30 やっとやっと魔法
司書の人に訊いてみたらすぐに請け負ってくれた。図書館の端にある読書スペースの椅子でしばし待てば、すぐに見つけてくれる。手渡された一冊の本、「はじめての魔法」である。
「て、薄っ! 薄い本かよ!」
「えっ」
「えっ」
キッシュと七ちゃんから違う意味での声が飛んで来た。
烈火はハッとなって一瞬だけ思案に目を泳がせる。言葉に詰まって、どうしよう。
「あっ、いや……こほん」
少し大きめに咳払いをし、リセット。何事もなかったかのように平然とした体で続ける。私は全くなにも失言などしていませんという顔である。
「なんでこんなに薄いんだろう」
「誤魔化しましたね、誤魔化しましたね玖来さん。えー? 薄い本てなんのことなんですかねぇ、是非お伺いしたいですねぇ」
七ちゃんのニヤリとした悪い笑顔でなんか突っついてくる。質問に答えて欲しかった。
そこに来るとやはりキッシュは天使。烈火の失言に追求せず――まあ、七とは違い意味が掴めないのはあるが――問いかけに対する返答を言う。
「これの著者さんが極限まで内容を圧縮してまとめて短くすることで、そのぶんだけ冊数を増やしたかったんだって。昔、わたしが読んだ時にリヒャルト先生が言ってたよ」
「キッシュも読んだことあるのか」
「初心者向けでは一番読まれてる有名な本だからね。あ、あと先生はこうも言ってたよ。ページが通常の書物の十数分の一だから、通常の書物よりも十数倍の冊数を出版できたんだって。できるだけ多くの人に魔法に触れてもらうための処置で、そのお陰で有名な本になったって。発想の勝利で大儲けだって」
「なるほどなー。考えてあるなー」
しかしリヒャルトの野郎、キッシュに変なこと教えるな。最後の一文はどう考えてもいらなかっただろ。
まあ、とりあえず一枚ページをめくってみるか。
ひょいとめくれば――ぎっしりびっちり密集した文字の群れが現れた。
「…………」
余白なんぞ一切ない。もはや真っ黒で塗りたくった黒い紙みたいなノリで文章が密着していた。改行もなにもない。端から端まで字で占領されている。しかも文字サイズが小さいと来た。これほんとに日本語かよ、別言語だろ。読み解くのにどれだけ読解力と根気と集中力がいるんだよ。絶対スーパー読みづらいわ。読書への意欲を見事に根こそぎ挫くぞ、この本。
烈火は真顔で本を閉じる。
「さてと、「はじめての魔法」を探そうか」
「レッカレッカ。今レッカが閉じた本がまさしくそれだよ」
「嘘だ……嘘だよ、嘘に決まってる。なんで初歩の最初の一冊目がこんなに文字びっしりなんだよ、ありえねぇ。上級専門書だろ、これ。薄いからって騙されないぞ」
戦慄する烈火だが、キッシュはなんだか感心している。
「いやぁ、著者の努力が垣間見れるよね。いかにそのページ数で言いたいことを書きなぐったか、凄いよね」
「そうだけどさっ! 凄いけどさっ! でもこんなん読めるかっ。改行と余白の大事さを知りました! 写真とか絵が添えられた教科書って実はすごいマシだったんだな!」
「あまり大声は……」
「あっ、すみません」
ノリで叫んだら司書さんに怒られた。反省。
だが文句はやまない。声を潜めて続ける。クソが。
「こんなの読めるか。読みづらいにもほどがあるだろ。ちょっと目を逸らしたら今どこ読んでましたっけってなるだろ確実に」
「まあまあ、実際のところページ数が少ないぶん字数はそこそこだよ?」
「ページ数が少ないってことは一文に込められた意味が多くなって文章の難解さが増すだろ。どうせこんな風に書く奴だ、無駄は削いでも必要は絶対に削がないタイプだろ」
「んー、そんなに嫌なのかぁ」
「ハッ! これだから本を読みなれてない現代っ子はいけませんねぇ。甘えてないで、ほら読んでください。魔法を覚えるのでしょう?」
「ぐ……っ」
キッシュの困った顔と七ちゃんの嘲笑が胸に痛い。確かに甘ったれているのは烈火で、キッシュを困らせているのも烈火。
ため息ひとつ吐き出して、諦観。もう一度書を紐解く。「はじめての魔法」に向かい合う。黒い染みから文字を見出す。
『魔法とは大気中のマナを魂にて吸収、変換して生み出す魔力というエネルギー源を使い、媒介たる言語や図形、動作を経て発現する現象である。その発動には神々の力が働いているとされるが、この書ではそこに関する言及は控える。この書は原理書ではなく指南書であるため、理屈や原理を考慮せずに綴っていくこととする。』
烈火は真顔で本を閉じる。
「あれ、閉じちゃうのレッカ」
「はっ! しまった、無意識の内に思わず本を閉じていた!」
「大声は……」
「ごめんなさい」
また同じ過ちを繰り返してしまった。司書さんの前髪に隠れた視線が冷めているような気がする。
いかんいかん。烈火は首を振って雑念を消し飛ばす。今は本と戦わねばならない。他者の視線なんぞに気をとられて集中を欠けばあっという間にやられる。先のように無意識が働いて本を閉ざしてしまう。
今度こそ負けまい。ちゃんと読んでみせる。烈火は深呼吸をして、みたび本を開いた。
「それでレッカ、どのくらい読めたの?」
図書館の閉館時間が訪れて、キッシュとともに宿へと戻る道すがら。
割と遅くまでやっていて、外はもう暗闇に覆われている。都市内でもなければ野宿の準備に取り掛かっている頃ではないだろうか。とはいえここは都市である。少し目線を上げれば魔法の輝きや、普通に松明、それとランプかランタンか判別つかない照明器具とかもあって結構明るい。勿論、現代ほどじゃないが。
なので足元に気をつけたり、黒い服着た人とかにも意識して気をつけつつ、烈火は返答。微妙にバツが悪そう。
「あー、半分くらい?」
「そっかぁ」
六、七時間くらいは図書館に滞在していたはず。そしてあのページ数の少ない「はじめての魔法」。そこらを考慮すれば半分とは明らかに少ないが、読書の苦手な烈火的には上々である。
とはいえ、自信満々に言えることでもない。キッシュには格好つけたい心地もある。言い訳染みた言葉が漏れる。
「いや、あれだぞ。こう、文章を理解しようと全力で努めているから、一文を素通りできないんだ。何度も同じところを読んで理解しよう理解しようと頑張ってるわけだ」
本を読めない人間の言いそうな言い草である。同じところを繰り返し読むのは読書が進まない典型的パターンだ。
キッシュはなにも言わない。笑顔で応えるのみだ。
「そっか」
「…………」
その反応がまた辛いんだ。烈火は心の中で泣いた。自業自得であるが。
「まっ、まあ明日から通って読み通すんだ。なんとかがんばるよ」
「うん。レッカがんばれ!」
「おう、がんばるぞ」
と、そこで終わればまだ和やかな雰囲気で締められたのだが。
応援キッシュに見蕩れて、そちらへと意識が持っていかれた。夜道で見通しも悪かったし、慣れない読書に疲労していた。他にも色々と重なって。
どん、と。
烈火はすれ違う人と、ぶつかった。ふらついた相手を避けきれずに肩があたった。
相手が悪かった。謝罪の前に爆発のような怒号が飛んで来た。
「痛ぇな、なにしやがるっ!」
熊のような大男だった。大男のような熊だった。
つまり熊の獣人。毛深く大きな身体が特徴的で、手足には獣毛が覆う。耳は頭頂部に丸くあって愛らしいが、怒髪天を衝く激憤の中では癒しにはなりえない。
ただぶつかっただけでなんでそんなに怒るんだよ。烈火は意味がわからずちょっと混乱してしまう。返答できずによくわからんという顔を晒してしまう。
それがさらに熊の男の気に障る。酒気を帯びた大口を開く。
「へらへらしてんじゃねぇよ、小僧!」
なんと二言目で拳を振り上げてきた。なんてこった、異世界でのすれ違いは命がけだったか。
まあ法整備とか現代より緩いだろうし、侮辱や暴力に公的な裁判とかはあんまりなさそう。というか裁判って制度はもう存在するのか。まだ発展途中の可能性もある。なんでも訴えるぞの現代も嫌だけど、自力自助をするしかない異世界も辛い。理不尽な暴力に対して、こちらの力がなければあっさり殺される。その後に捕まったりはあるだろうが、もはや後の祭り。死後の祭り。死んだほうから殴りかかって来た正当防衛だ、とか言われても言い返せない。死んでるし。
「待って待ってっ」
割って入ったのはキッシュだった。もはや呆れが入って変な思考に走った烈火とは違い、キッシュは真摯に頭を下げた。
「ごめんなさい。暗くてぶつかっちゃったんです」
「……ごめんなさい」
流石にキッシュが謝っているのに烈火がムスッとはしていられない。不満顔を隠すように頭を下げた。
ここであの野太い腕でぶん殴られたらやばいなぁ。とか内心で相手の出方を窺う辺りに烈火はキッシュと違い真摯とは言えなかったが、仕方ない範疇だろう。
だが異世界住人、なんだかんだ言っても割と奥のところで悪人ではなかった。下げた頭におろす拳はない。
「……ち。クソが」
熊の獣人は吐き捨てて、その場を去っていった。
単に虫の居所が悪かっただけ。機嫌が悪かっただけだったのだろう。烈火は頭を上げて、その頭を誤魔化すように掻く。
「やれやれ、気をつけないとな」
「レッカ、大丈夫だった?」
「ああ、大丈夫。キッシュも悪いな、おれの不注意に巻き込んじゃって」
「暗いし疲れてるでしょ? 仕方ないよ」
キッシュがふわりと笑顔を向けてくれて、だいぶ心が洗われる。呑んだくれたオッサンよりも美少女を眺めているほうが百倍は精神安定に繋がるな。
にしても、ふむ。
「なあ、キッシュ。ああいう、なんていうか、すぐキレてぶん殴ってくる人って、都会じゃ多いのか?」
田舎者設定でこの世界の風潮とかをさりげなく尋ねてみる。
キッシュは顎元に指をあてて思案顔。
「んー。どうだろ。あんまりいないと思うけど。都市のほうが生活に余裕があるものだからね」
生活に余裕ができれば心の余裕もできる。田舎などの魔物被害や食糧事情で逼迫している場所と比べれば、ここまで巨大な都市の住人ならば無駄に気のたった人は少ない。ない金で募金はできないということ。
道理だ。
じゃあ異世界のモラルが低いとかじゃなくて、単に運が悪かっただけか。
運、ねぇ……。
熊さんへのフォロー(?)
読まなくても全く持って限りなく問題ありません。
今日はなにをやっても上手くいかない日だった。
幸運がちょうど横へ避けていく。不運ばかりが寄り添って、やる気が空回りする。そんなクソみたいな一日だった。
起きる前から悪夢にうなされ、朝に起きたら寝坊である。寝起きの悪い気分のまま朝食に向かうが、宿屋の朝食時間は終わっていた。空腹が苛立ちを誘う。獣人は空腹を嫌うのだ。だからギルドへ向かう途中、適当に食事を買った。だがボッたくられた割に味が悪い。二度とその店で食事はとらないと決めた。
ムシャクシャした心地で、ギルドへと辿りつく。討伐者として海辺の監視を申し出たのにギリギリで定員オーバー。目の前のひとりがよく、自分は駄目。文句を言いたくても、窓口をぴしゃりと閉じられてまるで相手にされなかった。
またひとつ腹が立つ。怒りの熱がふつふつと沸き上がっているのが、自分自身で把握できていた。
こんな日に別の仕事に入るのも憚られる。他の選択肢を振り切り、もう捨て鉢。今日は酒でも呑んで過ごすことにした。
酒場へ足を向けようとして、どん、と誰かにぶつかった。図体のでかいのは熊の獣人である自分だが、そのぶん気をつけてはいた。わざわざ避けたのに向こうからぶつかってきたのだ。なのに、謝罪もなく黒髪の人間は去っていく。
別に種族差別の主義はないが、その態度は気に入らない。追いかけて文句のひとつでも飛ばしてやろうかと思い、追いかける。追いかける。追いかけたが、見失う。人通りの多いこの都市で、人探しは困難だった。
これでは無駄に労力を消費しただけ。舐められて逃げられただけ。
苛立って舌打ち。
すると見ず知らずの水霊種に嫌悪の視線で刺された。水霊種は舌打ちを嫌うのだ。すれ違っただけの少女は、すぐに目を逸らして雑踏に紛れて消えていく。
別に、俺だって好きで舌打ちしたわけじゃない。誰だって好む行為じゃないのはわかっている。ムシャクシャしていたんだ。
そしてまた、彼は舌打ちをひとつ漏らした。
酒場へ行った。カウンターに座る。
いつも好物としている酒を注文した。今は切らしていると言われた。不運が続いている。嫌なことが連続している。今日は厄日か。
仕方なく別の酒で我慢する。するしかない。別の店に行っても、どうせ欠品中だとか言われる気がした。嫌なことが続けば、心も曇ってどうせ駄目だとネガティブになっていくのだ。
店はすいていた。こんな真昼間に酒に溺れる堕落者が少ないのは、きっと都市にとってよいことだろう。彼にとっても、こればかりはよかった。
うるさいのは得意じゃない。乱痴気騒ぎは苦手で、落ち着いた雰囲気で酒を舐めていたかった。安酒しか買えない寂しい懐では、そういう静かな雰囲気の酒屋にはあまり入れないのだが。
ようやく落ち着ける。そう感じてやってきた酒をグラスで一杯――ドアを開く乱暴な音が、それを遮る。
振り返れば団体さん。嫌に上機嫌な一団が入店し、酒をだせと喚きだす。
先ほどの静寂どこへやら。六人ほどの男たちが機嫌をよくして酒を呑み、飯を食らい、楽しげに笑う。
うるさい声が丸耳に入れば、なにやら洞窟で大物を倒したとかなんとか。予想外の強敵だったが、全員無事でなによりだと騒いでいた。
気持ちはわかる。死を覚悟するほどの難敵を打破すれば、誰だって生の喜びに浮かれるだろう。生きていてよかった、みんな無事でよかった、オレたちは強い。はしゃぐ姿は子供のようだった。
引き換え己の惨めさが際立った気がした。討伐者の端くれで、魔物を倒すでもなく誰かを守るでもなく、こんなところで呑んだくれ。
自己嫌悪と妬みに近い感情が渦巻き、今日の不運が混じって吐き気を催すレベルの最低の気分だった。首でも括れば最高に愉快なんじゃないのか。生憎、紐も縄も手持ちにないが。
代わりに手にグラスを持っていることを思い出し、一息でそれを呑み込む。熱がノドを焼き、心を熔かしほぐして気分を軟化させる。脳内の思考が揺れていく。
彼は酒に強いほうではないし、いつもなら一気飲みなんてやらない男だった。舌を湿らすようにゆっくり味わって呑むのが常。だが、今日は酒に溺れたい。
そして、店主に同じ酒をと頼んだ。
気付けば先ほど騒いでいた一団は店を出ていた。代わりに夜も更けて、別に多くの客が賑わっていた。
騒がしくて、もはやそれだけで苛立っている自分がいた。金を置いて店を出た。一瞬、金が足りないかもしれないと思ったが、なんとか足りた。ヒヤッとしたせいで酔いが微妙に晴れた。中途半端な酒気は、頭をこねまわして気持ち悪い。
吐きそうになって、それを耐えて、ともかく宿に戻ろうとした。ふらつく足でゆっくりと。
どん、と。
人とぶつかった。苛々して振り返れば、黒い髪が見えて、瞬間沸騰した。
「痛ぇな、なにしやがるっ!」
昼間にあったムカつく出来事が一挙に脳内で閃いた。今日の不運が全部脳裏で思い出された。
こっちは苛立っているというのに、黒髪のガキはボケっとした顔でこちらを見上げるだけ。さらに怒りの熱が上昇した。
「へらへらしてんじゃねぇよ、小僧!」
拳を振り上げた。ぶん殴ってやらないと気が済まない。
あとあと考えれば、どうしてこんなに目の前のガキに怒りが灯ったのかわからない。けれど、その時の彼はもはや酒に理性を鈍らせ、不幸に思いやりを鈍らせていた。
下級の魔物なら一発で消し飛ばす熊獣人の豪腕が、ただの人間に向かって――振り下ろされない。
「待って待ってっ」
割って入る少女がいた。
金髪で、男の目から見ても愛らしい少女だ。
そんな少女は必死で頭を下げた。
「ごめんなさい。暗くてぶつかっちゃったんです」
真摯に謝意をこめ、謝ったのだ。
男が呆気に取られていると、黒髪の少年もまた頭を下げた。
「……ごめんなさい」
素直に謝られては手を出しづらい。まるでこちらが悪者じゃないか。
いや、こっちが悪者なのだ。いきなり怒鳴って拳を振りかざすなんて、そんな善人がいるものか。
そこまで考え至ると、一気に酔いが冷めた。不幸に酔う不甲斐なさに気付いた。男は苦し紛れに舌打ち。振り上げた腕を下ろす。
「……ち。クソが」
自嘲するように吐き捨てて、ふたりから逃げるようにしてその場を去った。
あぁ、不甲斐ない。情けない。そんな風に己を蔑みながら。
獣人の特徴
亜人種。
犬、猫、鳥、兎、狐、熊、獅子などの特徴をもつ。耳や尻尾が顕著に現れ、他にも四肢にその特徴が出たりもする。ほとんど二足歩行の獣、というほどに色濃く現れる者もおり、個人差が激しい。総じて身体能力が高く、知覚力にも優れ、動物的な力強さを持つ。ただし魔法は苦手で、扱いはするが特化した者はほとんどいない。
寿命は人間と同じ程度。