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金鎖の解師  作者: 畑中希月
第一章 森の先の世界
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一 トビ村

 ニギ王国には寒季が訪れていた。南国のニギでは、気温も下がる最も過ごしやすい季節で、北部の農民たちにとっては米の収穫と重なる時期だ。今日から、トビ村では稲の刈り入れが始まる。竹でできた質素な家の中で両親と弟と一緒に、床の上に座って朝餉あさげを食べながら、ミナキの頭の中は、刈り入れをする前にしておきたい「あること」で一杯だった。


 父が匙を動かす手を止めた。


「母さん、風邪薬は残ってないか? どうも、風邪を引いちまったみたいなんだ。喉がいがいがしてたまらん」


「あら、あいにく切らしてるわよ。今日の刈り入れはできそう?」


「仕事のほうは問題ない。そうか、切らしてるのか。あの薬を飲むと、すぐに風邪なんか治っちまうんだが。……あの薬、あれだろ。たまに村にくるヒョウ人が売ってる奴だよな?」


「そうよ。もうそろそろ売りにくる頃かもしれないわね。ヒョウ人が村にくるなんて、あんまりいい気はしないけど、あの人はいい人よ。どんな薬が欲しいか、こっちの意見をちゃんと聞いてくれるし。あんたより、いい男だしね」


「何だと?」


 父の睨みを軽く受け流しながら、母は朝餉を食べることを再開した。目鼻立ちのくっきりとした白い顔に笑みを浮かべ、ミナキは不満そうな父に話しかける。


「父さん、もっと優しくしないと、母さんにいい男って言ってもらえないわよ」


「ミナキ、お前まで……」


 衝撃を受け、がっくりとうなだれる父を尻目に、ミナキは食事を終えた。


 身支度を整え、戸を開けて外に出ると、ミナキは足早に階段を下りた。朝日を浴びて、暖かい空気を吸い込む。


 頭上から母と、弟のトゥクルの声がした。


「ミナキ! あとで刈り入れ、手伝うのよ」


「姉さん、怠けちゃダメだよ!」


「はーい!」


 刈り入れの前に、ミナキにはどうしても見ておきたいものがあった。しゃがんで草履を履くと、村外れに広がる田圃を目指して駆け出す。ひとつに束ねた黒髪が、元気よく跳ねた。


 今月で十四歳になったばかりのミナキは、ニギの女が好んで身に着ける、踝まである腰布を巻いていた。長い衣をまとっているのに、ミナキは危うげなく走っていく。


 びっしりと重い穂をつけて垂れ下がる稲が見えてくると、ミナキは畦道を駆け抜けた。小舟が通れるほどの幅の、ナーヤ川沿いにある、北の小高い丘が目に入る。ミナキはそちらに向き直り、走る速度を落としながら、丘を登っていった。


 木々を抜け、丘の頂に立つと、ミナキは少しの間、瞼を閉じてから、大きな黒い瞳を見開いた。


 朝日を受けて煌めく、無数の黄金の稲穂の群れが、ミナキが見下ろす稲田一面に開けていた。風に吹かれて、稲穂は川面のようにいっせいに揺れる。


 この景色はミナキの大のお気に入りだ。もちろん、水田に生い茂る、青い稲の姿も目に鮮やかで好きだ。でも、この黄金色の風景には敵わない。毎年この季節がくると、収穫前にこうやって稲穂を飽くことなく眺めている。両親やトゥクルには呆れられているけれど。


 ミナキはふと、稲穂から目を逸らし、斜面から遥か西まで、広大に展開している森と、その先に青く連なるアシ山脈を見晴るかした。


 幼い頃から母たちが言っていた。森の向こうは、魔法使いたちが住む、自分たちとは違う世界なのだと。アシ山脈を超えた先にある、ヒョウ王国とも異なるその世界は、自分たち農民が決して交わることのない場所なのだ。


 そうは思っても、ミナキは不思議でならなかった。あんなに近くにある場所なのに、どうして誰も、魔法使いに会いにいこうとしないのだろう。魔法使いが人に悪さをしたなんて話は、聞いたことがない。それなら、何かとんでもなく役に立ちそうなこと――どんな病気や怪我でも治せる魔法の薬とか、農作業が楽になる方法なんかを、教えてくれるかもしれないのに。


 以前、友達にそう言ってみたら、「ミナキは変わってるねえ。だって、怖いじゃない。呪いでもかけられたらどうするの」と返されてしまった。変わっているのは、関わりのないものに無関心でいられる皆のほうだ、とミナキは思ったものだ。


 このまま、多くの村の女がそうするように、一、二年後に結婚して、子どもを産み、農民として生きていくのも悪くはないし、それ以外の未来を想像しようとしても、なかなか思いつかない。だけど、結婚する前に外の世界を見てみたいな、とミナキは時折、ふと思うことがある。それに、結婚するなら、絶対、好きな人がいいな、と常々心に抱いているのに、まだそういう相手に出会っていないのだ。


 とりとめのないことを考えていると、早朝のせいか眠くなってきた。少しだけなら寝てもいいかと思い、ミナキは丈の低い草地の上に、ごろんと横になった。




 いつの間にか眠ってしまったミナキは、地響きがしたような気がして、目を覚ました。


(どれくらい眠っていたのかな。母さんにどやされないといいけど……)


 起き上がって、丘を下りようとしたミナキは、息を呑んだ。


 村中に戦象や騎馬、それに、人の群れが溢れ返っている。その群像の上で翻る軍旗は、ニギのものではなかった。あんな大軍で押し寄せられては、小さなトビ村はひとたまりもない。


 ミナキは両親と弟のことを、はっと思い出した。


 帰らなければ。帰って、家族の無事を確認しなければ。


 急いで丘を駆け下りたミナキの前に人影が立ち塞がった。異国の軍装に身を包んだ男たちが二人、こちらを見上げている。手には刀を持っていた。


 恐怖が全身を貫いた。ミナキは男たちから逃れるため、とっさにきた道を戻った。焦って走ったせいか、草履が片方脱げる。脱げた草履に構っている暇はない。片方だけ履物を失ったミナキは、少し平衡感覚がおかしくなりながらも必死に駆けた。途中、裸足のほうの足が、何度も石や木の根にけつまずく。後ろから、自分のものでない足音が近づいてくる。


 西の森だ。森の中に入れば、大きな木々の陰に隠れ、追っ手を振り切ることができるかもしれない。


 あともう少しで森に辿り着く。その刹那、ミナキは後ろからぐいと肩を掴まれ、思わず悲鳴を上げる。だが、相手は放してくれない。兵士たちは、異国語で何か言葉を交わし合っている。これから自分はどうなるのだろう。絶望的な思いが、ミナキの頭をかすめた。


 森の中からもう一人の人影が足早に現れたのは、そんな時だ。森にいた別の兵士が到着したのかと思い、ミナキはびくっと身を震わせた。


 それは、二十を少し過ぎたばかりに見える、若い男だった。軍装ではない。軍装ではないけれど――若者はミナキと同じように、長い腰布を巻いている。男が腰布を身に着けるのは、ヒョウ人の風習だ。若者の姿に見覚えがあることに、ミナキは気づいた。


(あの人、確か――)



 朝餉の時、両親が話していた薬売りに間違いない。若者に向けて、ミナキは叫んだ。


「助けて! 助けてください!」


 若者は近づいてくると、異国語で兵士たちに何かを話し始めた。兵士たちが同じ言葉で何か返答している。兵士たちの言葉は高圧的な上に、どこか下卑ているように、ミナキには感じられた。


 若者はため息をつくと、まっすぐに兵士たちを見据え、短く何か言い放った。ミナキの肩を掴んでいた兵士の手が弱まり、だらんと垂れた。ミナキが思わず兵士を振り仰ぐと、彼は虚ろな目をしている。もう一人の兵士も全く同じだった。


 若者がもう一言告げると、兵士たちは真後ろに向きを変え、もうミナキには何の関心も示さずに、丘を下っていった。


「大丈夫かい?」


 若者にニギ語で声をかけられ、ミナキはようやく、助かったことを実感した。あの兵士たちが、どうして突然去っていってしまったのかは分からない。しかし、それはこの名前も知らない若者が、兵士たちに何かを言ってくれたおかげだということは分かった。緊張が残ったままのかすれ声で、ミナキは礼を言った。


「――あ、ありがとうございます」


「君、トビ村の()だろう。何度か見かけたことがあるよ。……怪我はないかい?」


 若者が近づいてきた。落ち着いてまじまじと見ると、今まで気にも留めていなかったのが不思議なほど、彼は眉目秀麗だった。すらりとした中背の体躯に、どちらかというと中性的な面差し。少し伸ばした色素の薄い髪と瞳が、色白の綺麗な顔立ちに、よく映えている。首から下げた金の鎖が、太陽の光を反射して煌めいた。


 確かに、母が言っていた通り、父よりずっといい男だ。


 一瞬、ミナキは彼に見とれてしまい、この非常時にそんな調子の自分が恥ずかしくなった。ミナキの様子には気づいていないようで、若者は視線を下げて、こちらの足元を見つめる。


「痛そうだね。無理をして走ってきたんだろう」


 そう言われて、ミナキは初めて足に痛みを感じた。見ると、つまずいた時に引っかけたのか、裸足の指先に赤い擦り傷ができている。傷には土もこびりついており、酷いありさまだった。


「どれ、診せてごらん。放っておくと化膿してしまうかもしれない」


 ミナキの返事を待たず、若者はしゃがみ込んだ。ミナキは最初、若者は背負った大きな荷物から薬を取り出して、傷を治療するのだろうと思った。しかし、彼は患部に手をかざすと、異国語を呟き始める。


 次の瞬間、ミナキの足に水が一滴、したたり落ちた。次々と現れた水滴はひとつの細い流れにまとまって、小さな水流となり、勢いよく傷の汚れを洗い流す。汚れが消え去ると、傷口は温かな白い光に包み込まれた。あまりに不思議な現象に、ミナキは言葉を失った。


 やがて光はじょじょに消えていった。あとには、傷の塞がったミナキの足があるだけだ。


「どうだい? 綺麗に治ったろう」


 若者の声に、ミナキは我に返った。森の向こうに住むという魔法使い。その言い伝えが頭をよぎる。彼が魔法使いならば、兵士たちが奇妙な様子で立ち去ったことにも納得がいく。ミナキは思わず尋ねた。


「――あなたは、魔法使いなんですか?」


 若者はすっくと立ち上がる。


「その呼び方、久しぶりに聞いたよ。まあ、そんなところだ。……他に怪我はないかい?」


 ミナキは首を横に振った。全力で走ったせいで足は傷んだものの、そんなことを言っている場合ではないことを思い起こす。


「わたし、村に帰らないと……村が異国の軍隊に占領されて……」


 ミナキが言うと、若者は丘の頂まで駆け、村を一望した。ミナキもそのあとについていく。村の様子は、先ほどとあまり変わっていなかった。ただ、村人たちが兵士たちに追い立てられながら、田んぼのほうに歩いていくのが見えた。


 若者はしばらくの間、黙り込み、振り向かずに言った。


「……あれはヒョウ軍だ。村に帰ってはいけない。帰ればきっと、さっきと同じような目に遭う」


「じゃあ、どうすればいいんですか!?」


 泣きそうな声でミナキは問いかけた。若者はミナキに向き直り、静かに答える。


「ヒョウ軍は村人に稲の刈り入れをさせて、それを糧食として略奪する気だ。それが終われば、おそらくどこかに移動するだろう。それまで、森の中に隠れて待つんだ」


「でも、その間に、村の人たちは酷いことをされてしまうかもしれないわ! あそこには両親と弟がいるの! わたし、帰ります!」


 ミナキが叫ぶように訴えると、若者の栗色に近い瞳が、まっすぐにこちらを見つめた。


「それでも、君だけでも生き延びるんだ。あれだけの大人数が相手では、わたしにはどうすることもできない」


「そんな……」


 そう口にしながらも、この人のいうことが正しいであろうことは、ミナキにも頭の隅では理解できていた。


「……すまない」


若者は真摯な眼差しで告げると、森に向けて歩き出した。立ち止まって、促すようにミナキを振り返る。


(――皆、ごめんなさい――)


 ミナキは身も心も引き裂かれそうな気持ちになりながら、他にどうしようもなく、彼のあとを追った。

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