汚いおっさん
旅というのは思いの外退屈だ。
目まぐるしく風景が変わる街中を行くのならともかく、だだっ広いだけの平原はずっと見ていると参ってくる。
見渡す限りの草、草、草、たまに岩。
これではどんな風流人でもあっという間に景色に飽きてしまうだろう。
そんなときに人はどうするか。
思索に耽る。
高尚な哲学者さまならそう言うかもしれない。
しかし、多くの大衆はなんの課題も問題も与えられていない中でただ思考を深めていくことを得意としない。
なにをどう考えればいいのか。
なに一つきっかけを与えられず、また思考の糸をたぐる手がかりもないのだから致し方ない。
航海図なしで船を出したところで、まもなくはじぶんの居場所すらわからなくなってしまう。
思索も似たようなものだ。
航海図とは偉大なる先人たちのテキストであり、それがあってはじめてじぶんの思考の立ち位置を明確化することができる。
しかし、歩を進めながら書を開くことはまた難しい。
歩かなければ、旅は進まない。
しかし、歩きながらテキストに没入することはできない。
思索にも、旅の道中にもどこに落とし穴や転び石が待ち構えているかわからないからだ。
だが、しかし人はまた器用な生き物である。
人間が二人いれば、必ず意見の相違は生まれる。
それが、人が人である所以なのだ。
意見の相違は、どんな素晴らしい形而上学的なテキストより人びとの思考を活性化させる。
相違の確認だけでも、人は自らの思考の位置を確認できる。
旅は二人旅がよい。
一人旅の最大の敵である孤独感を退治できるからだ。
そして、長い長い道中で互いに意見を戦わせることができる。
多少険悪になるかもしれないが、少なくとも退屈はしない。
ジハンはこれまで旅の途上にはいなかった。が、彼は一人草原を歩く旅人と同じくらいの孤独を感じていた。
誰も彼もが、ジハンを人として見ていなかったのだから当然だろう。
しかし、そこに突如差した一筋の光明。
彼女は村を出たばかりの人間特有の世間知らずによって、ジハンと会話を交わすことになった。
彼女はジハンの境遇を理解したのかしていないのか定かでないが、とにかく一飯を施した。
そんな心優しくも、どこか抜けている修道女の名はキーシャ。
ジハンはまさかじぶんが巡礼の旅に赴くことになるとは、思いもよらなかった。
運命。
大仰な物言いもしてみたくなる。
そんな引き合わせであったと思う。
視線を隣に向ける。
漆黒のローブに身体をすっぽりとおおうキーシャ。少しサイズが大きいようだ。袖の部分が余っている。
キーシャは笑っていた。
見渡す限りの大草原で見るべきものなどなにもない。
にもかかわらず、彼女は笑い楽しそうに歩を進めていた。
「なにがそんなに嬉しいんだ?」
キーシャの思うところがわからず、ジハンは尋ねた。
「えっ?」
キーシャはそこではじめてじぶんの顔が知らず知らず微笑を浮かべていたことに気づき、慌てて凛とした表情を浮かべた。
しかし、歩調はいまだ溢れる喜びを抑えられないと訴えるように軽やかだ。
「楽しそうだな」
ジハンは穏やかに言う。
「ええ、楽しいです。村から町まではずっと一人だったので……」
「こんな薄汚いおっさんでも、いないよりはマシかってか?」
少し茶化してみる。
キーシャはそんなジハンの言葉にムキになって反駁する。
「そういうことじゃないです! 一人より二人、二人より三人。単純なことです。私だってみなでワイワイと騒ぐのは決して嫌いなわけではありませんから」
修道女らしからぬ発言に、ジハンは鼻白む。
どうやらキーシャは敬虔ではあるが、ただの頭の固い聖職者というわけではなさそうだ。
若いから、さまざまなことに柔軟に対処できるということもあるのだろうけど、キーシャ自身の好奇心によるところも大きいようだ。
「あ、あと言い忘れましたけど、ジハンさんまだまだ若いですよ。おひげをたくわえてらっしゃるから多少は貫禄あるように見えますけど……。心配しないでください!」
なにをだ。
今さらそんな心配をジハンがしていると、彼女は信じて疑わないような物言いだった。
思わずジハンは吹き出した。
まさか自分が本気で年齢より老けてみられることを気にして自虐的に言ったとでも思っているのだろうか。
キーシャは言葉をそのままの意味として受け取りすぎるきらいがあるかもしれない、とジハンは彼女に対しての心象に修正を加えた。
「え、なに笑ってるんですか? そんなに変なこと言いましたか?」
「いいや。そんなことない。けど、俺が変な励まされ方をしたのは、まあ事実だろうな」
「え、あ、嘘。ごめんなさい!」
首筋を赤くして慌てて謝罪するキーシャ。どうにもペースの狂う娘であるが、不思議と話していて不快な感じはいっさいしない。
言葉の端々からキーシャの優しい性格が伝わってくるからだろう。
「まあでも、もう少し冗談を冗談とわかってくれれば助かるかな。俺が毎度慌てることになる」
「……ごめんなさい」
しゅんとして言うキーシャは丸っきり親に怒られた子どもだ。年齢からいって、まだそうしているのが本来であればふつうなのだろう。
改めてキーシャの不遇に思い至って、ジハンは頭が重くなった。
「うん。だからそういうところだ。こんなことで本気で落ち込まなくていい」
今度は声音をできるかぎり優しく。
そして右手でキーシャの肩を二度叩く。
こちらも力は込めない。優しく、一級品の陶器を扱うように。
キーシャもジハンの気遣いを感じたのか、もう謝りすぎることはなく「はい、わかりました」と力強く答えた。
「うん。それでいい」
長い道中だ。できるかぎりお互いのことを理解しておいたほうがいいと、ジハンは思いながら言った。




