side.【運命の愛し子】その四
なんだあいつ、なんだあいつ、なんだあいつ!
戒は目の前に繰り広げられたファンタジーを現実として呑み込めず、否定を脳裏に並べ立てる。
だって、馬鹿な、ありえない。
戒は必死で脚を回す。全力で現実から逃避する如く、先までいた場から遠退くために走り続ける。
耳にこびり付いた言葉が内側から戒を掻き混ぜる。繰り広げられた命の奪い合いの光景が頭の中に閃いては恐ろしくなる。
そして思い出されるおぞましき光景、ありえない現実。
今日も昨日と同じく七番は宿から出てこない。これでは退屈だ。それに都市の端でぼうっと突っ立ったままって言うのは、今更ながら間抜けではないだろうか。
どうせ今日も外出しないんだろう。この引きこもり野郎が、この異世界がそんなに辛いか。辛いのだろう、運命も味方しないモブ野郎にはな。
くつくつと笑みを抑えていると――不意に意味不明が目に映る。
なにもなかった空間に、ずっと付け回していた男が現れたのだ。
「……は?」
つい間の抜けた声が漏れた。
すぐにあれがあいつのスキルのひとつなのだと思考が追いつく。
情報操作の能力で、自身の外装を迷彩したのだろうと予測した。こちらの視覚情報を閉鎖して見えなくする、透明ではない不可視人間。
そうだ、ただの予測通りだ。驚くことはない。誰もヒントすら持たない七番目のスキルを発見できたのだから、幸運を喜ぶべきなのだ。戒は自分に言い聞かせ、なにか慌てて叫ぶ七番の観察を続ける。
していると、七番はなにやら屈強な男と争いだした。
争いがはじまって逃げ出す奴らの声を聞くに、例の男は最近噂の通り魔らしい。戒は尾行ばかりに精をだしてて、通り魔の噂は知らなかったが、異世界だしそんなこともあるかと納得した。
しかしこれは都合いい状況ではないだろうか。
噂になるほどの通り魔だ、結構強いのだろう。七番を倒してくれるのではないだろうか。自分の代わりに、殺してくれるのではないだろうか。
それはとっても運がいい。まさしく『幸運招来』の文字通り。
つい、口端が吊り上ってしまう。なんてラッキーだ。手を下さずに勝利する。兵法でも書いてあることだ。読んだことはないけど。
戒の思惑はその通りになろうとしていた。
屈強な男は、戒の素人目に見ても完成していた。体捌きは鋭く、斬撃は重い。七番はその短い剣で抗っても届きやしない。完全に攻めを潰され一方的にじわじわと甚振られていた。ハメ技だ。格ゲーなどでよくあるハメ技だ。逃げもできず反撃もできない、死ぬまで続くそんな永遠コンボだ。
リアルでこんなことできるのか。そんな驚きと、自分の敵が始末される光景に、戒は半笑いで観戦を続けていた。
――流れる赤い血、迸る火花、命を賭けた殺し合いという非現実。それらを意識から外すようにして。
一方でブラウは険しい表情でその場と、眺める戒を口惜しそうに見遣っていた。
何故、お前はここであの戦闘に割り込むという思考に行き当たらない。思いつきすらしないのだ、馬鹿め。
現状、戦況はこちらの用意した信心深い男に傾いている。だが、予想以上に七番も奮戦している。そもそも用意した通り魔となった男はコロシアムにおいて勇名を馳せた一級の戦士だ。並みのAランク討伐者も対人戦に慣れていなければ殺し尽くせる人殺しを得手とする男だ。
なのに、七番はまだ生きている。剣を斬り結んで真っ向から戦っているのに。
そんなにも武技に優れた人間を選んだのかい、リラ。
してやられたと、ブラウは思った。四番目の無能力者を打倒できなかった、それはもしやこちらを騙し打つための芝居だったのではないか。今ならそう考えられる。
それだけ、今回の通り魔男はブラウにとっての切り札奥の手だった。この都市内で、ブラウのお告げひとつで動いてくれる最強の者だったのだ。
まずどんな相手でも、接近してしまえば打倒できる。そういう手合い。それができなくとも、戒が割り込んで諸共叩き斬ってくれればいいと思っていた。それが最上の想定であった。
戒は七番とは違い剣術や体術に秀でているというわけではない。そこは現代日本人の一般的な数値でしかない。
だが、彼には神剣がある。
戒は一度だけ地下洞窟に潜ったことがある。それ以降、怖くて入ることはなかったが、それでも一度だけあるのだ。
その時、彼は迷子になったと思ったら、偶然に魔物と遭遇することもなく、謎の剣を拾ったのだ。
その名を神剣「天叢蜘蛛剣」という。……天叢雲剣ではないので注意していただきたい。
千年も昔の第七大陸にて、天叢蜘蛛と呼ばれた巨大で強大な八本脚の蜘蛛型魔物が暴威の限りを尽くしたという。それを打倒するために神が人間に授けた剣だから、天叢蜘蛛剣という銘が刻まれている。ブラウはそう説明した。
戒からすればどこかで聞いた剣の名前な気がしてならない。だが、カッコいいからよしだ。
この剣と、そして彼に与えた三つのスキルがあれば、このへっぴり腰でもおよそAランクの魔物を一方的に打ち倒せるだろう。場合によってはSランクの討伐者や魔物とも渡り合えるかもしれない。
通り魔と七番がいかに優れた戦士であっても、不意打ちの横槍であれば充分に勝利はあり得た。
なのに戒は動かない。確かに七番の戦闘技術には驚いたが、殺せるのだ、戒ならば。殺せるのだ。
それなのに――!
己の傀儡の不様に優雅な表情すら薄れて、ブラウは苛立ちを抑えられない。
さらに苛立ちをブチ抜くほどの現実がブラウと、そして戒に顕現する。
――通り魔が倒された。
ハメ技で一方的に攻め優勢を保っていた、コロシアムで勇名を馳せた一級の戦士である、七番を殺す不幸が――負けた。敗れた。敗北した。
ありえない。
あの劣勢から、あの実力者に、逆転だって?
そんなのまるで――
「逃げても遅ぇぞ! 隠れたって絶対逃がさねぇ!! なにせ隠れるのはおれの専売特許だ! もはや安息はないと思え、いついつだっておれの刃がお前を狙うぞ!!」
「っ!」
遠雷のように轟く暴力的な声。敵を下したばかりなのに、未だ獲物を探す餓狼の咆哮のような叫び。
ただの言葉にぶん殴られたような衝撃を受け、戒は身を震わせた。
馬鹿げた強さを持つ敵を打ち倒した人間に、自分が狙われている。逃がさないと、殺してやると、傍で見ていることなどわかりきっているといった風情で宣言された。
先まで見ないようにしてきた血の赤や殺意の迸りを眼前につきつけられて、戒はたとえようのない恐怖に打ちのめされる。
――逃避し続けていた現実に、今追いつかれて肩を掴まれた。
思い浮かべる感情はひとつだけ。
「こっ、ころされ――っ!」
逃げなければ。逃げなければ殺される!
戒は震える脚を無理矢理にでも動かして、なんとかその場から逃げ出した。
どうしよう。どうすればいい。殺される。嫌だ。じゃあどうする。考えろ。馬鹿じゃないんだ、なにか考えろ。死ぬ、殺される。だから考えろって言ってる。殺される殺される。逃げる。どうやって。どうやって。殺される。
「……っ」
戒は毛布を被ってベッドに蹲る。狂ったように頭に言葉を並べ立て、無意味に苦悩を繰り返す。
怖かった。怖かった。
死ぬとか殺すとか、そんなのただの言葉の上だろう。ゲームだよ、全部、なにもかも。僕が死ぬわけがない。僕が殺されるわけがない。ありえない。だって――だって、
「……なんで?」
その理由が思いつかないことに愕然とする。
傲慢なほど信じきっていた自分が死ぬわけがないという事実が、今更になって揺らいでいく。根拠のない自信が涙のようにぽろぽろと零れ落ちていく。
自分と同じ境遇で、自分と同じ立場の人間が、人を殺した。そして自分を殺すと言った。
その衝撃は、思ったよりもずっと大きい。なにせ向こうもプレイヤーだ。このゲームはそういう趣旨だ。
戒のスキル上、選抜者ほどに明確な殺意をはじめから抱いていなければ、幸運の名の下に殺される心配はほぼない。まず戒に殺意を向ける、という段階に至るような輩は出くわすことすらないし、出くわしても確実に切り抜けられると神子に判断されたような奴だけだ。
選抜者ほどの執念がなければ、探し出すことも不可能。そういう手出しできない絶対安全を保障するのが『幸運招来』と『運命の見えざる手』だ。
その安全圏から異世界に翻弄される七番を眺めて、勝手に自滅していくのを観察する。それだけのはずだった。そういう力をわざわざ選んで、愚かな奴らの醜い争いを観測するだけの傍観者を気取っていた。
こっちはひとりで異世界トリップ楽しんでいるから、勝手に戦って死んでくれ。
僕は、僕だけは運命に遊ばれる立場じゃない。逆に操って馬鹿どもの不様を見下すのだ。
だってのに今のこれはなんだ。
「くそ、くそっ、クソッ!」
とりあえず寝泊りしていた宿は離れ、別に新たな宿をとった。七番が戒のねぐらを知っていた場合の対処だ。
それに対し、ブラウは控えめに言葉を添える。
「……向こうはアンタの顔も知らないんじゃないのかい」
「馬鹿かお前は。知ってるに決まってるっ」
「どうしてだい。どこでバレたって言うんだい」
「どこででもさ! 情報隠蔽で知覚から外れることができるんだぞ、僕の知らないあらゆる時に僕が見られていたかもしれないだろ」
暗闇を覗く時、暗闇もまたこちらを覗いている。ああ、あの言葉は本当だったんだ。監視しているつもりで、戒こそが監視されていたのだ。
「だがそりゃ可能性じゃないかい。第一、どこでアンタの顔を見られたって言うんだい。アンタはずっとあいつの後ろで監視を続けていたじゃないか」
「建物に入った時、僕は必ず目を離すことになっていただろう。あの時だ」
図書館に通うなんておかしいと思ったんだ。
そもそも本を館内で読むだけで金がかかるなんて意味のわからない制度をした場所に、あの能力があって普通に入館するわけがない。忍び込むに決まっている。つまり、あれはこちらを騙すための行動だったのだ。
図書館で本を読んでいるふりをして、その間にこちらの監視から逃れる自由時間を作るための。
「あいつが図書館にいる時、僕は外で待っていた。油断していた。黒髪黒目が特殊なこの世界なら、少し探せばすぐに僕が同じ選抜者だと――【運命の愛し子】であるとバレる」
「待ちな、アンタは思考が後ろ向きになっているよ」
「馬鹿みたいに楽観しろって言うのかっ」
噛み付くような言葉。
不機嫌とストレスから、攻撃的な面が現出していた。ブラウへの的外れな文句はさらに別方向からも飛ぶ。
「そもそもお前なら七番が姿を隠してこちらを探っていたのを、知れたんじゃないのか」
「……それは、そうだけどねぇ」
「じゃあなんで教えない!」
「ルールだよ。姿を隠してこちらを探している、なんて言えば力を説明することになっちまうからね」
「だからって――!」
僕が死んでもいいのか。神になれないんだぞ!
言いかけて、不正をしたら一発でその望みが絶たれる事実に口を閉ざす。
ただ舌打ちが漏れてベッドに蹲る。
もとからネガティブな人間が、さらに脅威に苛まされて負の思考のループに陥っている。
面倒だ、厄介だ、痛々しい。
彼を見守る役割を強いられたブラウは、だるそうに息を吐いた。色っぽくて艶やかだが、どうにも生々しい。彼女も戒の相手には辟易していた。
それでも、彼を生き残らせて、勝ち残らねばならない。そういうゲームだ。ブラウだって、それなりに神の座は欲しいのだから。
――この程度の入れ知恵なら、文句は言われまい。
「逃げればいいじゃないか」
「……え」
ベッドに這い蹲る戒に、ブラウは前置きもなく持ちかけた。うんざりした声音で、恐怖から解放される当たり前の方法を提案する。
「この大陸から手を引きな。それで七番目も追いかけては来ないさね。奴さんはここに未練があるだろうからね、けれどアンタは別に未練もなにもないだろう?」
「逃げる……逃げる……」
「第一大陸とかお勧めしておくよ。まあ、アンタのスキルならどこへ行っても不幸はないけれどさ」
これは単なる提案だ。思考誘導ではないし、命令でもない。ただ、こういうのはどうだろうと教えているだけ。考えるのは戒自身。ルール違反には抵触しない。
戒はブラウの言葉を吟味し、しかしやはりマイナス思考が顔をだす。
「だっ、だけど……動く時に襲われたら……やっぱり僕を恐れて追いかけてきたら……」
「それでもここで蹲ってるよりかはマシじゃないのかい。どこに居たって同じさ。顔がバレている、という前提のもとならね」
顔がバレている、という点にはブラウは懐疑的だけれど。まあ、そこを蒸し返しはすまい。どうせ聞き入れない、この酷く自分本位の坊ちゃんは。
もはやブラウも諦めに近い心地だった。この提案も、少し投げやり臭い。当然の方策を思いつきもしない戒に、ため息混じりで伝えただけ。
けれど戒としては目から鱗。思いつきもしなかった。ブラウの雑な言い様も、今は非難せずに笑ってしまえる。
「そっ、そうだ、そうだよ逃げればいい。なにもビクビク震えてないで、危険なら危険なところから離れる。当たり前じゃないか」
その当たり前を、言われるまで思いつきもしなかった時点で笑える話だろう。
ともかく、戒は荷物の整理をおざなりに、慌てて急いで部屋を辞した。まるでなにかに追い立てられるように。
――だが、ブラウは少し甘く見ていた。
ネガティブは、非常に根深くまで彼の底にまで染み付いていた。なにせ彼は、生前からしてそういう人間だったのだから。
「……ひ」
出歩けばすぐに身を縮こませて隅に逃げる。ふと横切る外套に、恐れて震えておののく。
外套は――七番目を思い出させるから。
もしや隣にいるのは奴ではないか。横切ったのは? 後ろに歩いている奴は、まさか戒を付けているんじゃないのか。
びくびくしながら人通りの多い都市を歩いている。そんな挙動不審で周囲にばかり意識が向けば、
「ぁ」
必然、足元がお留守。
道理の理屈、特に珍しいことでもなく、戒はこけた。転んだ。不様に。
膝を擦りむき、全身を地に横たわらせて、周りに迷惑そうな目を向けられる。
ネガティブな精神は、そんな有り触れた、誰にでも起こりうる現象に疑心する。暗鬼を呼ぶ。
(まっ、まさか、七番かっ!?)
見えない七番が足をかけて転ばせて来たのか。では続いて体が崩れた自分にトドメの刃が降って来るのでは?
「っ」
焦って怯えて飛び上がる。走り出す。できるだけそこから離れようと足を必死で回転させる。
あれは七番目の攻撃に違いない。何故なら戒は【運命の愛し子】、こけるなんて不様はありえない主人公のはずなのだから。だから何者かの意図があると考えて順当で、それは誰かと言えば七番しかありえない。不可視の男の襲撃が早速来たのだ。
――とか、考える戒に、幸運を与える立場のブラウも呆れかえる。
まさかそんな、ただ一度の転倒だけでそこまで考えるものか。誰にも起こり得る、いつでもありえる、注意散漫ならなおさらで、それは幸不幸とかのレベルじゃないだろう。そりゃ、ここまで怯えるとわかっていたらブラウだって転ばぬように力を使っていただろう。しかしこれは予想外の想定外だ。もっと別に力を割いていたし、こけないように気をつけてやるって、ブラウは母親じゃないんだから。常に見ていないと危ないガキじゃないんだから。
本気で逃げ出す戒には、もはやシュールな哀れみすらも感じる。
なりふり構わぬ疾走はこの人ごみの中では酷く邪魔。人にぶつかり、その度に戒は七番かと恐れて、無理に乱暴に押し退ける。無論、去り際に蔑視で見られて、時には罵倒が飛んでくる。それすら七番の情報操作の精神攻撃じゃないかと泣きそうになる。
そもそも戒にとっては他人に触れるだけでもストレスで、軽蔑の眼差しには背が凍る。罵倒なんか面と向かってされれば脚が震えてくずおれるかもしれない。
外の世界は恐ろしい。
そんな生前の感情が、【運命の愛し子】になってからは忘れていた恐怖が、今更になって舞い戻ってきた。
だからだろうか、息を乱して汗だくになって死にそうな彼は――元の宿に帰ってきていた。
子供のお使いでもまだしも遠出しただろうに。この程度のトラブルなら、逃げ帰る必要もなかったはずである。
だというのに、戒は再び自室に閉じこもる。出掛けに焦っていたためチェックアウトしていなかったのは、彼の幸運と言えるのか否か。
部屋に戻り、そしてなんにも変わらずベッドに飛び込む。頭を抱えて怯え震えて泣きそうだった。
臆病不様な男は、ひとりで勝手に追い詰められる。
自分の力がそういうものだと感じながら躊躇わず使い続けていた代償、と言えるのかもしれない。それとも単純に、不幸や上手く行かない事柄に対してともかく何かのせいにしたがる性分なのか。
――全ての不都合なにもかもが、七番のせいに思える。
あれが存在する限り、逃げようとするだけでも追い詰められる。仮に逃げ延びても、本当に奴は追いかけていないのかと疑心暗鬼は止まらない。
転ぶだけで恐怖し、人にぶつかるだけで涙する、そんな臆病者にはどんな些細な偶然も、悪くとっては七番のせい。
外に出たら殺されるかもしれない――そんな恐怖に襲われ、戒は部屋から出ることもなく引きこもり続けた。
それはまるで、生前の頃の焼きなおしであった。
いつもいつも疎まれた。
どこにいても嫌われた。
学校でもひとりきり。家でも邪魔者扱い。
ここは自分のいるべき場所じゃないんだといつも思っていた。蔑む目で見る奴ら全員、性格が悪いクズだと思っていた。
自分はこんなに心優しくて、才に溢れて、ちょっとがんばればなんだってできるのに。
ただクズと違ってなまじがんばればできるもんだから、別に今がんばらなくてもいいという結論に至っただけだ。どうせ他の奴らには理解されないが、それが戒にとっての真理であり、いずれ見下した奴ら全員を見返すのだと息巻いていた。
なにもやりたくない――どうせ全部できるから。
なにもやらないでいい――きっと簡単なことだから。
やればできる。やればできる。
なにもしないけれど、そう信じている。信じ切っている。
見返りを求めて行動するならまだ理解できる。見返りを求めず行動できる人は素晴らしいだろう。だが南雲 戒は見返りを求めて行動しない。
その理屈を理解できる者は誰もいなかった。
家族も、友も、誰も彼もが怠け者の愚か者と戒を罵った。
なにもわかっていない。薄ら馬鹿ばかりだ。そのくせ声ばかり大きくて、汚い言葉で非難ばかりを浴びせてくる。
――現実を見ろ。
うるさい。
――現実は厳しいんだ、そんなに甘く通るわけがない。
うるさい。うるさい。
――とりあえず外に出てみろ。
うるさい。うるさい。うるさい!
追い詰められているせいか、夢見は悪かった。思い出したくもないことを夢に投影されてしまった。
そしてその悪夢が、追い詰められて追い詰められて限界だった戒の最後の一線をぶち抜いた。
「こっ、殺そう。あの七番目を、この手で殺すんだ。それ以外に、ないっ!」
殺される前に殺す。愚かしいほど単純明快な思考論理だった。恐怖から短絡思考に陥っている。
だが、戒には他に思いつかない。生前のように部屋に閉じこもってなどいたくなかった。うるさいだけの愚か者どもに怯え、隠れて引きこもるなんて、もう二度と御免だ。
そう、そうだ。逃げちゃ駄目――である。
南雲 戒は、主人公なのだから。やればできるはずなのだから。
「…………。やめておきな」
ブラウは充分に言葉を選んでから、やはり簡素に否定した。
装飾したり、迂遠に言っても戒は止まらないから。真っ向からやめておけと首を振ったのだ。
どうせ逃げちゃ駄目だのと主人公っぽいことで装飾しておきながら、本音は怖いだけなんだろう。逃げることにすら恐怖して、なにもできずただ最悪に転ぶ。
他人事なら腹を抱えて笑っていたかもしれない。なんてふざけた言い訳か。本音を隠す馬鹿げた言い分か。
自分の提案に否定ばかりする神子に、戒は血走った目を向ける。うるさいなぁとばかりに非難がましく。
「なんで止める。お前だってゲームを進めて他の選抜者を殺せと言っただろう」
「言ったね。同時にお前さんに死んでもらっても困るとも、伝えたと思うけどね」
それに。
「自分から動くだなんてアンタらしくもない。なにもしないで結果がついてくる、それがアンタに与えた力のはずだよ」
「それであいつが死んでないからこんなことになってるんだろうがっ!!」
爆発的な激昂に、ブラウは額を押さえて困ってしまう。確かに戒の言う通りでもあるから。
とはいえ、だからって出向くというのも違うだろう。自身の適性とスキルをもう少しちゃんと自覚してほしい。
「七番を殺すのに最適の好機は、あの通り魔とやりあっているところだよ。そこを逃した以上は、残る全部のチャンスはその下さ。次に同じくらいの機会が来るのを待ちな」
「戦っているふたりに割り込んで奇襲しろって? そんな卑怯ができるはずないだろ」
本当は怖くて手出しできなかっただけだろうに。嘘が上手いね。
肩を竦めるブラウに、戒は失望のように息を吐く。
「所詮あんたも僕のことなんかわからない。神の子なんて言ったって、馬鹿どもと同じだ」
「はぁ……」
もはやなにを言っても聞かないか。
理屈も理性もない、ただの阿呆だ。喋っている言葉も適当で、ただ思いつきを語っているだけなのだろう。
これだから馬鹿は嫌いだ。壊れた人間しか選べないという狭い選択肢も嫌だったのだ。
――こんな異常者に、自分の命運を託したくなんてなかった。
賭け事はもうやめるかねぇ。嘯いて、ブラウは諦めたように懐からキセルを取り出す。
刻み煙草の味わいだけが、今は彼女の救いだった。