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決意

 昼間は食堂として営業し、日が落ちてからは、といっても世界が夕闇に堕ちてしまってからは夕方五時以降からだが、酒場として営業している町一番の大衆食堂で二人はテーブルを挟んでいた。

 二人とは、少女修道士と薄汚い体躯だけはある浮浪者。

 ジハンは気を使って端の席に腰かけたが、キーシャはそんな彼の気遣いもどこ吹く風とばかりに店内をもの珍しそうに見回している。

「大きいですね。村にはこんな規模の食事処はなかったので新鮮です」

「昔は、これくらいの昼時には賑わってたんだがな。今では、見ての通り。年中閑古鳥が鳴く始末だ」

 ジハンの言葉通り、店内は満席にはほど遠く、埋まっている席はジハンたちのほかには二つしかなかった。

「それは、やはり……黄昏に堕ちたことと関係が?」

「大有りだよ。世界が終わるってのに、のんきに酒飲んで騒いでる場合でもないってことだ。今ごろみんな、人間が犯した過ちをひたすら懺悔しているところだろうぜ」

 吐き捨てるようにジハンは言う。

 しかし、そのあとすぐに今目の前にいるのが誰より信心深い修道女であることを思い出し、慌てて口をつぐむ。

 キーシャはなにか言いたげではあったが、それを呑み込むとメニューを覗いた。

「ジハン様は、なにになさいますか?」

「『様』はよしてくれ。そんなガラじゃねえ。せめて『さん』にしてくれや」

「では、ジハンさん。なにをお召し上がりになりますか?」

 そこから二人は各々のメニューを決めて店員の娘に注文を通した。キーシャは清貧を是とする修道女らしく少しのサラダを頼んだだけだった。

 ジハンも遠慮しようとしたが、キーシャがしきりに「気になさらないでください」と薦めてくるので小麦パンと、羊肉のソテーに甘辛いソースをかけた料理を注文した。

 料理が運ばれてきたあと、キーシャは皮袋から数枚の銅貨を取り出し代金を支払った。

 しかし、ジハンはそこで彼女の財布の中身を覗き見て不審そうに眉を細めた。

 多すぎる。

 どこまで向かう気なのかは知らないが、一人の旅費にしてはそれはあまりに潤沢過ぎた。

 大量の寄付が集まるほど、熱心な信者が多い村だったのであろうか。

 ジハンの疑問にはまったく気づかない様子で、キーシャはサラダを控えめに口に入れ、飲み下したあとジハンに尋ねた。

「ジハンさんは、本当に世界が終わってしまうとお思いですか?」

 真摯な表情で、彼女は問う。

 その様子を見て、ジハンも思索を切り上げ、居ずまいを正し答える。

「聖典の預言と合致してるんだろ? 聖職者がそれを疑ってもいいのか?」

 世界が黄昏に染まるとき、終末の鐘が鳴り響き審判のときが訪れる。

 聖書にはそんな文言があったはずだ。

 ジハンは思い出しながら言った。

「いえ、そういうわけでは……。ただ、案外信心深い方であればあるほど、今の事態に際しても落ち着きを保てている印象があります」

 世界を破滅に導くのは、いつでも無知蒙昧の大衆たちだ。

 そんな言葉がジハンの頭によぎる。

 ジハンは羊肉にかかったソースを小麦パンでぬぐいながら、キーシャの言葉を理解した。

 キーシャの言ってることは一見奇妙な現象ではあるが、ジハンはそれをストンと納得できた。

 黄昏の世界についての預言を聞き覚えで知っているくらいの信仰心の薄い者たちほど、今の事態に慌てふためく。

 そんな場面が容易に想像できた。

「そらそうだ。聖職者たちは、あくまで今の黄昏の世界を『審判のとき』だと思っているんだろ。信仰に厚いじぶんたちは、天国に行ける、とでも信じているんだろ」

 言ったあとにパンを口に運ぶ。甘みが口内いっぱいに広がり、遅れてピリリとした感覚が口腔を刺激する。

 うまい。

 ジハンはひさしぶりのまともな食事に身体が震えるほどの感動を覚えた。

 一瞬それが表情に出て、えびす顔を浮かべてしまいそうになったが話題を考えてとっさに引っ込める。

 あくまでパーカーフェイスを保てた。

 ジハンはそう思っていたが、キーシャはジハンを怪訝そうな表情で見つめていた。

 しかし、特に触れることはせずに、言葉をつむぐ。もしかするとキーシャなりに気を使ったのかもしれない。

「もちろんそれもあると思いますが、事態はそう単純ではありません。実際今、教会都市のパスティンでは世界の崩壊を止めるために多くの聖職者たちが結集しています」

 キーシャはキャベツをフォークに突き刺して、それを口に運ぶ姿勢のままかたまり言う。

「聞いたことあるな。教皇の権威のたもとに、すべての宗教勢力を結集し祈りを捧げる。それにより、なんとかして世界の崩壊をストップしようと……。バカげた話にも思えるが、実際あんたらの聖典通りに世界は動いている。思っているほど突飛な話でもないのかもしれないな」

 ジハンのその言葉を聞き、キーシャは幾ばくか考えるそぶりを見せたあと、「実は……」と切り出した。

「私が、村を出たのも巡礼が目的で……」

 そこでキーシャは件のキャベツをようやく口に運んだ。

 歯切れのいい音がかすかにジハンの耳にも届いた。

 そしてキーシャの言葉を聞き、鮮烈なイメージがジハンの脳内を駆け抜けた。

 小さな村の人たちの期待を一身に背負って一人旅立つ少女。世界が本当に終わってしまうのなら、最も重視すべきことは神に対してどれだけ善行を積んだか。

 世界中の聖職者たちは、己が村の人びとたちを代表してパスティンへの厳しい道程を行く。

 それが、彼らの善行を神に伝えるための証になるのだから。

 少女に課せられた十字架はあまりに重い。

 それに考え至り、ジハンはキーシャの境遇を哀れに思った。

 そして彼女の身の安全を憂えて警告した。せざるを得なかったというのが、正直なところだった。

「しかし、わかっているとは思うが、ここからパスティンへの道のりはあんた一人で行くにはあまりに過酷だ。どの道を行っても、サタの山を越えなきゃならん。村からほとんど出たことないような娘が無事に通れる場所じゃねえ」

「……そんなに危険な場所なのですか?」

 初耳だったのだろう。彼女は驚きを浮かべて聞き直した。

「そんなこと、村を出るときに散々……」

 そこでジハンは恐ろしい考えが胸に浮かび、それを打ち消そうとした。

 しかし、常識的に考えれば、それが最も妥当な線であろうと彼は認めざるを得なかった。

(キーシャの村の奴らは、彼女を犠牲にした)

 そのイメージは確信に近かった。キーシャがサタの山について一切聞いていないこともそれで納得がいく。

 彼らは、キーシャがパスティンに到着できるとは鼻から思っていない。

 生贄。

 ほかに言いようなどなかった。

 一人の命を捧げることにより、村人の天国行きを確定させよう、少なくともじぶんたちはそう信じられるようにしよう。

 そんな邪教めいた考えが、いまだに生きていることにジハンは戦慄した。

「……怖い顔をしてどうされましたか? もしかしてまた私、変ことを……?」

 凄まじい形相を顔に張り付けて固まってしまったジハンを見るにつけて、キーシャは不安げに彼の様子をうかがう。

「いや、なんでもない」とジハンは知らぬ間に出た怒りの表情を打ち消してキーシャのほうを見た。

 そこにいるのは、無垢なる少女。

 世界がこんなことにならなければ、今ごろは村の教会で静かに祈りを捧げていたであろう敬虔なる神のしもべ。

 そんな彼女と目があったジハンは、じぶんに与えられた使命を確信した。

 彼は不信仰者であったが、それこそ神からの天啓に違いなかった。

 ジハンは視線を落とし、テーブルの上に置かれた料理を眺めたが、食欲はすっかり消え失せていた。

 ジハンは、哀れな羊からキーシャに視線を移して言った。

 キーシャが無力な子羊に見えてしまったことを否定できなかった。

「キーシャ。新しい契約を結ぼう」

 はじめて少女の名を呼んだ。

 それは、彼なりの仁義の証であった。

 キーシャは名を呼ばれて一瞬嬉しそうな表情を浮かべたが、「新しい契約」の意味に思い至らずに「?」を顔に浮かべた。

「俺はパスティンまでの道案内と護衛をする。その報酬としてパスティンまでの道中、君は俺の食事の面倒を見る。これでどうだ?」

「そんなでも……ジハンさんに悪いです」

「気にしないでいい。ここにいても、俺は明日の飯にも困る身だ」

 苦笑気味に笑う。視線は再びテーブルの料理へと戻る。

 じぶんのほこりのために取り繕っている場合ではなかった。さらに彼は続けて言った。

「それに……せっかく出会ったんだ。ここで別れてしまうのはあまりに悲しい」

 それは紛うことなき本音だった。

 人の優しさを忘れてしまい、道行く市井の人びとを憧憬と憎しみ入り混じる視線で見つめていたときに、キーシャはまっすぐな手を差し伸べてくれた。

 その恩を忘れてしまうほど、ジハンの心は朽ち果てていなかった。だからこそ。

「パスティンまでの道は長い。よろしく頼む」

 恥ずかしさを抑えながら、キーシャの目をしっかりと見つめながら言った。

 キーシャはそんな彼の言葉にハッとした表情を浮かべたが、すぐに満面の笑みを浮かべて

「はい、お願いします!」

 と元気いっぱいに言い放った。

「そうと決まれば腹ごしらえだ!」

「そうですね。あ、じゃあ私追加で注文していいですか?」

 やはり我慢していたのだろう。

 育ちざかりの少女が、サラダだけではあまりに物足りない。

 神もきっと許してくれることだろう、とジハンは嬉々とした表情でメニューをのぞくキーシャを見て思った。


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