iv. 誰が人を救うのか
――少女は逃げていた。
命の危機だった。追撃者が居た。恐ろしいなにかが迫っていた。
だから力の限り逃げる。森の中、ただ我武者羅に走っては逃避していた。
「ハァ……ハァ……!」
木の根が少女の足を引っ掛け、草草がその裸足を傷つける。小石を踏んだだけで激痛が襲い、かわしきれずに枝に掠って血を流す。幾度も転んだ、膝は擦りむけ身体中が痛みを訴えている。息は荒れ、疲労が滲む。苦しい、辛い、泣きそうで、いやもう涙は零れている。
それでも少女は必死決死に走り続ける。死にたくないから。死にたくないから!
「たすけて……っ」
しかし所詮は子供の足。異形の物の巨体からして、遅すぎる。
不吉な音が激しく背後で鳴り響く。
振り返るな、理性の声も虚しく少女は咄嗟に首を動かしてしまった。
そこには恐怖の権化が笑う。多足を回転させて疾駆する巨大な虫のような獣。少なくとも首から下は虫で、首から上が唾液を撒き散らす肉食獣のそれだ。牙を輝かせ、大口開けて、血走った瞳が少女を睨む。
少女はわざと森深く、阻害となる樹木の多い方向へと走っているのに、魔物には無意味。突進だけで容易く木々を薙ぎ払い、直進で少女を狙い続ける。執拗に、エサを求めるように。
あぁ、そうか。少女は理解した。あの虫である獣の頭部、それは餓狼だ。飢餓に狂った狼だ。故に奴は諦めない。なにがあっても少女を喰らうまで追い続ける。
なんてことだ、少女は振り返ったことを後悔した。後悔はまたひとつ重なる。
「ぁ」
前を向いていなかった。足元への注意が逸れていた。木々の多く障害の多様な道だった。
当然、転ぶ。
浮遊感は絶望的なほどに心地よかった。一瞬、全ての拘束から解き放たれた気分を味わった。だが、それは同時に死出の解放感であり、全身を駆け抜ける戦慄と寒気である。
大地が少女を受け止めてくれるけれど、優しくはない。硬く、厳しく、少女を痛めつける。
全身が苦痛を訴え、咄嗟に立ち上がれない。踏みしだくような足音が迫る。獣の唸り声が近づく。涙が止まらない。
「たす、たすけて……っ」
それはこの世界で有り触れた光景。誰も知らず、しかし想像できて当たり前な――結界の外での末路。
誰もが戦う力を持つわけではない。誰もが勝利しえる相手と戦えるわけではない。この世は理不尽で溢れている。この世は敵対者で満ちている。
「たすけてっ、かみさま……っ!」
だから死なんてどこでも吐いて捨てるほどに散見されて、この程度の悲劇は特筆にも値しない。少女の叫びなど――
「――人を助けるのは人だろう」
轟音が掻き消した。
同時に虫である獣もまた、消滅してしまう。ただひとりの男の手によって、ただひとつ魔法によって。
恐怖に震えていた少女は、そのあまりにデタラメな事態に理解が追いつかない。なにが起こり、なにがあって、これはどういうことなんだ。
構わず、男は少女へと歩み寄りながらもひとりで勝手に話し続ける。
「運命や偶然、まして神の意志など……くく、アテにするものではないぞ。それは救いの手という名の戯れだ、同じ手でさらなる悲劇に突き落としかねん」
その姿は悪魔的で、その威容は魔人のそれ。恐ろしくおぞましく、嵐のように圧倒的。そこにあるだけで震えが止まらず、傍にあるだけで泣いてしまいたくなる。
だが、少女にとっては何より輝いて見えて、祈りの結晶たる救いの神であった。
「――というのがおれの見解だが、貴様はどう思う?」
だからだろう。黒衣の男の熱弁に対し、少女は酷くぼんやりと夢見心地で問うていた。
「あなたは、かみさまですか?」
「……人の話を聞かん童だな。いや、やはりおれの話し方は他者に伝わりづらいのだろうか」
先日、南雲 戒に言われたように。生前、誰かに言われたように。
であれば、まあ気をつけるべきか。人と話すなら、他者にわかるようにせねば意味がない。言葉とは、他者とのコミュニケーションツールであり、意志を伝える媒介。下手では己の思想思考が確とは伝播しない。
ほんの微かに落ち込みながら男は――荒貝 一人は言った。断じた。そこは譲れぬと。
「おれは人間だ。貴様と同じく、誰とも等しくな」
「わたしは、風霊種です」
「しかし人ではあろう。些細な違いだ」
この異世界には種族差別が驚くほどに少ない。歴史的にはあったが、現代ではそうそうありえない。神代の橋による交流が盛んで、第七大陸という混在の地がある故だ。なので冷遇された種族に暖かく接するだけで惚れた腫れただのはまずありえない。
まあ、それでも荒貝ほどに、ここまであっさりバッサリ断言はできまい。
呆気にとられていると、黒衣の中で唯一白い手袋が差し出される。
「立てるか、少女よ。怪我があるなら治してやろう」
「あ、りがとう……ございます」
「ふむ、礼を言えるのは良いな。両親がよい教育者だったのだろう」
そんな何気ない男の言葉に、少女は動揺した。手をとり損ねて俯いてしまう。
また言葉を誤ったのだろうか。荒貝は内省しつつも、少女の引っ込んだ手を掴んだ。無理にでも立たせ、顔を近づける。
「立て、そして俯くな。なにがあったかは推測できるが、まずは前を向くことだ」
「…………」
間近で直視する荒貝 一人の瞳は、どこまでも鋭く真っ直ぐで、燃えていた。なにかに怒っているような、なにかを目指しているような、逸らすことは躊躇われた。
どれだけかそうしていて、いつの間に少女は身体の痛みが消えていることに気がついた。知らない間に、治癒種の魔法をかけてもらっていたらしい。
驚いた顔をすると、男は制するように名乗りを上げる。
「おれの名は荒貝 一人。荒々しい貝で荒貝。一人と書いて一人だ。貴様はなんという?」
「わたしは、フェリです」
「姓は?」
「ナーティエ。フェリ・ナーティエ」
「ほう、よい響きの名だ。そこに願われた意味は残念ながら解せぬが、詩歌のように耳に残る」
少女、フェリは少しだけはにかんだ。名を褒められるのは、単純に嬉しかった。
荒貝はそれから懐から干し肉を取り出し、フェリにほうった。
「食え。やつれた身では話もままならんだろう」
「っ! ありっ、ありがとうございます!」
礼もそこそこに、フェリは肉へとかじりつく。よほどの空腹だったのか、あっという間に干し肉は胃に収まり、目端には涙が浮かんでいた。
荒貝はそれを観察し、およその自分の推論に確信を得た。
「それでだ、フェリ・ナーティエ。貴様は何故、ひとりでこんなところにいたのだ?」
「それは……」
「言えないか? ではおれが推理してやろう、相違があれば指摘してくれ」
どういう意味だ。フェリが目を白黒させても、荒貝 一人の口は止まらない。回り続ける、輪の如く。
「つい先日、付近の村がひとつ滅んだ。なんでも正体不明の集団に襲われたらしい。男は皆殺し、女は連れ去られた。まあ、規模が大きく大胆な点を除けばなくはない事件だろう。
おれはその村に、いや襲った集団に少々の興味があってな、先ほど滅びた村に寄ってみた。そこは説明するのも辟易するような凄惨な光景だったが、それより気に掛かったのは何者かの生活の痕跡だ。生活、というと和やかだが、生き残りの生き足掻きだろうな。己を除き全ての者がいなくなり、そこら中に死体と血が撒き散らされて、あぁおぞましく耐え難い空間だっただろう。それでも村の外、結界外に出て行くのは許されない。生き残ったということは抵抗せずに隠れていたということ、つまり戦闘能力などなにも持たない者だったからだ。そんな身で魔物の溢れる外界に出れば、まあ一日とて生き残れんだろうな。
だから地獄に留まって、奪われ残り少ない食料を食いつないで救出を待った。だが救援は来ない。食料は尽きて万策も尽きた。このまま緩やかに死ぬしかない。ならばいっそ地獄を抜けて嵐に立ち向かうというのは当然の思考回路だ。もしかしたら、万が一、魔物という名の暴風と出くわさずに人里に辿り着けるかもしれない。魔物が無数多数に生息するこの地においては零に等しき可能性だが、それでも緩やかな自殺よりはマシだと結界を越えて――案の定、魔物に襲われた」
「…………」
少女は話のいつからか、蹲って泣き腫らしていた。思い出したくもない現実を突きつけられ、悲哀と絶望に震えていた。
その反応に、荒貝は自分の推論の正しさを悟り、膝を曲げて少女に目線を合わせた。彼には珍しく、少々バツが悪そうだった。
「すまなかったな、少女よ。おれの勝手で嫌な記憶を思い出させた。だが、おれは貴様を探していた。生きる意志を絶やさず、最後まで足掻き続けた貴様という素晴らしき人間を」
「……っ、どう、して」
「理由はふたつだ。ひとつは言ったように、貴様のような強く勇ある者は死ぬべきではないと思ったからだ。生き延び、生を謳歌せよ。万難はおれが排そう」
友も両親も顔見知りの全てに至るまでが死に絶え、もしくは連れ去られた。
血の海と化した故郷で何日も夜を超え、たったひとり孤独に生き続けた。
気が狂うほどの地獄だったはずだ。死にたくなるほどの地獄だったはずだ。しかし少女は最後まで諦めずに生きて、生き残るために危険に飛び込む勇気もあった。
ああそれは、真に人たるに相応しい。荒貝 一人は村にてその推論を確立した時、むせび泣いて感動したものだ。そして、出会い推論が正しかったと判明した今も強く感激していた。冷静に見えて、彼は結構興奮していたのだ。
だが、そうした感情的な理由の他にも、打算の考えも含んであるのだから荒貝はしたたかだ。
「そしてもうひとつは――貴様の村を襲ったという集団について、話が聞きたい」
少女の口を軽くする、魔法の呪文を乗せて。
「――場合によっては、おれがそいつらを討ち取ってやろう」
女性だけの集団だったそうだ。
種族はバラバラ。地霊種、水霊種、火霊種、風霊種。少なく人間もいたらしいが、多くは精霊種。この大陸に多数住まう者たちだったという。
その集団は、それほど特出して強大ではなかった。連携に長けたわけでもなく、無敵の将が率いているわけでもない。だが恐ろしいほどに攻撃的で、容赦がなかったという。
なにより異様だったのは、その無関心具合。反撃にあって誰かが傷つき、死んだとしても無感動に攻撃を続けたらしい。身内を思いやることもなく、自身の傷さえも無視して進行する。
それは集団というよりも、個人の寄せ集め。バラバラに意思をもって、そのくせ自意識も希薄。
それでも戦闘に特化した人材の集まりであったらしく、防護も考えていなかった田舎村が急襲されてはひとたまりもない。
しかも村側は友がひとり死ねば動揺が駆け抜けるというのに、その集団は誰が死のうが喚こうがなんらの痛痒もない表情で攻め続ける。
隠れてそれを見ていたフェリは、それが恐ろしくて仕方なかったという。
だが、本当に恐ろしいものは――戦いが終わった後にあった。
「あー、やっと終わった?」
奇妙に耳に残る声でそう言って現れたのは、黒い髪をした青年だったという。
集団で唯一の男でありながら、他の全ての女性を傅かせた――見るからに集団の長である。
この惨劇を引き起こし、村を滅ぼした張本人。フェリにとっては憎き仇で、八つ裂きにしたいほど嫌悪するべき相手。
なのに、何故。
――フェリは遠目で見るその青年を、どうしても嫌いにはなれなかった。
わけがわからない。理性は殺すべしと叫んでいるのに、感情はありえないほど凪いでいた。
どうして、どうして、どうして?
自分の心のはずなのに、どうにも思い通りにならない。何故か空回りしていて、的外れな思いが湧いてきそうになる。
困惑していると、さらにわけのわからない光景が目に飛び込んでくる。
青年は、捕縛した村の女たちに優しく触れて――撫でた。
それだけ、それだけだ。たったそれだけで、女性の側に劇的な変化が起こった。スイッチが切り替わったように、怯えと恐怖と憎悪が――愛情へと反転した。それが見るからに理解できて、遠くからの観察でも克明に判断できた。
青年はさらに次々と村の女性に触れていき、心を変えていった。まさしくそう表現する他ない。しかも男はえり好みしやがった。時たま、女性に触れるのを躊躇い、別の仲間に指示して抹殺していた。フェリの母親も……虫のように呆気なく殺された。
風霊種は美人が多い。なので殺される女性は少なかったが、そのぶん盲目の恋に落ちた女性は多かった。
そしてそのまま青年は撫で回って、全て終えると彼と彼女らはその場を去った。
――ただひとり、村の生き残りであるフェリを残して。
「ふん、やはりか」
能力を知った段階で、そうではないかと思っていた。
噂を幾らか耳にした時点で、そうではないかと呆れていた。
やはり正しくその通り――第二傀儡【人誑し】は、どうも真性のゲスでクズらしい。
「おれは、あぁどうするかな」
荒貝 一人は、珍しくも義憤と誓約との狭間に揺れていた。