佐藤麦穂の場合
気がついたら、最初の部屋に戻されていた。
誰もがぐったりしていた。
ことりんはまだすすり泣いていた。
小町さんはまだあの鼻歌を口ずさんでいた。
麦穂は黙ったままうつむいていた。
結渚ちゃんは頭を抱えて机にうつぶせにになっていた。
精神状態が一番まともなのは、間違いなく俺だった。
仕方なく俺は簡素なキッチンへと移動し、お茶をいれた。
さすがにこれは、慰めてやらなきゃいけない気がする。
一生もののトラウマになってしまうかもしれない。
ついでに言うと、ここでみんなを慰めておいたら優しい人というイメージがついて、学校に戻ったら麦穂とかことりんとかがみんなに広めてくれるかもしれない。
泣いたままのことりんと現実逃避したままの小町さんと顔の見えない結渚ちゃんは話しかけにくいので、とりあえず麦穂から。
「ほら、お茶」
麦穂は俺の声に顔を上げるが、その瞳には生気がない。
「あぁ、すまんな」
「お茶くらい気にすんなって」
「いや、そうじゃない」
「ん?」
「筋肉がなくてひ弱で役立たずで雑魚でクズでゴミでカスで私に話しかけるなら筋肉つけてからにしろボケとか思っててすまなかった。反省してる」
ええぇぇぇ?
こいつそんなこと思ってたのかよ!?
今までどちらかと言えば空気だったから、面と向かってここまで罵倒されたのは多分初めてだ。
しかも、主に筋肉のことで。
「いや、まぁ……。いいんじゃね……?」
さすがにこっちも返答に困る。
曖昧な返事しかできない。
沈黙が気まずいので、何か話題を振らないと。
俺は春休みに何度も見たお笑いの動画を思い出した。
こういうときに使える話は。
…………。
ないな、そんなの。
おっさんが大量に上から降ってくるなんて、普通ないし。
何でもいいから話題を考えないと。
麦穂は最初、俺に部活を聞いた。
今も筋肉がどうこう言っている。
ということは、スポーツが好きなんだろうか。
俺もスポーツなら多少は分かる。
漫画とゲームから得た知識しかないけど。
それでも他に思い浮かばないので、とりあえずその話題から攻めてみることにした。
「麦穂って何か運動やってんの?」
「小学校からずっとバレー部だ」
「あぁ、背高いしな」
「小さいころはコンプレックスだったんだがな。それが武器になると気付いたからな」
麦穂の身長は、俺より少し高い。
おそらく、175cmはあるだろう。
高校一年生の女の子にしては、かなり高い。
「プロのバレーボール選手でも目指してんの?」
「いや、私の身長じゃ無理だな」
「え? プロってそんなでかいの?」
「でかいだけじゃない。上手い」
「そりゃプロなんだから上手いだろ」
「そうなんだがな。ただ、私がこれから上手くなったとしても、あんなプレーができるとは思えんからな」
「けどさ、まだ高一なんだから、これからもっと上手くなるかもしれないだろ? プロ野球だって甲子園で活躍した選手がプロではいまいちだったり、逆に高校時代無名だった選手がプロでいきなり活躍したりすることだってあるわけだし」
「それは分かってる。頭では。……ただ……」
「……ただ?」
「……時々怖くなる。この先バレーが上手くならなかったり、バレーができなくなったりしたら、ずっとバレーしかやってこなかったのに、私には何が残るんだろうってな」
そう言うと麦穂は、寂しそうに笑った。
普段冷たい感じの人が一瞬そういう表情を見せると、思わずどきりとする。
普段といっても、知り合ったのはさっきだけど。
というか、女の子と二人で話をしてる時点でドキドキしてるんだけど。
「お前、本当にバレー好きなんだな」
「さっきも言っただろう。小さい頃背が高いのがコンプレックスだった、って」
「あぁ」
「男女呼ばわりされたりして、これでもけっこう傷ついてたんだぞ」
「子どもにありがちだけど」
「でも言われる方はたまったもんじゃない。……けど、バレーボールに出会って、私は自分の身長がコンプレックスから武器になった」
「大きい方が有利だからな」
「あぁ。私は誰よりも高いと思ってた。……中学校の途中までは」
「途中まで?」
「大会で当たった学校で、私より高いヤツがいた。高いだけじゃない。私よりも上手かった。そいつに勝てるんだろうかと考えてから怖くなった。自分がこの先上手くならないんじゃないか、自分には才能がないんじゃないかという可能性を、その時初めて考えた」
「けど、それで諦めてバレー辞めたわけじゃないんだろ?」
「諦めはしなかった。それまで以上に練習した。けど、やっぱり時々怖くなった。私にはバレーしかなかったのに、バレーに見放されたらどうなるんだろうって不安になった。考えるたびに、私はバレー以外のことは何もしてこなかったって思い知らされた。友だちが遊んでるときも、勉強してるときも、男とデートしてるときも、私はバレーボールを追いかけてた。私にもそういう可能性もあったのかもしれないって思う」
そう言うと、麦穂は手に持っていたお茶を一口飲んだ。
「俺はお前がうらやましいけどな」
「……うらやましい?」
「うらやましいよ、俺は。俺は今まで何かに熱中したこととか、本気で頑張ったって胸を張れることなんて一つもない。毎日テキトーに生きてきて、将来やりたいことも特になくて、一生これと関わってたいって言えるものもない」
「普通の青春を送って、友だちと想い出を作るのだって悪くはないだろう」
「悪くないと思う。けど、よくもないと思う。想い出って作ろうと思って作るものじゃなくて、本気で頑張ったり、一生懸命やったりしたことが後から振り返ったときに想い出になるんだと俺は思ってる。だから――」
あぁ、そうか。
俺は初めて、自分に足りないものに気付いた。
「――だから、俺には想い出なんて呼べるものはない」
本気で何かに取り組んだことなんてなかった。
一生懸命頑張ったことなんてなかった。
だから、自分という人間がどういう人間なのか、自分でも分かっていない。
自分のキャラを決めようなんて思ってしまったのは、自分に芯がないからだ。
「響平は好きなこととか今からやりたいこととかってないのか?」
「嫌いなこともあんまりないけど、好きなことも特にないんだよなあ」
「やってて楽しいことってないのか?」
「うーん……。漫画とかゲームとか」
「漫画描いたりゲーム作ったりはしないのか?」
作る側になることなんて考えてもみなかった。
漫画家とかゲーム作る業界とか絶対ブラックだろうな。
「よく知らない私があまり勝手なこと言うのもよくないな」
「いや、麦穂のおかげで俺も気付けたことあるから。感謝する」
「気付けた? 何に?」
「まぁ、いつか機会があったら話すよ」
俺の答えに麦穂は不思議そうな表情を浮かべる。
「麦穂があのアプリやってみようと思ったのってさ、違う可能性が見れたらいいなって思ったから?」
「そうだな。私はバレー以外に何をやっていいか分からんからな」
「俺が言うのもなんだけどさ、バレーができなくなったら不安って言うんだったらさ、一度バレー以外のことしてみれば?」
「バレー以外って言われてもな。部活やってない人間は学校が終わったら毎日何するんだ?」
「帰りに寄り道して友だちとしゃべったり、買い物に行ったり、遊びに行ったり、家に帰ってから本読んだりゲームしたりバイトしたり」
と、俺は高校に入ってからまったくしていなかったことも交えて話す。
いや、本当はそういう高校生活になるはずだったんだけど。
「私は経験がないから、そういう生活は想像がつかんな」
「一日くらい部活休んで遊びに行ってみれば? 一日くらいならサボっても下手にならないだろうし」
「部活サボるとかありえんだろう。どこまでクズなんだ、お前は。だからお前は貧弱なんだ」
怒られた。
しかもクズ呼ばわりされた。
部活をサボるってのは、そこまでダメなことらしい。
部活をやったことがない俺には分からない世界だ。
迂闊なことは言うもんじゃない。
「……だったらさ、部活休みの日にどこか遊びに行ってみるとか。何なら――」
俺と一緒に遊びにでも、と言ってみようかと思ったが、その勇気がわかない。
誰かを遊びに誘ったことなんて、最後がいつだったかすら思い出せない。
高校に入ってからは一度もない。
中学校のときだって多分一度もない。
小学校のときはどうだろうか。
唯一仲のよかった友だちと遊んでいたとき。
今思い返せば、いつも誘われてばかりだった気がする。
誰かを誘うのって難しい。
断られたら。
嫌がられたら。
不愉快な思いをさせたら。
相手に迷惑をかけるのは、やっぱり避けたい。
そう考えると、その一言を口に出す勇気がわかない。
「――何なら、暇だったら声かけてくれれば、俺だって付き合うし」
だから、これが今の俺の精一杯だった。
「……響平。お前、意外といいヤツだな」
「意外とって何だよ」
俺の言葉を聞き流しながら、麦穂はお茶をすすった。
「おい響平」
「ん?」
「プロテインが飲みたいぞ」
「ねーよ、そんなもん」