一 いさかい
時はミナキが試験を受けた前日まで遡る。
ロウはアシ山脈を登り、魔法学術協会ニギ支部に辿り着いた。山中にあるこの辺りは、下界と比べると涼しく、半袖だと肌寒いくらいで、ロウは久し振りに快適な気分を味わった。煉瓦造りの立派な建物を見上げたあとで、協会の東側にある魔法院に向かう。
協会の周りには城壁も堀も存在しない。泥棒よけの塀と門で囲ってあるだけだ。魔法学術協会は魔法の平和利用を掲げる組織であり、いかなる戦にも参加しないという理念を、壁を造らないことで主張しているのだという。
一見、軍隊を持つ諸国とは相容れないように見える理念だ。しかし、協会が各地で擁し、養成している魔法学術師の優秀さと多彩さは、各国の政府が注目するほどで、協会はどの国でも丁重な扱いを受けていた。
協会の会師になる者は、魔法を軍や戦に関係することや、破壊活動に使わないよう、前もって宣誓させられるくらいだ。もちろんロウも、魔法院を卒業して会師見習いになる際に、その宣誓をすませている。
戦に従事していた両親が、どんな思いで、ロウを王都の魔法院ではなく、協会の魔法院に入学させようと思ったのかは分からない。きっと、もっと大人になるにつれて、おいおい理解できるようになるのだろう。
魔法院の敷地に戻ったロウは、在校生の寮からは少し離れた場所にある、小ぢんまりとした卒業生用の寮へ足を向けた。
自分と同じように、試験のために戻ってきた級友たちや、卒業するまでお世話になった寮母と挨拶を交わしたあと、自分の部屋を目指す。先に到着していた同室の生徒の勉強の邪魔をしないように、ロウは適度にくつろぎつつ、荷物から勉強道具だけを取り出し、復習に取りかかった。
間に二度の食事を挟み、家事をしなくてよい気楽さを満喫しながら、試験に出そうな項目や苦手なところを、集中して勉強していく。
やがて就寝時間がやってきた。もう少し勉強しておきたいなという気持ちを抑え、ロウは明日に備え、早めに眠ることにした。
翌朝、寝坊しそうになったものの、何とか試験前に起きたロウは、急いで朝餉を掻き込み、雨の中、駆け足で校舎を目指した。今は、在校生たちは休みに入って帰省しているので、この場にいるのは試験を受けるために戻ってきたロウたち卒業生と、教師たちだけだ。
走ったせいか、ロウは余裕を持って校舎に着いた。廊下を歩いていると、昨日は会えなかった懐かしい面々と再会し、笑い合いながら近況を報告し合う。
「おい、邪魔だぞ」
聞き覚えのある嫌な声が耳に届き、ロウは振り返った。
取り巻きを連れ、不満そうに口元を引き結んだ少年が、意地の悪そうな吊り上がった目で、こちらを見ている。彼の名はジズといって、裕福な家柄や、父親が著名な魔法学術師であることを自慢してばかりいる、鼻持ちならない少年だった。ニギ人同士ではあるけれど、当然ロウと彼は反りが合わず、何度も喧嘩騒ぎを起こしている。
(……せっかく、昨日は会わずにすんだのにな)
最悪な気分になりながらも、ロウは無言で廊下の隅に寄った。
「おい、謝れよ。ロウ」
案の定、ジズが絡んできたので、ロウはむっとした。だが、今は試験の前だ。喧嘩をして、罰として試験を受けさせてもらえない、などという事態になれば、これまでの努力が水の泡になってしまう。
ロウは悔しさを必死で堪えた。
「……悪かったよ」
ジズが得意げに鼻を鳴らした。嗜虐的な視線をロウによこす。
「謝るってのはな、頭を下げて、『申し訳ありませんでした』って心から詫びることなんだよ。ほら、やってみろよ」
さすがにロウはかっとなった。
「ふざけるんじゃねえよ! そんなことするくらいなら、死んだほうがマシだ!」
ジズが目を剥いた。
「……もう一度言ってみろ」
「ああ、何度でも言ってやるよ。それにつけ加えといてやる。お前は頭を下げられたり、謝られたりする価値なんてない人間だよ」
「ロウ、まずいよ」
「そうだよ。試験前だし、先生に見つかったら……」
頭に血が上っているロウには、友人たちの声が遥か遠くから聞こえてくるように思われた。緊張した空気がみなぎる中、他の生徒たちも、何事かという顔で周囲に集まってくる。
ジズが一歩前に出た。
「お前は相変わらず生意気なんだよ。師匠が礼節って奴を教えてくれなかったのか? もっとも、お前の――」
ジズが何か言いかける中、生徒たちを掻き分けるようにして、紙の束を持った教師が歩いてきた。
「おい、お前たち、何をやってる。もう試験を始めるぞ」
生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室に入っていく。
(絶対に、こいつよりいい点数を取ってやる)
ロウとジズは少しだけ睨み合い、それぞれ別の戸口から教室に入った。
試験は三日間行われ、筆記、口答、それに、科目のひとつである実技の三種類がある。一日目の最初の試験は、ロウが苦手な解呪の筆記だった。
ロウはジズとの口論で苛立つ気持ちを、何とか試験のほうに向けた。次第に集中してくると、設問が手に取るように分かるのに気がついた。カヌトのもとに弟子入りする前は、あんなに四苦八苦して問題を解いていたのに……。
ロウは夢中で試験を解いていき、空欄を作ることなく、しかも制限時間よりも早く、全問を解き終えた。答えを見直しながら、次の試験のことを考える余裕すらあった。
最初の試験が終わり、皆が感想を言い合う中、ロウは得意な実技の試験を、力を出し切って終えた時のような手応えを感じていた。
口答の試験でも、ロウはあまり緊張することなく、教師の質問になめらかに答えることができた。正直に言えば、普段の授業でのカヌトの質問のほうが、ずっと切り口が鋭く、答えにくかったので、かえってやりやすかったくらいだ。
そして、卒業前からジズと競い合っていた実技の試験は、基礎を勉強し直した甲斐があってか、教師が示した課題を、地水火風全ての要素において手抜かりなく達成することができた。火の魔法だけ失敗したジズが臍を噛んでいるのは明らかだったので、ロウは気分がよかった。
ロウはそのまま調子を崩さず、他の試験も、三日のうちに無事終えることができた。
試験が終わってから三日後、校舎の廊下で結果が発表された。教師が貼り出した順位表を、ロウは友人たちとともに食い入るように見つめた。緊張しながら、上から自分の名を捜そうか、それとも下から捜そうか、少し迷い、思い切って上から捜すことにする。
目を走らせたロウは呟いた。
「……あった」
ロウの名前の左には、八位、と記されている。百二十八人中、八位だ。それは、ロウが今まで取ったことのない成績だった。どんなに成績がよい時でも、せいぜい三十位かそこらだったのだ。
この五か月間の努力が報われた。ロウは感慨深い気持ちで、もう一度、自分の名前と順位を見つめ直した。
自分たちの成績を確認した友人たちが、ロウの順位に気づき、目を丸くした。
「すげえな、ロウ。十位以内に入ってるじゃないか」
「どんな勉強したんだよ。ああ、くそ。試験前に教えてもらえばよかったな」
口々に感想を言っていた彼らが、急にぎょっとした。ロウが友人たちの視線を辿ると、取り巻きを連れたジズがやってくるところだった。
ジズはロウたちのことは無視し、順位表に目をやった。時間がたつにつれ、彼の顔色が変わっていく。ロウは思わずジズの順位を捜した。
(十位か)
試験前に念じた、「ジズに勝つ」という目標を達成し、ロウは内心で握りこぶしを掲げた。
ジズがくるりとこちらを向いた。
「どうして、お前が僕より順位が上なんだ」
ロウは心底ジズが嫌になった。結果を受け入れないばかりか、他人に八つ当たりすることでしか、憂さを晴らせないのだろうか。
「知るかよ」
ロウはそっけなく答えた。ジズが眉を上げる。
「どんなずるをしたかって訊いてるんだよ! お前なんか僕より何十位も下だったくせに」
あまりの言いがかりに、ロウはかっとなった。
「ずるなんて、お前じゃあるまいし、誰がするもんかよ! 俺はこの五か月、真剣に勉強してただけだ!」
ジズが鼻で笑った。
「ああ、勉強ね。罪人の師匠のもとでだろ。そりゃ、はかどるよなあ」
一瞬、ロウはジズの言わんとしていることを理解しかねた。
「は? 罪人? 何言ってるんだ、お前」
ジズは口角を釣り上げる。
「お前の師匠は、カヌトっていうんだろ?」
ジズの口からカヌトの名が出たことに、ロウは驚いた。師匠の名など、こちらから話さない限り、協会の一部の者以外は知らないはずだ。
「何で僕がその名を知ってるのか、って顔だな」
感情が顔に出てしまったことを、ロウは後悔した。ジズは構わず続ける。
「教えてやるよ。師匠がカヌトのことを話してくれたんだ。昔、こんな愚かな魔法学術師がいました、って話をさ。僕の父はニギ支部の上層部にいてね。気になったから、書状でカヌトが今どうしているのか訊いてみたのさ。そうしたら、何とお前の師匠に選ばれたっていうじゃないか。そんな師匠の弟子とはつきあうな、って注意までしてくれたよ。これには驚いたね。お前のことが、ほんのちょっとだけかわいそうになったくらいさ」
「どういう意味だよ」
「罪人」という言葉とカヌトの名が繋がらず、ロウはきつい口調で質した。ジズは愉悦の表情を浮かべる。
「言っただろ。カヌトは罪人なのさ。僕の師匠と父が言っていたんだから間違いない。カヌトはな、六年前に禁法具を作って、たくさんのニギ人を殺そうとしたんだ」
「――嘘だ」
ロウは喘ぐように言った。カヌトがそんなことをしたなんて、考えたくもなかった。ジズは自分に不快な思いをさせるために、でたらめを言っている。そう思いたかった。
「嘘なもんか。試しに、先生の誰かに訊いてみろよ。有名な話だそうだから、きっと皆知っているぞ。お前はだまされてたんだよ。同情――」
なおも言い募ろうとするジズの頬を、ロウは無言で殴りつけた。
のけぞって、うしろに倒れ込んだジズは、取り巻きに助け起こされ、ぽかんとした顔をしていた。しばらくして、殴られたことに思い当たったのか、ひきつった顔で何かをわめき始める。
その光景を、ロウは混乱する頭に反して、冷ややかに見つめていた。殴りつけた拳が、じんじんと痛かった。




