第38話:泥濘(でいねい)の帰郷
1. 境界の重圧
メルディナの「交換可能な理」が支配する喧騒を離れ、一行は再びグレースランドの領内へと足を踏み入れていた。
かつて旅の途中で立ち寄った宿場町『ベルン』を通り過ぎる頃、空は低く垂れ込め、まるで行く手を阻むかのように重い湿り気を帯びた風が吹き抜けた。
「……ようやく、戻ってきちまったな」
ルシアは、泥に汚れ始めたブーツの先を見つめながら、吐き捨てるように呟いた。
腰に巻かれた「ドラゴンスレイヤー」は、メルディナを離れて以来、あの不気味な脈動を止めている。
だが、その沈黙こそがルシアには恐ろしかった。
まるで、この剣が「自分の庭」に戻ってきたことで、より深く、逃れられない根を自分の中に下ろそうとしているような気がしてならなかった。
「……ねえ、ルシア。さっきから溜め息ばっかり。せっかく故郷の土を踏んだっていうのに、お葬式みたいな顔して」
リフルが、道端の小石を鋭いキックで弾き飛ばしながら声をかけた。
彼女はベルシュタイン家の令嬢でありながら、その華奢な体には洗練された格闘術の技が叩き込まれている。
彼女の放つ一撃は、下手な魔法よりもよほど「現実的」な破壊力を持っていた。
「……お葬式だよ、俺にとっては。メルディナならまだ、誰かにこの剣を押し付けられる可能性があったかもしれないだろ?
でも、ここはグレースランドだ。一度引いたクジは、死ぬまで変わらない。……この重さを一生背負っていく実感が、少し湧いてきたんだよ」
ルシアは、剣の柄を、忌々しそうに見やった。
2. 淀む空気と、理の沈黙
街道を進むにつれ、一行を包み込む「グレースランドの理」は、ますますその堅苦しさを増していく。
メルディナの街にあった、あの「明日には何か変わるかもしれない」という微かな、だが出鱈目な期待。それがここには一切存在しない。
あるのは、神が定めた運命に従い、決められた役割を淡々とこなす人々の、静かで、冷え切った日常だ。
「……ルシア殿。その表情、あまり感心しませんな。運命を呪うことは、すなわちこの国の神を否定することになりますぞ」
エルドが、手にした聖典の角を指でなぞりながら、窘めるように言った。だが、その声にもいつものような力強さはない。
彼もまた、メルディナで目撃した「書き換えられたリスト」の不気味な影を、完全には振り払えずにいた。
「否定したくもなるさ。……司祭様。アンタはいいよな、『聖職者』っていう、みんなから敬われる役割を引けたんだから。
俺は、引きたくもない『英雄』のクジを引かされて、魔王だの竜だのに怯えて暮らすハメになったんだ。……代わってくれるか? この、肩が抜けるほど重い特賞をさ」
ルシアの投げやりな言葉に、エルドは一瞬だけ口を噤んだ。
「……代わることは、叶いませんな。それが、グレースランドの理なのだから」
「……分かってるよ。だから、クソだって言ってるんだ」
ルシアは、力なく歩みを続けた。
希望も、野心もない。あるのは、自分一人では到底抱えきれない「役割」という名の重圧と、そこから逃げ出したいという、切実で、卑小な願いだけだった。
3. 格闘家の苛立ち、騎士の沈黙
「……はぁ。もう、聞いてるこっちまで拳がムズムズしてくるわね」
リフルが、苛立ちを隠さずに自分の拳をボキボキと鳴らした。彼女にとって、ルシアのこの「徹底した後ろ向きさ」は、理解しがたいものだった。
「あんた、そんなに嫌なら、いっそのことその剣、どこかの谷底にでも投げ捨ててきたらどうなの!? そうすれば、ただの『剣を持ってない、不運な男』に戻れるじゃない」
「……捨てられるわけないだろ。一度捨てようとしたけど、気づいたら枕元に戻ってたんだよ、こいつは。
……それに、もし捨てたとしても、俺の『当選記録』は神殿の帳簿にバッチリ刻まれてる。
一生、『剣を捨てた無責任な英雄候補』として指名手配されるだけだ」
「……最悪ね。逃げ場なしってわけ」
リフルは、憐れみの混じった視線をルシアに向けた。彼女は魔法を使えない代わりに、自らの拳で運命を切り拓こうとする意志を持っている。
だからこそ、システムに縛り付けられ、藻掻くことすら許されないルシアの姿が、ひどく歪に見えた。
その横で、聖騎士ロゼリアは一言も発さず、ただ黙々と、周囲を警戒しながら歩を進めていた。
彼女の銀色の甲冑が、グレースランドの鈍色の空の下で、どこか寂しげに光っている。彼女もまた、この理の中に生きる一人として、ルシアの絶望を否定できずにいた。
4. 帰郷、あるいは閉ざされた日常へ
やがて、一行の視界の先に、グレースランドの象徴とも言える、巨大な大聖堂の尖塔が見えてきた。
帰ってきたのだ。
自分が、あの忌々しい「特賞」を引き当てた、すべての始まりの場所へ。
「……あーあ。戻ってきちゃったな。本当に」
ルシアは、足が止まりそうになるのを必死に堪えた。
門をくぐれば、そこには「英雄様のお帰りだ!」と、何も知らない民衆が(皮肉なことに)期待の眼差しで待っているかもしれない。
あるいは、神殿の役人たちが、次の「役割」を携えて待ち構えているかもしれない。
「……ルシア殿。行きましょう。逃げることは、もはや許されぬのですから」
エルドが、ルシアの背を優しく、だが逃げ道を塞ぐように押した。
ルシアは、「ドラゴンスレイヤー」を、まるで唯一の呪いであるかのように強く抱きしめた。
「……わかってるよ。……わかってるけどさ」
ルシアは、震える足で一歩を踏み出した。
前向きな決意なんて、これっぽっちもない。
あるのは、ただ、この重苦しい日常をもう一度、ズルズルと引きずりながら生きていかなければならないという、絶望的な諦念だけ。
メルディナで見聞きした「ドラゴンキラー」の影。
書き換えられたリスト。
それらが、グレースランドの「不変の理」とどう交差していくのか、ルシアは知りたくもなかった。
ただ、一刻も早く宿に戻って、この重い剣を置いて、夢も見ずに眠りたかった。
夕闇が、グレースランドを飲み込んでいく。
一行の足跡は、湿った土の上に深く刻まれ、そして二度と消えることなく、理の中に定着していった。
仕事や都合で、9時更新になります。
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