71 不在の刃は鬼を刺すか
ただ強いだけならよかった。
ただ単純に、自身では勝ち目のないほど強大理不尽で、理解もできないほどの強さならよかった。
しかし同線上だから、その強さを誰より理解できて知悉していたから。
――だからなにより絶望なんだ。
夜が更けるのを待ち、烈火はトトの爺様に断って部屋を辞す。ここでなにも言わずに出て行くと、後々こじれそうだしな。もしも『不知』を使ったら、逆に怪しまれる。さっきまで存在し、気配もあった奴がいきなり消えるなんておかしいのだ。
なので言い含め、部屋のドアを閉めた段階で『不知』を使う。
既に宿の廊下は真っ暗で、眼球が暗闇に慣れるのに数秒を要した。月明かりが窓から差し込んでいてだいぶ助かる。電気もないのだ、光を上手く取り込めるような工夫がされているのだろう。完全に暗闇でなければなんとか行動はできる。
床はやはり歩くだけで軋み、物音がする。今までのギルドの宿は全てそうだったし、やはりわざとか。『不知』中の烈火には関係ないが。
凍えた夜の闇の中を、烈火は足音鳴らして進んでいく。響くはずの足音は、しかし烈火以外には聞き取れず、空気の震えも届かない。
「…………」
少しだけ、本当に音が漏れていないのかと烈火は不安に思った。ちゃんと『不知』が稼働しているのか不安に陥った。
夜は人を不安にする。日が落ち、肌寒くなり明かりが失せる。心細さが倍増する。それでなくても、これから強大なる敵対者へと暗殺を仕掛けるというのは莫大な心労となる。夜闇に紛れ、寝込みを襲うために夜を選ぶというのは理にかなった時間設定だ。だが、殺害側の心までも黒い闇に苛まされて痛みを負うとは想定外だった。やはり未知の体験は不測の事態を生じさせる。暗さは不明を呼び込む。そして未知や不明が、また不安を掻き立てて心が悲鳴を上げる。
それでも、やると決めた。感情も理性も、ここでなすべしと判断している。些細な不安感に惑わされてやるべきことを疎かにしていては、結局また巨大な負債を負うだけ。
その足で【武闘戦鬼】の寝ているであろう部屋へと忍び込む。まあ忍び込むと言っても、部屋の場所なんか知らんのだけども。なので一部屋ずつ調べる必要がある。どこから行くか。
「…………」
上の階からにしよう。馬鹿と煙は高いところが好きというし。
ともあれ最上階、四階の奥部屋から。音の鳴らないようにゆっくりとドアを開く。それでも軋む蝶番の音がするのは、油を差していないからか。細かいとこでケチるなよ。あ、いや、こういう暗殺の際に気取れるようにわざととかもありえるのか。
それでも神の力の前にはなんらの効力も発揮しない。『不知』は術者と関連する音すら知らせず不明とする。
少しだけ開いたドアの隙間から、部屋の様子を確認。特にベッドへと目を向けて……別人。静かにドアを閉める。次だ。
手早く繰り返して三階、二階へ。そして同じ行動を繰り返し繰り返して――あれいないぞ?
一階には宿部屋はないはず……本当か? 【武闘戦鬼】に圧倒されて見逃していただけではないか? 最も遭遇率が高くて足早に避けていたからスルーしてしまっていないか?
半信半疑ながらも一階へ。
部屋はあった。階段の陰に隠れて見えづらいかったが、存在した。しかし上階ではなく一番下の階とは、アテが外れたな。どうやら馬鹿ではないらしい。脳筋単細胞ではあるだろうが。単に部屋が空いてなかった可能性もあるが、どうでもいいか。
一層気を引き絞って、細心の注意を払って扉と対する。開き、確認し、閉じる。だんだん、強者っぽい奴らの部屋が多くなってきた。【武闘戦鬼】のお仲間、「戦鬼衆」とやらだろう。
そのせいか一枚ごとに緊張感が増していく。心臓が徐々に鼓動を加速させていく。冷たい汗が滴って、拭わないと床に落ちてしまいそうになる。落滴の音でさえ、『不知』が覆い隠してしまうのだけれど。だからって油断はできない。してはいけない。
神様能力を使うのはいい。だが、無闇に頼ってはいけない。それを当然と思ってはいけない。そもそも烈火は人間で、人間にそんなことができるはずがないのだから。
だからこそ、この緊張感は正しい。絶対にバレるわけがないと高をくくって余裕綽々の顔で暗殺業なんて、遠からず死するに決まっている。烈火はプロでもないのだ。
まあ手が震えるような間抜けも許されないけれど。そこは玖来流の身体操作で誤魔化せる。
さて――最後の扉だ。
どうして最後になってしまったのか。それだけ運が悪いのか、勘がふるわなかったのか。
違う。本能的に避けてきた。わざと気付いて避けていた。それで変に理由をつけて後回しにしていたのだ。
おそらく一階に訪れた時から、烈火の深い部分では理解していた。この部屋に最も恐ろしいなにかが存在すると。この扉はなにがあろうとも開いてはいけないのだと。
「…………」
大粒の汗の滴が、頬を伝い顎へと流れ――床に落ちる。
ここにあるだけでプレッシャーを感じる。扉越しでも威圧される。恐怖を、烈火は感じていた。
鬼が出てきて蛇も逃げる。烈火も逃げ出したかった。明日にしてもいいじゃないかと弱音が走る。部屋の特定だけでも収穫はあったしいいだろうと腰抜けた思いが巡る。後ろで七が心配そうな顔をしていなかったら、実際に逃げ帰っていたかもしれない。
だが、もう心配はかけまい。烈火の強い姿を見せてあげたい。
意地にも似た思いで、ドアノブを掴む。少し乱暴になってしまったのは、震えのせいか。気付かないふりをして捻り、ドアを開く。隙間をこじ開け、滑り込むように忍び込む。
その部屋は今まで見た内装となんらの変わりもなかった。普通で、今日の侵入だけで見慣れた様相。
ただひとつ違うのは――ベッドの上にて眠る猛獣か。
黒い髪に黒い瞳――は閉じてるからわからないが、たぶん間違いない。【武闘戦鬼】である。そういえば顔はちゃんとは拝んでなかったが、どうも子供っぽい面構えだった。寝顔だからか、それとも童顔なのか。野生育ちの子供、といった印象が烈火にはあった。
まぁ、童顔だからって、それでなにがどうでもなく、恐ろしいことに些かの変化もないわけだが。
「……はァ」
熱い息を吐き出す。体内の恐怖を外へと逃がすように。無論、そんなことで震えのひとつもやまないが。
一歩ベッドへと近づく。なにも起こらない。最悪の想定では、突如眠っているはずの男が飛び起きてニタリと笑うというものだったが――見ればしっかり爆睡している。大口開けてイビキもうるさく、だらしない。普通のガキみたいだ。もしくはオッサン。ていうかおい、腹だして寝ると風邪ひくぞ。それとも鬼は風邪ひかないとか?
駄目だ、油断するな。すごくアホっぽくてだらしなくてガキっぽくてオッサン臭くても、こいつは【武闘戦鬼】。恐ろしい武の鬼である。僅かの不備が命取り。
慎重に、気付かれないよう、集中して。
烈火は小剣を取り出し、握り締める。普段とは違い逆手に持って、左手で柄を押さえるように構える。おそらく上から刺し殺す際には最も力と体重をこめられる持ち方。
剣先を狙い目へと添える。それは眼球、瞼。肉がなく阻害が薄く、骨にも掠らずズレぬよう、眼球突破の脳髄だけを狙う。できれば即死させたい。目覚めることなく永眠してほしい。それが最も危険性の少ないやり方だから。
「…………」
刃は添えた。構えた。後は振り上げ、体重乗せて力の限り振り下ろすだけ。
その手はもはや震えていない。本番で手元が狂うような愚かはしない。だが心は未だに恐れを抱く。弱音が溢れそうになる。人殺しの抵抗感と相まって内心はグチャグチャだ。
一度瞑目する。己を説得するように、呪文のように脳内で言葉を繰り返す。
――おれは【不在】。おれはいない。いないから死なない。殺されない。
そう、どれだけ強くても関係ない。どれだけ強大でも意味がない。
それをぶつける必要性を持たない限り引き金は引かれない。引き金に指をかけずに銃は撃てない。拳は握らなければ凶器にならない。おれは殺せない。
見えない、聞こえない、知れない――そこにいない。
故に警戒できず、恐れることもできず、気付くこともない。それはつまり無防備ということ。
どんな強さも無防備な身では用をなさない。力を抜いて、気を抜いて、まさか不可知の存在に忍び寄られているなどとは夢にも思わず熟睡している。
きっとおそらく、こうして眠っている男は、まともにやり合えば勝ち目のないほど化け物だろう。強くて恐ろしくて膨大だろう。だがもはや関係ない。どうでもいい。無意味極まる。
人間――殺せば死ぬのだから。
烈火の瞳から熱が失せていく。身体中から感情が薄れていく。まるで人形か、機械にでもなったような能面となる。
ただ既定の行動をする。入力したことを出力する。全く無感動に刃を振り下ろす。急所致命極まる絶命の点へ――刺す。
そして――
――ぶっとばされた。
――気付けば烈火はどこぞの家屋の壁に激突していた。
気絶はしていない。意識は克明。だが、心はほとんど停止している。放心している。
(なにが……起こった。どういう、わけだ……)
意味がわからない。わけがわからない。
わからない、わからない、わからない。
烈火は確かに小剣を振り下ろした。そしてのその鋭刃は吸い込まれるように【武闘戦鬼】の瞼を刺して――弾かれた。
振り下ろした刃が、薄い皮膚すら裂けずに止まってしまったのだ。金属にでもぶつかったかのような硬質な感触が、剣を通して烈火に伝わって。
――ぶっとばされた。
なにをされたのか。たぶん殴られた。いや、おそらく【武闘戦鬼】側の感覚で言えば、邪魔な蚊をはたいたくらいの何気なさ。力もこめず、適当な寝ぼけたままの軽い動作。というか『不知』中だ、殴ったことすら気付かず【武闘戦鬼】は未だに寝こけているだろう。
それで烈火は宿屋の壁を突き破り、外へ飛び出し付近の家の壁にまで飛ばされた。なんて規格外の怪力か。
一応、自分からも飛びのいて威力を削いだつもりだったが、全身の苦痛は免れない。骨が数本イっちまったぜ、とかは言わないが、傷めたかもしれない。ちょっと吐きそうだ。
「ち、くしょ……」
だがそんなことよりも問題なのは、刃が通らないかったということ。
人体の皮膚だというのに鋼のように硬く、振り下ろした刃が容易く弾かれた。烈火の攻撃手段が小剣しかない以上、あらゆる攻め手が意味をなさないということだ。
玖来 烈火ひとりでは――絶対に勝ち目がないと、そういうこと。
「ちくしょぉ……」
結局そうなのか。所詮この程度なのか。
人間がどれだけどう頑張ったって、神様のお恵みした力には太刀打ちできないものなのか。人の生んだ武具も、人の編み出した武術も、丸きり無意味に踏みにじられるだけなのか。
それは、あぁ畜生め、悔しい。悔しいじゃないか。
烈火の十八年の歳月など、神の力の前に無価値と決め付けられたようなものだ。烈火の才能も、努力も、歳月も、全部ひっくるめてツバを吐かれた心地である。
だって相手は寝いてたのに、意識すらなかったというのに、こっちの刃を受け付けず、返しの適当な所作でボロボロになっている。
勝てるわけがない。子供でもわかる。馬鹿でもわかる。畜生。畜生。
「玖来さん……」
七の掠れ切った声にも応えてやれそうにない。どんな顔をしているのか、見てすらやれない。
烈火は歯を食い縛って口を閉ざした。開けば馬鹿なことを口走りそうだと思ったから。
ちかりと光るなにかが見えた気がして、見上げればそれは月の照らす不粋な覗き見。『不知』を使った烈火でも、きっとお月様には一部始終の不様を見られていたんだろうなと思う。
「かっこわりぃの……」
あんなお月様にこんな醜態を覗かれていたと思うと、ああ首を絞めてお星様になりたくなってくる。
なぁ、だからさぁ、おれのお月様よぉ。
「泣くんじゃねぇって、頼むから……」
「ひっく……だって……ぐす、だってぇ……」
失敗に失望しろよ、不様さらしてんじゃねぇって罵れよ。なんでそんなくしゃくしゃな顔してんだ。ああもう馬鹿野郎……こっちまで泣きたくなってくるじゃねぇかよ。
悔しさと不甲斐なさと、七の泣き顔に――烈火はたった一粒だけの落涙を、己に許した。
――【不在】の涙は、きっとお月様すら知らない。
――なにせその瞬間は、ひとりの少女が隠してしまったのだから。
――まさしくまさに【不在】の通りに、その涙の存在は、ふたり以外には存在しない。