66 はじめの一歩
第三大陸ケルフ。
そこは亜人たちの住まう大陸であり、その面積は三番目に大きい。というかおおよそ、大陸に付された数字は広さの順列と等しい。例外は第四大陸。ここだけは第七大陸に次いで二番面に狭い。あとは数字通り。
第三大陸に多く住まうのは亜人の中でも獣人と小人。そのため大陸の半分は獣人の住まう森林であり、もう半分は小人たちが長い年月をかけて耕した農地である。世界の農作物の半分以上はここで作られ、他大陸へと輸出されている。小人は農業が得意で、獣人は運び屋として優秀だった。さらに言えば土地もいい。平地が多く、河も多い。気候も温暖、土地も肥沃。
まるで神が農耕せよと告げて授けたような、そんな大地なのである。
「…………」
ちら。
「…………」
ぷい。
否定しないのかよ。まあ、おそらくこの大陸のお陰でこの異世界は飽食なのだろう。地球からやって来た玖来さんも、すぐに面倒もなくオマンマにありつける。そこは本当に助かったけど。やって来て餓死とか嫌すぎる。
「では、このへんでよろしいですかね」
「うむ、助かったぞ」
「世話になりんした」
烈火ら三名は一週間の馬車移動の末、ようやく目的地である第三大陸に上陸したのだった。
馬車の御者さんに礼を言って別れ、すぐに傘は懐から護符をとりだす。たしか《遠伝》の魔法を刻み込んだ紋章道具らしい。予定通り無事、到着したことを学園に知らせるのだ。
傘が報告している間に、トトの爺様が烈火に歩み寄り、小声で話しかけてきた。
「護衛殿、ここからは護衛殿の領分ですじゃ。どうか頼みましたぞ」
「はい、がんばります」
ちょっと機械的に受け答え。上手く安心を提供できるような言葉は思いつかない。どうも年寄りは苦手だ。うちのジジイのせいだろうか。学ぶ点は多いんだけど。
こうして、さりげなく烈火に護衛としての自覚を促すのも大切だろう。それも依頼人には聞こえないように、気付かれないように。守られる側を不安にしてはいけないのだ。
気遣いにさりげなさ、か。烈火に足りないものだろう。
「報告は終わりんした」
「うむ。では嬢」
ついつい先ほど烈火に向けていた声音とは違う。この一週間ほど常にあった好々爺然とした風情とも違う。引き締めた、討伐者としての声。
「これより先は本当の意味での安全は存在せん。橋を一歩出れば、それは魔物の巣窟。いかにわしや護衛殿がいるからとて、確実に嬢を守れるとは断言できぬ」
「……」
「この先すぐに町がある。橋の傍の町は往々にして大きい、辿り着けば安全じゃろう。じゃが、ここから町まで徒歩では一時間ほど、魔物の出没頻度を考えれば、二度ほどは遭遇するかのぉ。最低で考えても二度、命の危機が襲い掛かるというわけじゃ」
「……うむ」
トトは事実を言っている。トトは事実しか言っていない。誇張はなく、虚構はない。
過酷な外の世界に出るのなら、覚悟なくば立ち行かない。
「魔物は常に活動している。人を狙って舌なめずりしておる。寝ておっても完全な安全とは言えぬ。暗闇の中の物音で震えて仕方ない。安心のベッドの中でぬくぬくと眠ることすらできんかもしれん。
――それでも行くかの、嬢?」
トトの言葉に、傘の瞳が僅かに揺れる。
安心という今まで慣れ親しんだ友が、ここからは決別せざるをえない。場合によってはあっさりゴミのように死に果てるかもしれない。迷って当然、躊躇って当たり前。
今、踏み締めている橋。これから一歩離れて第三大陸の地を踏めば、それで死という恐怖が這い寄って来る。常に隣にあったそれが、人生で最も色濃く笑う。
傘は俯いて黙る。ここまで明確に説明され、脅されたのは流石にはじめて。トトはわざと追い込んでいる。ここでやめるならそのほうがいいと、経験上知っているのだ。無知のまま放り込んで無理に慣らすのもありだが、それは少々可哀相だと思ってしまう。
先に覚悟を問うてくれる辺り神様よりも有情だなぁ、と烈火は思った。
「一思いに放り込むのも一種の優しさだと思いますけどねぇ」
一理なくもない。そこは個人の考え方かね。
ともあれ、ここは傘の覚悟の問題。この遠征への本気度とか、見据えているものへの真摯さとか、考えて決意するのは鬼の少女なのだから。
烈火は黙ったまま、ただ迷う傘へと応援の視線を送るだけ。できることはない。腰が引けてやっぱりやめるでも別にいい。なにも言うまい。
不意に、傘は少しだけ顔を持ち上げ、角による髪の分け目から烈火を見た。
「?」
なんだろか。なにかしたっけ。それとも答えを烈火に求めているのか。どうしようかという相談にも似た要求だろうか。それにしては瞳は定まっていて、縋るような卑屈な光には見えない。
むしろ、こう、見ていてほしいと言うような。自分の頑張りを、しっかりと覚えてほしいという意志が感じ取れる。いつかの七のように。
考えている内に傘は決断したのか、顔を上げて真っ直ぐにトトを見返す。その表情に迷いなど一切見受けられない。
「無論、行くとも。わっちゃあ退きんせん」
そして、己が意志を行動とする。
橋から、一歩踏み出す。第三大陸へと上陸する。
これで傘はいつ魔物に襲われてもおかしくはなくなった。結界の守りもなければ、安全の保障もない。
トトはそれを見て、しわくちゃな笑顔を作った。今までの厳しい物言いなどなかったかのように優しげに。
「そうか、ならばよい。それでよい。ただし後悔はせんようにのぉ」
「うむ」
そして一行は木々の狭間の道を行く。
割と舗装されていて、道幅も広くて踏み均した後が濃いのは、ここが神代の橋という人の集まる場所の近くだからだろう。付近の町――現在三人の向かっている人里も、相応に大きいはずだ。貿易の際に橋付近の町は人が増えて大きくなるものだから。
つまりこの道は主要道。この世界においては上等の道だ。
それでも魔物は襲ってくる。木々が近く、少し道をズレて行けば森林に迷い込むことになる。それはこの第三大陸の半分が森に覆われているから。他大陸よりも樹木草花が多いのだ。
その分、第三大陸では木陰や葉の合い間から襲い来る魔物を警戒せねばならない。それが舗装された道であっても。
「歩いておる時は常に周囲の警戒をするのじゃぞ。いつどこから魔物が襲ってくるとも知れぬ。しかしずっと気を張っていると疲れてしまうでの、適度に気を抜く。矛盾しておるようじゃが、それが肝要じゃ。気を抜いた警戒心。当たり前の気負い……難しいがの」
トトがそのまま気を抜いたように喋って教える。無論、その警戒心は一切手抜かりないのだから老獪だ。
話すくらいの余裕は烈火にもある。びくびくしてても仕様がないという開き直りも混じっているが、開き直りも悪くはない。そう教える。
「おれとしては索敵能力がある仲間がいるなら任せてもいいと思うぞ。おれとか結構、その方向ではある程度やれるし。勿論、自分が向いてるなら率先してほしいが」
「むぅ。わっちは索敵には向かんのぅ」
「そうか。ま、基本的におれが探っとくが、一応経験だ。耳を済ませて目を凝らしてみろ」
「承知した」
と、そんな会話から十分も待たずに烈火は天を仰ぐ。まさか前振りになってしまったのかと嘆くように。
それからちらとトトの爺様に目線をやる。細い糸目はわかりづらいが、向こうもこちらにほとんど同時に目を向けていた模様。気付いているな。流石だ。
続いて無言のまま傘に目を飛ばす。傘はきょろきょろと周囲を見眺めてはいるが、その仕草に変化はなし。気付かないか。
別に試験をしているわけでもない。烈火はさっさと報告する。
「傘、魔物来たぞ」
「むっ、え? 本当か?」
「あぁ、右側から静かに近づいてきてる――っておい、必要以上に目を向けるな。挙動不審になるな。声も潜めろよ」
「どっ、どう、どうするんじゃ」
すわ戦うのか、と傘は腰元の刀に震える手を向ける。父親と同じで刀遣い。まあ、教わったのか。
感想を抱きつつ、首を振った。
「戦うのは最後の手段な。討伐が目的でないなら、できるだけ魔物からは逃げたほうがいい。で、今回はギリギリ逃げられると思う。走るぞ。爺様もそれで……」
「よい。最善じゃろう」
「ありがとうございます。じゃ、走れ」
「うっ、うむ」
即刻ダッシュ。
道を伝って走る。駆け出す。一直線。
傘はともかく、トトの爺様も全く平然と疾走している。烈火は殿を務めながらも少し驚いた。全速全開というわけではないが、それでも烈火の前を走るとは。やっぱ種族の差だろうか。ううむ。
呑気な考え事の間にも、トトは注意を促す。というか爺さん本当に小言多いな。
「嬢、できれば走る際にも足音は最小にの。慌しいと魔物が興味を示してくるでの。あと小枝や落ち葉があったらなるべく踏まぬようにの。痕跡を残す」
「え、そこまででありんすか? というか走るのに足音を消すとはいかにすれば……」
「体重を分散させるような感じ」
短くアドバイスしてみるが、この場での改善は望めまい。こんな一言でできれば天才甚だしい。
それでも努力はしているのか、ちょっと走力が落ちる。後ろに控えている分、わかりやすい。この程度の減速なら追いつかれないか、と判じて烈火は指摘はやめておく。代わりに別ごとを。走りながら喋るのは疲れるが、これも仕事か。
「走りながらも後ろばっかに気を割きすぎるなよ。左右とか前方にも他のが現れるかも――って、うわ」
「むぅ」
「なっ、今度はなんでありんす」
「道の先になんかいる。先行してる旅人ならいいが」
「魔物の可能性が高いじゃろうな。人がよく通るということを学習したかの」
やれやれとトトは肩を竦める。走行中にそんな細やかな仕草をしてのけるのは実は凄いだろ。どうでもいいが。烈火もできるが。
それよりも前の魔物のこと。このままでは挟み撃ちにされる。そして前の魔物を避けるには道から外れないと無理で、それをすると森の中という危険地帯。回避は諦めたほうがいい。では戦う。しかしとなると、前方の魔物とやりあってる内に後方の魔物に追いつかれる。
ならば即殺か。
「爺様は確か言声魔法:詠唱派でしたね」
「そうじゃ。走りながらはちとこの老骨には厳しい」
「ではおれが前にでます。後ろは頼みます」
言って、烈火は少し加速。トトは数瞬だけ減速して、最後尾につく。短い付き合いだが、スイッチは上手くいった。爺様が合わせてくれたのかな。
さて、と烈火は左の小剣を手の平へ。ちらと目線だけを傘に向ける。
「傘、お前に戦ってる勇ましい姿を見せられなくて悪いが、先行して極力手早く殺す。いいな」
「それがぬしの判断ならば」
「よし」
傘の同意とともにさらに加速。
足幅を広げ、足の回転を上げ、跳ねるように疾走する。
数十秒たらずの全力疾走で、視界に影。道の真ん中に蜘蛛の下半身した人型っぽい胴体の魔物が。蜘蛛人間?
見えた段階で手にもつ小剣を投げつける。正中線からわざと左側にズラして投擲する。アラクネは胴体だけ捻って小剣を避ける。直後に六本足がばたばたと動きだして烈火に向かってくる。その走り方はまさに虫で、そのくせ割と速い。おぞましく気持ち悪い。
烈火は投擲し終えた段階で右手に小剣を握っている。左手は印相を結んでいる。
――“無掌・〈火霊指・龍爪指・弓指・剣指の天〉・槍指の裏・角鬼指の裏・弓指の裏・剣指の地・鎚指の表・弓指の地・槍指・槍指の裏・〈魔杖指の天〉・龍爪指・槍指・小鎌指の表・弓指の天・獣牙指・鎚指の地”
アラクネが全身でタックルかまそうとする。押し倒して踏みつけようとする。下敷きにされたら蜘蛛の下半身になんかされて死にそう。
なので接近お断り。
――“《鎚指の天・風霊指の地・風霊指の天・剣指》・祈掌”。
発動した《瞬火》の魔法が顔面を焼く。たいしたダメージにはならないが驚いて叫んで隙を晒す。足がもつれる。
そこを――斬る。
初手で左側へ攻めたぶん、ほんの無意識レベルで右寄り。故に右側の斬撃は避けがたい。首の右半分、斬断する。
「kkkkkkkkkkkkkkkk――!」
苦鳴なのかなんなのか。知らんが容赦はない。いつの間に手元に帰還していた左の小剣が、再び煌く。投げられる。アラクネのノドを貫き――そこで死亡。灰となって風に消える。
烈火はもう一度小剣を回収しつつ、周囲を警戒。後方から寄る足音以外には、特に気配は感じない。
「はぁ」
ひとつ息を吐き出し、烈火はふと気になってポケットから討伐者用のギルドカードを取り出した。記載を確認――おお、アラクネBランクだったか。
当初、異世界にやって来た頃にはCランクと接戦していた。今ではBランクを瞬殺できるようになった。慣れと経験がほとんどだが、烈火も成長しているなぁ、とシミジミ実感したのだった。
――まあ、あのひとりの頃とは違うわな。思いなおしていると、傘とトトはすぐに追いついてきた。烈火は流れに乗って並走。すぐにトトが横目で問い。
「魔物は?」
「討伐しました」
「……ふむ、そうか。ちなみにランクは確認したかの」
「Bでした」
この短時間で、個人の手で、Bランクを、か。カードの確認までする余裕があったとは、なかなかどうして侮れない。
これなら。
「これならやはり、逃避はやめますかのぉ」
「え、どうしてです」
烈火が少し驚いて、傘も討伐者ふたりの会話に口は挟まないが驚く。
トトは走りを緩めつつも、烈火を杖で指す。
「おぬしが思った以上に強いようじゃでの。どうせなら嬢に経験を積ませるためにも実際にやりあったほうがよいかもしれん」
「はあ、一理なくもないですが、ちょっと危険では?」
「もうひとつ理由はあるぞ。後ろの魔物、これだけ逃げても一切諦めん。そして撒けぬ。こりゃ執念深い輩じゃろうて、体力が尽きるまで走っても追走してくるやもしれん」
魔物の体力は人外。無尽蔵とも言われている。体力勝負は不利、というか頭が悪い。
だから追跡者を撒くのを断念して、討伐してしまったほうが手っ取り早いのでは。
「どうじゃ、護衛殿を前に出して、嬢が後衛から助けるという形で、一度戦ってはみんか」
「……やってみよう」
傘がいいなら烈火に否はなし。
停止、反転。仕舞った刃を再度手へ。走り迫る魔物を待ち受ける。
「護衛殿、無理でない範囲でトドメは刺さぬようにの。じゃが危なければ即刻片をつけて構わん」
「了解しました」
「そして嬢、わしがタイミングを伝えるでの、おぬしは魔法の詠唱じゃ」
「承知した」
相談を終えた頃には足音が近寄る。二足じゃない。音が多い。四足でも足らない。音が多い。速く速く、そして足が多い。多足の巨大トカゲ。ワニみたいな、赤い怪物。
「あー」
やべ、ああいう系統の魔物は苦手だな。以前やりあったオークよりは小さいのがせめてもの救いか。
けれども弱音は吐けない。ビビッてもいられない。それにトドメは不要らしい。ならばなんとでもなるか。
さて、まずは足を止めてもらわないと困る。前衛担当はこのパーティに烈火ひとり。身を張って足止めするのが戦士の務め。
「ふっ」
呼気とともに小剣投擲。皮膚にはなんか弾かれる気もするから眼球狙い。猛進する多足トカゲは怯まず前進。回避の素振りも見せずに、代わりに大口を開く。九十度の直角の開口、その口は全て呑みこむ暗黒深遠の如き。小剣は吸い込まれるように口腔内に飛び込み――閉口。ギロチンのように上顎は落ち、剣を飲み込んでしまう。
「んなっ」
呑みこむとかありかよ。引っ張ってみれば、噛み切られてワイヤーだけが帰ってくる。なんて野郎だ、剣一本もってかれた。
とか突っ込んでいる暇はない。トカゲは足を止めていない。そして背中から聞こえる声。傘の詠唱だ。
このままでは突貫される。ちょっと無茶しないとまずい。
感覚器はわからんが――少なくとも視覚はあるらしいし、目で追えよ。
だん、と烈火は横っ飛び。ある種、背中の者を見捨てるような暴挙。傘の詠唱が少し揺らいだ。トカゲも目線で追っている気もする。
烈火は着地、の瞬間に再度跳ねる。三角飛びの要領で離れた道へと戻る。
なんの意味が? 爆走する輩に正面から競うわけにはいかない。真っ直ぐ一直線の輩は横っ腹からド突くに限るってな。
そして飛び蹴りかます。
「ggg――!?」
前にばかり傾倒してちゃ横からは弱い。目で捉えても対応はできない。蹴っ飛ばして多数の足を止める。トカゲも踏ん張るが、バランスは崩れる。
蹴りの感触はぶよぶよと硬い。異様な感覚。ともかく打撃は効き目が薄そうだと感じる。やはりこれは烈火と相性悪い。
多足トカゲは首だけ振り返って開口閉口。烈火を喰いちぎらんとする。
よし、こっち向いた。止められたのではなく、烈火を喰らうために自ら止まった。
それを確認した段階で烈火は戦意を消して全力撤退。もはや烈火のすることなどない。強いて言えばあと一言か。
「爺様! 傘!」
「うむ、嬢」
「――《雷導》」
ふたりに応え、傘は水増し詠唱を終了。魔法を撃ち出す。
ばちりと、火花が弾かれと思えば――〈雷〉撃は〈導〉かれるようにトカゲへと奔る。そして痺れて感電、黒焦げ。消滅。
「ひゅー。父親譲りの電撃か」
学生でこれか。怖いわぁ。おヘソ隠しておかないと。