出会い
ここから本編。
路傍から眺める人の流れは慌ただしい。こんなときでも世界が休むことなく動き続けていることを教えてくれる。
そのほとんどは時間を資本として活動している行商人たちだ。
彼らは主に町から町へと移動しながらその場所場所の名産品を売り買いしている。
世界がどうなるかはとりあえず棚上げにして、行商人たちは金儲けに全力を尽くす。その日に達成できる利潤の最大化を目的として今日も街を駆けずり回る。商魂たくましいとはこのことか。
人波を眺めながら、ジハンはそんな彼らの姿を忌々しげに見つめる。
住む世界が違う。
世界が終わるというのに、ジハンと彼らの間には明確な違いがある。
それは、どんな事実よりも高い壁として人びとを分かつ。
活気づく町の様子をしばらく無言で見つめたあと、ジハンはじぶんの身なりを改める。
ボロと変わらない薄汚れた装い。
最後に洗濯したのはいつなのか。本人ですら思い出せない。
しかし、ジハンは羞恥を覚えない。どうせ世界はもう……。
終末だけは平等に訪れるという事実に、彼は安心すら覚えた。
道行く人びとは総じてジハンに対して憐れみを帯びた視線を向ける。
しかし、そこには侮蔑の色が含まれていることも彼は見逃さなかった。
人はじぶんより明確に下の人間を見つけることにより、安心という名の幸福感を享受する。
すべてが平等な社会は、幸福な社会とはいえないだろう。
どうせお前たちもあと数カ月で俺と同じように……。
しかしジハンは、このとき異質な優越感に浸っていた。
だが、そんなことを思っていたジハンはじぶんを見つめる視線に気づいた。いや、正確にはどこからか見られているような気配。
その主は、通行人からは発見できない。
ジハンはたまらず周囲を見回した。その瞳は落ち着きなく震えていた。
「こんなところでなにをしているのですか?」
透明な声は、それだけ無垢であることを示唆するような。
そんな声がジハンの耳に飛び込んだ。
「お家はどこですか?」
気遣わしげな声色。
鼓膜を優しくなでる声は、本能的な安心感をもたらす。
ジハンは声のするほうを見上げる。それは、路傍に座り込む彼のちょうど斜め上から聞こえていた。
終末を告げる堕天使。
視界にとらえた瞬間に、ジハンはそう直感した。
だが、それはある意味で真逆の感想だった。
全身を黒衣で覆い、漆黒のベールで頭部をおおうその声の主は、一見して修道女とわかる装いだった。
上背は低く、その表情はまだ幼さを残している。まだ「少女」と呼ばれる年齢であることが一目でうかがい知れた。
「大丈夫ですか? お腹が空いて話せないのですか?」
呆けた表情でじぶんを凝視するジハンになにを勘違いしたのか、修道女は本気で心配そうだ。
「――腹は減っているが、なんとか話せる」
ジハンは一応そう答えておいた。
しかし、親切な修道女は依然心配顔を張り付かせたまま、尚もジハンをうかがう。
「お家はどこですか? ご家族は? どうしてこんなところで座り込んでいるのですか?」
矢継ぎ早に浴びせかけられる質問。
どこの町でも浮浪者や物乞いの類いは日常的に見かける光景だが、彼女にとってはその通りではないようだ。
「あ、もしかして怪我をして動けないとか!? 大変!」
そう言うと、修道女はジハンの答えを聞きもせずに、腰に付けた皮袋からハンカチを取り出す。
傷口をぬぐおうということなんだろうが、生憎ジハンは怪我ひとつしていない。
「違う違う」
両手を修道女に向けてかざし、手のひらを左右に振りながら慌てて否定する。
「……違うのですか? では、なぜ?」
キョトンとした表情で、修道女は問う。
本気で理解できていないことが一目でわかってしまうくらいには、彼女の表情は雄弁だった。
「なんでって……それはもしかして皮肉で言ってるのか? 敬虔な神のしもべ様」
少し意地悪な言い方をしてしまったが、ジハンも本気で目の前の世間知らずな修道女がそんな皮肉屋であるとは思っていない。
ただ、あまりに単純な答えしか用意できないじぶんが情けなくて、思わず煙に巻いてしまっただけだった。
「いえ、決してそのようなつもりでは……」
案の定、修道女は当惑の面持ちでつぶやく
その儚げな声は、ジハンにじぶんのやり過ぎを反省させてしまうくらいの威力があった。
しかし、当の本人はそんなことまったく及びもつかずに「不快な思いをさせてしまったなら、すみません……」とますます語調を弱めていた。
彼女が本気で落ち込んでしまっていたことが、うかがい知れた。
しかし直後に彼女は、俯けた顔を上げて気遣わしげな様子でジハンにこう尋ねた。
「でも……もしよろしければ、理由をお聞かせいただけませんか? もしかすると、私もなにかお力になれるかもしれませんし……」
真剣で、それでいて固い意志に守られた声。
そのあまりに真面目な様子に、ジハンは知らぬ間に笑ってしまっていた。
苦笑に、ほんの少しの喜びを込めて。
形はどうあれ、他人にこんなにも温かく接してもらえることが長らくなかったジハンにとってそれは、素直に嬉しいことであった。
齢、十四、五の無垢なる修道女。
彼女の言葉と態度には、彼がいつも晒されていた嘲りは欠片も感じられなかった。
じぶんの言葉が、今度は一転して孤独な浮浪者を知らず知らずに救っていたことなどまったく気づかない修道女は、突然笑みを浮かべたジハンを見て、またもや困惑していた。
「また、私おかしなことを……?」
「浮浪者に向かって、『どうしてあなたは浮浪者なのですか』と尋ねることができる人もいないからな。そういう意味では珍しいよ」
ジハンは心底、愉快そうに話す。
怒る気にもなれない。
そしてそんなバカげたことを尋ねるのは、年端もいかない少女修道士。
これに、怒りで声を荒げろというほうが無茶な相談だ。
「フロウシャ……?」
彼女はジハンの言葉をオウム返しする。
しかし、その声色には聞きなれぬ単語を耳にしたときの懐疑に満ちている。
「お嬢ちゃん、この辺の者じゃないな。その分だと、どこかの村から出てきたばっかりってところだな」
都市。
というには少し貧相な街並みではあるが、その病理を知らないということは、彼女はどこかの集落の出なのであろう。ジハンの脳内にはそんな推測が組み立てられた。
「――どうしてそれを?」
図星だったようだ。不思議そうに修道女は尋ねる。
「どうしてもこうしても、町の奴らが当たり前の風景として認識しているものに、要するに俺たちみたいな道で野垂れ死にかけている連中のことだけどな、そんなものに――」
「野垂れ死にかけているのですか?」
先ほどまでと打って変わっての強い語調。ジハンの言葉を中途で遮って修道女は問う。
その目は、これまで話してきたなかで最も強い光を宿していた。
「比喩だよ、比喩。冬に二、三人ポックリ逝っちゃう奴もいることはいるが、ほとんどはなんだかんだしぶとく生きてるよ。誰に望まれもせずにな」
「そんなことはありません。主は、すべての人びとの幸福を祈っておられます」
突然、話のスケールが大きくなる。ジハンは戸惑ったが、ほどなく彼は納得する。
そうだ。この子はシスターだった。
そにしても……。
ジハンは驚いた。どれだけ若くとも、彼女は敬虔な神のしもべなのだ。
信仰を持たない彼にも、それは理解できた。
だからこそ、彼女の信じる神とやらの不誠実さに怒りを覚えずにはいられなかった。
「そうは言うけどよ。俺はこの目で見てきているんだぜ。そんな偉大なる主とやらのお眼鏡にかなわずに、無様に死んでいった奴らの姿を」
大人げないこととはわかっていた。
しかも、いくら理を持ってして彼女のような信仰者を説得しても、その信仰が揺るぐことは微塵もないことをジハンは痛いほどに知っていた。
だが、そんな彼の心とは裏腹に言葉は独りでに溢れ出てきた。
「この世界で、ほんとうに幸福に生きてる人間なんて一握りだ。ほとんどの奴らは明日の飯の糧を得るために今日も必死に仕事してる。もうすぐ世界が終わっちまうってのに……」
勢い込んでまくし立てたジハンであったが、最後は蚊の鳴くような声になってしまっていた。
じぶんのやっていることが、あまりに無為であることに気づいたのだ。
いや、彼はそんなことは鼻からわかっていた。
修道女は、ジハンの言葉を打ち切ることはもうせず、ただ静かに彼の叫びに耳を傾けていた。そして
「主は、すべてを見てくれています。今、貧しいことは主が与えたもうた試練なのです。そして、明日の糧を稼ぐために一心に労働に励むことを主は、推奨しております」
と彼女は、信仰者の理をもってして答えた。
毅然としたその声は、じぶんの聖職者としての役割をしっかりと理解していることを示していた。
完璧な解答だ。
ジハンは思わず感心した。
沈みゆく太陽が硬直してしまった永久の黄昏は、彼女の表情を夕日色に染め上げた。
それは、かの幼き聖職者に一種の威厳を与えた。気まぐれな神のささやかな贈り物だったのかもしれない。
修道女の断固たる態度を前に、これ以上の議論は平行線を辿るだけだと思い、ジハンは会話を閉じようと試みた。
「よしわかった。俺は、神様の真意なんて高尚な議論をぶち上げる知性は持ち合わせてねえ。だからこの話はもうよしだ」
その言葉を聞いて、存外少女はあっさりと手打ちに応じた。
もともと温暖な気質が、諍いを好まないであろう。
「そうですね。私も、今は主の真意よりも一人のフロウシャを援助することにしましょう」
あまりに快活に言ってみせる彼女の様子に、ジハンは思わず吹き出した。
悪気はない。
わかっているからこそ、彼も笑い飛ばせるのだ。
「お嬢ちゃん。あんまりに他人に面と向かって浮浪者なんて言わないほうがいいぜ。俺は構いやしないが、たぶんほとんどの奴らは激昂するぜ」
「えっ、フロウシャには侮蔑の意味が含まれているのですか!? すみません。私てっきり旅人さんを指す言葉なのかと……」
「ハッハッハ。旅人か、違いねえ。飯が食えるならどこへでも移動するからな。俺らは」
「……ごめんなさい」
都市と村の違い。
ジハンはかつての故郷を思い出していた。
こんな些細な一件でもその大きさを痛感するのだから、村というのはジハンが思っていたのよりも隔絶された世界のなのかもしれない。
だから今、目の前にいる少女がたった一人で村を出て決して近くとはいえないこの町に出てくることは、相当に心細いことだったに違いない。ジハンは彼女の心中を慮って、心が重たくなった。
一方で、コロコロと表情が変わる少女は、またしても落ち込んでしまったようだった。
失礼な発言をしてしまったことによる申し訳なさと、じぶんがあまりに無知であることを突き付けられたことによる無力感。おそらく二つの感情が少女の胸の中で渦巻いているのだろう。
「しかも、いくら俺たちが明日の飯にも困るような身分だとしても、あんたみたいなお嬢ちゃんに『援助する』と言われて、はい、そうですかと受け入れるもんでもねえぜ」
「……それは、遠慮してらっしゃるのですか?」
「俺たちにもプライドってものがあるからな」
実際は、残飯漁りすら躊躇なくしてしまえるくらいには堕ちていたが、純粋無垢な彼女を前にするととっくに捨てたはずの誇りが蘇ってくる気がするのだ。
自然に背筋も伸びる。緊張しているのか、じぶんの意外な感情にジハンは内心で苦笑する。
「でも、それじゃあなたのお食事が……」
「大丈夫だ。そんなの、どうとでもなる」
「……どうするおつもりですか?」
疑い深そうな声音で彼女は問う。
清廉な彼女にとって、ジハンがどのように生計を立てているのかはまったく推測がつかないのであろう。
聖典には、アンダーグラウンドに身を置くものの処世術は書かれていない。
神はきっとゴミを漁らなければならない身分を経ていないのであろう。当たり前だが、それが神が神たるゆえんでもある。
「俺は毎日毎日、この町でなにをするでもなく暮らしているんだぜ。そう簡単に餓死することはねえから、心配すんな」
努めて明るく言ったつもりだったが、修道女は疑いの影を表情から消そうとしない。
しかし、ジハンが駄目押しで言葉を重ねようとしたときであった。
少女の憂いを帯びた瞳が、パッと年相応の明るく無邪気なそれに変わった。
「そうだ! では、こうしましょう! 私は、この町に到着したばかりで土地勘がまったくありません。だから、あなたに食事処を含めて町の案内をお願いしましょう。そして私は、あなたにお礼として一飯を御馳走します!」
それがベストの選択肢だと、信じて疑わぬように彼女は言った。
「でも、それじゃいくらなんでも――」
「これは喜捨ではありません。れっきとした労働です! だからあなたはなにも心配する必要がないのです。幸い私には、村の人びとから預けられた多少のお金があります。このような使い方をするならば、主もきっとお喜びになるでしょう」
温和な言葉づかいでハキハキと言ってみせる。
その口ぶりは嫌味なところがまったくなく、清々しい。
しかし、そこには有無を言わさぬ響きが含まれていることをジハンは見逃さなかった。
(もしかするとこの子、思ったより押しの強いところがあるのかも……)
そんなジハンの逡巡を知ってか知らずか、少女は「異論ないですね?」と満面の笑みで迫る。
意志の強さ。そう言ってしまうにはあまりに無邪気な彼女の笑顔。
「ああ、オーケーだ。それで行こう」
降参だ。
初対面の少女にいいように言いくるめられるじぶんが少し情けなくもあったが、ジハンは彼女の胆力に免じてこれ以上の抵抗はあきらめることにした。
そんなことを思ってはいたが、要するにジハンも腹が減っていたのだ。
「では、契約成立ですね。よろしくお願いします! ええっと……」
「ジハンだ」
「ジハンさん! いい名前ですね! 私はキーシャと申します」
「キーシャね……。そりゃまた、ボランティアの好きそうな名前で」
「えっ、どういう意味です?」
キーシャは大きな瞳を真ん丸にして尋ねる。
それが可愛らしくて、ジハンはほんの少しいじわるした。言いくるめられた仕返しのつもりもあった。
「じぶんがさっき言ったことをよく思い返してみな」
言い残すと、ジハンは立ち上がり、ズボンのお尻についた泥を軽く払う。
そして「飯、行くんだろ?」と一人でさっさと歩いて行ってしまった。
「えっ、ちょっと。まださっきのなぞなぞの意味を教えてもらって、ちょっと待ってくださいよお」
ジハンの背中を追うのは黒いローブをまとった齢、十四、五の若き修道女。
相変わらずの黄昏は、二人を平等に照らしていた。
世界の終末は近いというのに、二人の旅路の第一歩は、それはそれは暖かなものだったという。




