も戦を繰り返していると聞く。だから、村人のヒョウ人に対する感情は、決してよいものではなかった。
眠っていた時に感じた地響き。あれは何頭もの象や馬が駆け抜ける音だったのだろう。
ヒョウ軍は、五年前の復讐に現れたのかもしれない。もし、そうだとしたら、両親やトゥクル、それに村の皆はどんな目に遭わされるだろう。
恐ろしい想像が鎌首をもたげそうになり、ミナキは身震いした。
「名前……」
ミナキの悪い想像を打ち消すように、唐突に若者が呟いた。ミナキが彼のほうを見ると、若者は首を少し動かしてこちらと目を合わせた。
「そういえば、名前を教えていなかったな、と思ってね。わたしの名はカヌトだ。君、名前は?」
「……ミナキです」
「そうか。よろしく、ミナキ」
カヌトと名乗った若者は、こちらの気持ちをほぐすように、目だけで笑って見せた。しかし、ミナキは笑い返すことができなかった。代わりに、分かり切ったことを声にする。
「今日は薬を売りにきたんですか?」
「うん。そしたら、森を抜けようとしたところで、君の悲鳴が聞こえてね。ヒョウ兵が不埒なことをしようとしていたから、魔法を使って帰ってもらった」
「また戻ってくるなんてことは……」
「大丈夫だよ。わたしたちに会った記憶は曖昧になっているはずだから。あれは精神に作用する魔法なんだ」
魔法とは、そんなこともできるのか。自分を助けてくれた力とはいえ、ミナキは魔法使いを怖がっていた友達の気持ちが、ようやく分かったような気がした。
「魔法使いは怖いかい?」
内心を見透かすようなカヌトの言葉に、ミナキは口ごもった。カヌトは特に気にした様子もなく、続ける。
「魔法使いというのは、都市では珍しいものじゃないんだがね。トビ村ではそうじゃなかったから、魔法を使えることは秘密にしていたんだ。特に、わたしはヒョウ人だしね」
「……それなのに、どうしてトビ村で商売を?」
「こちらに村落があると知った時に、試しに自分で作った薬を持っていったんだ。結局、薬を買ってくれたのは二人だけだった。でも、次に薬の感想を訊きに訪れた時、その二人からお礼を言われてね。その人たちが噂を広めてくれたおかげで、薬が売れるようになったんだよ。わたしは街で商売をしているから、本当はトビ村で長く商いをするつもりはなかったんだが、気づいたら、一年ほどたってた」
トビ村について語るカヌトの表情は、穏やかだった。ミナキは細波立った心が、不思議と落ち着くような気がした。
「父が……」
言いかけて、少し迷いながらも、ミナキは最後まで言葉を紡ぐことにした。
「父が風邪を引いているんです。あなたの薬を欲しがっていたから、あとで売ってあげてください」
「分かった」
カヌトは微笑とともに頷いた。
二人はそうしてぽつりぽつりと会話をしながら、時を過ごした。枝葉の間から見える太陽が中天に近くなった頃、カヌトが声を発した。
「……そろそろいこうか」
はやる気持ちを抑えられず、ミナキは立ち上がり、足早に歩く。カヌトは何も言わず、ただミナキの歩調に合わせてくれた。
森が開け、光が見えてきた。
家族は、村の皆はどうしているだろう。
こらえ切れず、ミナキは駆け出す。丘の頂まで一気に駆け登り、村を見渡した。
稲穂が実っていた田んぼが、辺り一面焼け落ちている。その先に見える村からも、煙が上がっていた。米を収穫したあとに、ヒョウ軍が火を放ったのだ。ヒョウの兵士たちの姿は見当たらず、戦象の姿も騎馬の姿もない。
「ミナキ、わたしが先にいこう」
追いついてきたカヌトが声をかけてきた。確かに、まだヒョウ兵が残っている可能性があるので、ミナキは申し訳ない気持ちで、「はい、気をつけて」と返事をした。二人は無言で丘を下りていく。途中、ミナキは追われた時に脱げてしまった片方だけの草履を見つけた。今度は脱げないようにしっかりと履く。 二人が畦道を抜け、村に近づいていくと、煙が漂ってきて、ものが焼け焦げる嫌な臭いがした。
(父さん、母さん、トゥクル……どうか無事でいて)
祈るような気持ちで、ミナキは村に入った。木や竹できているせいで、ほとんど燃え落ちている家々の間を歩いていた時、ミナキは思わず悲鳴を上げた。村の男の人が地面に転がっていたからだ。背中には何本も矢が刺さっている。カヌトが近づいていって、傍らにしゃがみ込み、ほどなく首を横に振った。
思わずミナキは、自分の家を目指して走り出した。途中、倒れている人を何人も見かけ、それが家族かもしれないという恐怖に身を震わせながら、ひたすら走った。
やがて、ミナキは足を止めた。
火がちろちろと残る家の残骸の前に父が、そのすぐうしろに、トゥクルと折り重なるようにして、母が倒れていた。
「父さん! 父さん!」
ミナキは父に駆け寄り、その身体を揺すった。兵士に立ち向かおうとしたのだろうか。父の横には鋤が落ちていた。ぴくりともしない父の身体の下には、大量の赤黒い血溜まりができている。
何が起こっているのか認めたくなくて、ミナキは母とトゥクルの傍にいき、代わる代わる揺り動かした。
「母さん! トゥクル! 何か言ってよ!」
二人とも血まみれのまま、微動だにせず、何も答えない。ミナキの頬を熱い涙が伝った。何が悲しいのかも分からないのに、どうして涙が溢れるのだろう。
(そうだ……)
ミナキは立ち上がり、カヌトの姿を捜した。彼は、ミナキのすぐうしろに佇んでいた。
「皆、怪我をしているんです。治してあげてください。そうすれば、また起き上がれるわ」
カヌトは沈痛な面持ちで、こちらを見下ろしていたが、ゆっくりとかぶりを振った。
「無理なんだ」
「――え?」
「治癒の魔法は、死者には効かない。すぐには受け入れられないだろうが……いいかい、君のご家族は亡くなったんだ」
急に力が抜けて、ミナキはへたり込んだ。カヌトの言葉は確かに耳に届いているのに、言っている意味が理解できない。
ただ涙が、あとからあとから、溢れてくる。次第に、ゆっくりとカヌトの言葉の意味が、頭に染み透っていった。
父と母とトゥクルは死んでしまったのだ。他の村の人たちと同じように。
嗚咽が込み上げ、ミナキは冷たくなった母にすがりついて泣いた。
朝餉の時までは、いつも通り元気にしていた家族の顔が次々と浮かんでは消える。
(どうして――どうして、こんなことになってしまったの?)
こんなことになるなら、もっと父に優しくしておけばよかった。すぐに村に戻れなかった自分を恥じる気持ちと、家族を守れなかった口惜しさが、ミナキの中で膨れ上がった。
次にミナキの脳裏に浮かんだのは、ヒョウ兵たちの姿だった。あの人たちの仲間に、家族は殺されたのだ。
(あいつら――絶対に許さない)
そう心に強く念じた時、ミナキはカヌトのことを思い出した。
顔を上げると、カヌトは静かに、ミナキを見守っていた。その表情に冷たさは一切なく、代わりにいたわりが見えた。ミナキは、急速に怒りがしぼんでいくのを感じ、うなだれた。
「落ち着いてからでいいんだが……」
カヌトが口を開いた。
「夜になる前に、死者を葬ろう。禿鷹や獣が集まる前に」
ミナキは弾かれたようにカヌトを見た。辛い死に方をした家族や、見知った村の人たちが獣たちに食い荒らされるなんて、想像したくもなかった。ミナキは手でぐいっと涙を拭うと、「はい」と答えようとした。ミナキが異変に気づいたのは、その時だった。
声が、出ない。
さっきまでは、確かに話すことができていたはずなのに、いくら絞り出そうとしても、全く声が出てこなかった。
ミナキが呆然としていると、異変に気づいたカヌトが声をかけてきた。
「もしかして、声が出ないのかい?」
ミナキはこくりと頷く。
「……聞いたことがある。あまりに心に負担がかかると、急に声を失ってしまうことがあると。わたしには詳しいことは分からないから、医師に診せたほうがいい」
ミナキには医師の知り合いもいなければ、医師にかかるためのお金もない。ミナキがますます気落ちすると、カヌトはこちらを安心させるようにほほえんだ。
「こればかりは、急いでもどうにかなる問題じゃない。今は村の人たちを葬ってあげることを考えよう」
ミナキたちは鋤を使って大きな穴を掘り、そこに村人たちを安置して埋葬していった。悲惨な死に方をした人は、葬式をせず、土葬にしなければならないと教えられてきたからだ。そのことを、今のミナキは説明するすべを持たなかったものの、カヌトは「この状況では、火葬にはしてあげられないね」と無念そうに言い、埋葬をしていった。
こんなことがなければ、皆、きちんと葬式を出されていただろうに……。そう思うとまた涙が滲んできたけれど、ミナキは必死に堪えた。
家族の遺体にはミナキが土をかけさせてもらい、最後の一人を埋葬した時には、既に日はとっぷりと暮れていた。
ミナキは初めのうち、自分以外の村人は、全て殺されたものだと思い込んでいた。しかし、遺体を捜している最中、多くの人がいなくなっていることに気がついた。カヌトも、遺体の数を疑問に感じたらしく、こう言った。
「皆が皆、殺されたわけじゃなさそうだ。おそらく捕虜として相当連れていかれただろう。君のご家族は、残念だったが……」
故郷を焼かれ、隣人を殺され、収穫を奪われて捕虜になった人たちは、今頃どんな思いをしているのだろう。彼らのことを考えると胸が張り裂けそうだった。だが、今のミナキにはどうすることもできない。
トビ村は滅んだのだ。
廃墟と化した村で、月明かりに照らされながら、カヌトが尋ねた。
「今日はもう遅い。わたしは家に帰るが……君も一緒にこないか?」
これからどうすればよいのか途方に暮れていたミナキは、目を瞬かせた。
カヌトは頭を掻く。
「男の一人暮らしの家なんて、くるのは嫌かもしれないが、一応、寝間も幾つかあるし、夕餉も食べられる。昼餉を食べていないだろう?」
そういえば、今日は様々なことがありすぎて、昼餉のことなどまるで忘れていた。食べ物のことを思い出したせいか、急にお腹が鳴り出し、ミナキは赤面した。
カヌトは笑った。
「じゃあ、決まりだ」