過去
「……答えづらいこと聞いていいですか?」
町を出てから二里ほど行ったところだった。
黙々と歩を進めていたキーシャが突然口を開いた。
「答えづらいこと? うん、なんだ?」
何気なく問い返す。
ジハンには、これから彼女がなにを聞こうとしているかが定かでない。
「ええっと……。その、なんていうか、どうしてジハンさんは町で――」
「もう十年になるかな」
質問の意図に気づき、彼女が問いたいことの真意をほんの少しずらしながらジハンは答える。
いじわるではない
じぶんがこの旅をしようと思ったきっかけを彼なりにキーシャに伝えておこうと思ったのだ。
「十年? そんなに長い期間、ああいう生活を?」
信じられないといった声つきではあったが、そこに見下すような調子は含まれていなかった。
単純な驚きのみを表してキーシャはさらに聞いた。
「どうして? それだけあれば、正業に就くチャンスもあったのでは?」
「虚しくなったんだよ。じぶんがやってきたことが……」
斜陽がジハンの横顔を照らし、陰鬱な眼差しを強調する。それを受けて、キーシャは思わずといった感じで聞き返した。
「虚しい?」
「そうだ。実は俺は昔、あんたほどまでとは行かないが信仰者だったんだ」
「えっ?」
驚きの表情を浮かべるキーシャ。
無理もない。
ジハンはこれまで彼女に対して神に対する不満、神の誤謬をあげつらってきた。そんな彼の口からじぶんが信仰者だと漏らされても、信じろというほうが無理な話だ。
「そしてそれを捨て、今の生活を選んだのが十年前のことだった」
キーシャが息をのむ音が聞こえる。
しかし、彼女はジハンから目を背けようとせずに、しっかりとした面持ちで彼にこう言ってみせた。
「……お聞かせいただけませんか? なにがあったのか。なにがあなたの信仰を捨てさせたのか」
彼女の表情は、大罪を犯した人びとの懺悔を聞く宗教者のそれだった。
清廉潔白。
不意に彼の頭にそんな言葉がよぎった。
そしてジハンは、じぶんが神の御許に引きずり出され審判を受けている姿を痛烈にイメージした。
彼女は立派な聖職者になれるだろうな。
ジハンは唐突にそう思い、言った。
「俺がいた村は、それはそれは宗教心の強いところだった。信仰に厚いといえば聞こえはいいが、むしろ信仰の規律に凝り固まっているといった印象だった」
「それは……パリサイ派のように?」
さすが信仰者だ。神学的な研鑽を積んでいる。
ジハンは素直に感心した。
「そう。前文明の世界で土着の宗教として生まれたユダヤ教は、その精神の伝達者であり改革者であるイエスを殺した。当時のユダヤ教の主要一派であるパリサイ派は、聖書に書かれた事項を固守しようとするあまり、その精神を忘れていたといわれる。だからユダヤ教の細かな規律よりも、その根底に関わる精神を強調するイエスは彼らにとって邪魔者でしかなかった。排除すべき存在だったんだ。
まあ、はるか昔のことであり『歴史は勝者が作る』と言われているくらいだ。キリスト教がそのような印象をパリサイ派に植え付けた可能性もあるがな。
とにかく、俺の村の人びとはそのパリサイ派のように聖典の教えに固執していたんだ。健全な精神を忘れ去ってね。イエスが見たら大いに嘆いたであろう」
「……悪しき啓典主義といったところでしょうか」
「人はマニュアルがないと生きられない。無知な大衆なら尚のことだ。それ自体を責めるべきでなないよ。それも、一つの信仰の在り方だ」
「信仰とは、精神がその行動を決するべきものです。守るべき規律も、その精神を理解されなければ無為なものになります」
「そうかもしれない。しかし、すべての人びとがしっかりとした宗教的な訓練を積むことができるわけではない。とりあえずの指標というと、宗教を不当に貶めているようだが、それが必要なときもあるんだ」
納得のいっていないことが露骨に顔に出てしまってはいるが、ひとまずキーシャは議論の鞘を抑えた。そして「その村でいったいなにが……」と続きを促した。
「そんな方向性は間違えてはいるが一応は信心深い村だ。大きな教会が村の規模に似合わずあったんだ。そこに一人の少女がいた。そうだな、ちょうどキーシャくらいの年齢の娘だった……」
「彼女もまた……信仰者だったのですか?」
「ある意味ではイエスだ。つまり、信仰者ではあったが、彼女は決して聖職者やその卵というわけではなかった」
「だが、彼女が教会に寝床を置いていたのでは?」
不思議そうにキーシャは聞く。ジハンはちょうど先に見える山の頂に目を向けながら答える。その目は、ありし日の思い出を偲んでいるようだった。
「彼女は孤児だった。赤子のころに教会の前にタオル一枚にくるまれて捨てられていた。当時、そういった棄児が教会には多くいた。女は働き手には使えないから捨てられる。貧しい村の人びとには、一人の食い扶持を稼ぐことは決して容易なことではなかった」
「ひどい。命は押しなべて平等だというのに……」
「信心深い村でもそんなことをしていたのだ。現実は聖典の通りにはいかにものだよ」
諦念を込めてジハンは言った。
「とにかく彼女は多くの孤児と同じように教会によって養われた。教会も、強制的に洗礼を与えることはできないから彼女の自発的な入信を待っていたんだ。だが、彼女は教会で生きながら、シスターとしての道を進むことはなかった。あくまで市井の人として信仰にかかわることを望んだんだ」
「しかし、教会はそれをよしとしなかった……」
話のいく末を見越して、キーシャはつぶやく。そして、彼女はその後の不幸な孤児の運命に思い至り、ハッと息をのんだ。
「話は前後するが、俺は当時一般の信仰者として教会に通っていた。静かに祈りを捧げる。じぶんで言うのもなんだが、無垢なる信仰者だった俺はわりと熱心に教会に通う子どもだった。だが、目的はそれだけではなかった」
なにも言葉を挟まないが、キーシャは彼女なりにジハンの言っていることの意味を咀嚼し理解しているようだった。
「俺はいつしか同い年の少女と知り合い、お祈りを終えると教会の裏で木漏れ日を受けながらお話に興じた。年齢も同じで、最初から気が合った。ガキなりにどこか運命じみたものを感じていたのかもしれない」
そう語るジハンのまぶたの裏にはありし日の光景。
なにを話すでもなかった。
ただ若い二人は、木の幹で羽を休める虫の名前を教え合い、咲き乱れる綺麗な花を愛で、互いの将来を語り合った。
無知なジハンは名も知らぬ少女にその花の名前を教えてもらった。
それは、ラベンダーといった。
十年の月日は、彼女の顔を輪郭すら定かでなくしてしまうほどであったが、交わした言葉は今もはっきりと彼の胸の中で生きていた。
そういえばそのころは世界にも昼があり、夜があり、もちろん夕方も消えゆくものとしてあった。
世界が一色に染め上げられたのは、いつのことだったのであろうか。
ジハンは思い出せなかったが、少なくとも彼自身はすでに路地でネズミと共に生きる身分に堕ちていたときのことであった。
いずれにしても、世界が日暮れ色になってから、ジハンには思い出らしいものが一切なかった。
思い出のない記憶は存在しないのと同じ。
夕方の世界は彼にとって意味のないものだった。
しかし、一人の少女との出会いにより、それはようやく意味を持ち始めた。
夕方の世界が、思い出によって極彩色に彩られ始めたのだ。
回想を打ち切り、ジハンの次の言葉を静かに待つキーシャを見据えながら、彼は次の句を紡いだ。
「しかし、そんな日々は突然中断された。そして二度と再開されることはなかった」
詩的な表現を使ってみせたが、そうしなければジハンはその重さに押しつぶされてしまいそうだった。
キーシャはいまだに沈黙を貫いている。
しかし、その目は、その耳は彼の言葉をしっかりと受け止める準備ができているようだった。
「教会はある日、突然彼女を幽閉した。理由は、彼女が神の規律を犯したことによるそうだ」
「だがしかし、少女は聖職者では……」
「そう。にもかかわらず、彼女は教会に寝床をかまえる身であるからには、神のしもべと同じような生活をせねばならない。それが教会の言い分だった。赤子のころから好きにさせていたくせに、いつまでも洗礼を受けようとしない彼女についに教会は痺れを切らしたのだろう」
「そんな、それはあまりに勝手では……」
「身勝手極まりない論理だよ。しかし、それを咎める大人は一人としていなかった。当たり前だよな。彼女は棄児の身だった。誰にも生きることを望まれてはいなかった」
「では、彼女を救おうとする者は……」
「むろん、いない。俺は、抗議したが十五のガキがなにを言ったところで聞き入れられることはなかった」
「それで……彼女は?」
最後まで聞くことが彼女の義務とばかりに、キーシャは先を促した。
その目は悲痛な色を帯びていた。
話したことも会ったこともないが、じぶんが信じるものによって、その若い命を摘まれた少女に、同情を隠せなかったのだろう。
「正確なことはわからない。しかし、まもなく命を落としたという噂が村に広がった。おそらくそれは、真実だったのであろう」
「そしてジハンさんはその日から信仰を」
「信じ続けられるわけないよな。今まで人びとを救うと思っていたものが、なんの罪もない少女の命を奪ったのだから」
皮肉な調子でフッと笑うジハン。
そんな彼を、少女は寂しげな瞳で見つめる。
自らの生活の根底を支えていた教えのうしろ暗い一面を知ってしまい、言葉が出なかったのであろう。
どんな慰めの言葉も空虚に響くとわかりきった場所では、彼女はただ黙することしかできなかった。
「俺は村を一人出て、町から町をさまよった。はじめは生きるために仕事に就こうともしたが、なにもかもが虚しく感じられてしまった。あとはもういいよな。そのまま路傍の物乞いに堕ちたわけだ」
両のこぶしを固く握り合わせながら、ジハンは述懐する。その目は赤く染まっていた。じぶんがの無力さがなによりも悔しかった。情けなかった。
「あなたが私を助けてくれるのも――」
自身とジハンの記憶の中の少女の符合に気づき、キーシャはつぶやく。
しかし、ジハンはそれを遮り言う。
「心のどこかでは贖罪の気持ちもあるかもしれない。だが、俺は君に助けられて単純に嬉しかった。だから俺も助けたいと思った。それだけだ」
なにかを振り切るように。
彼は強く宣言した。
そしてキーシャはそれを聞き、静かにうなずいた。
二人の眼前にはサタの山が迫っていた。




