第35話:調整者の秤、英雄の価格
石造りの役場の一室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁一面に整然と並ぶ棚には、年代ごとに分類された羊皮紙の束と、厳重に封蝋された木箱が収められている。
グレースランドの神殿が漂わせる「祈りと香油」の匂いではない。ここを支配しているのは、乾燥したインクと、古びた紙、そして膨大な数字が放つ「記録」の匂いだ。
机の向こう側に座る男は、羽根ペンを置くと、ゆっくりと眼鏡の縁を押し上げた。
痩せ型で、どこにでもいそうな四十前後の男。聖職者のような慈愛も、貴族のような傲慢さもない。
そこにあるのは、ただ目の前の事象を処理することだけに特化した、完全な「役人」の顔だった。
「――で、グレースランドの司祭殿が、当町の福引制度に異議を?」
淡々とした、抑揚のない声。それは糾弾でもなければ、遠い地から来た者への嘲笑でもない。ただの、事務的な確認だった。
エルドは、握りしめた杖を石畳の床に静かに突き立てた。その指先は、怒りか、あるいは別の感情か、わずかに震えている。彼は言葉を慎重に選び、絞り出すように問いかけた。
「異議ではない。確認だ。……町の掲示板にあった文言。『上位当選者は、その役割を任意で下位のものと交換可能である』……あれは、誠か?」
男は一瞬の迷いも見せず、澱みなく頷いた。
「事実です。メルディナ市条例、第十四条に基づいた正式な規定です。何か問題でも?」
「……なぜだ」
エルドの声が、低く地を這うように響く。それはもはや怒りというより、根源的な恐怖に近い響きを含んでいた。
「福引とは、運命の確定だ。天から与えられたクジを引いた瞬間に、その者の役割は固定される。
重かろうが、苦しかろうが、それが世界の理だ。それを……人の都合で“交換”するなど、あってはならない冒涜だ」
男は、面倒なクレーマーをあしらうかのように、軽く肩をすくめた。
「困るからですよ」
あまりにも即答だった。
「強すぎる役割……例えば『勇者』や『聖者』といった特等を引き当てた者が、その重圧に耐えきれず壊れる。
逆に、軽すぎる役割を引いた者が、その無力さを言い訳に社会的な責任から逃げる。
そんな個人のミスマッチを放置して、このメルディナが機能不全に陥るのを黙って見ていろと? 我々は、調整するしかないのですよ。効率のために」
「それは、理への冒涜だ。神が定めた運命を、貴様らは……!」
「いいえ」
男は、机の上に置かれた一枚の書類を、エルドの方へと滑らせた。
「それが、この町の理です。見てください、この数値を」
紙には、過去数十年分にわたる当選履歴と、その後の「交換」の記録が、残酷なまでに整然と記されていた。
役割を返上した者の名。それを引き継いだ者の名。そして、その結果として「魔物による死亡率」が劇的に低下したという統計データ。
「福引は神の遊戯ではありません。社会を維持するための装置です。適材適所……それを『運命』という言葉で思考停止する代わりに、我々は『契約』で管理しているに過ぎません」
エルドの喉が、わずかに鳴った。
神学の頂点に立つ司祭として、彼はこの論理に反論しなければならない。だが、目の前の数字は、この「冒涜」が多くの命を救っているという現実を突きつけていた。
「……ならば、特賞はどうする。伝説の剣……その役割も、交換したのか?」
ルシアは背後で、己の腰に下げられた鈍色の剣を意識した。伝説の剣。福引で引き当てて以来、一度としてその重荷から逃れられなかった「呪い」のような幸運。
男は初めて、書類から視線を上げ、ルシアを……正確にはその腰の剣を真っ向から見据えた。
「特賞は、原則として交換不可です。あまりにも出力が強すぎて、適合者が限られるからです。
……ただし、町が存続の危機にあると判断した場合のみ、例外が認められる」
男は一拍置いて、告げた。
「町が、託すのです。最も効率よくその力を行使できる個体へと」
部屋の空気が、凍りついたように静まり返った。
「……人が、選ぶと? 運命の行き先を、貴様ら人間が操作するのか?」
「人が、背負わせるのです。英雄という名の『生け贄』をね」
エルドは理解してしまった。
このメルディナにおいて、英雄とは「神に選ばれた輝かしい者」ではない。社会という歯車を回すために、最も効率的であると判断され、役割を押し付けられた「部品」に過ぎないのだ。
「司祭殿」
男は事務的に、話を締めくくろうとした。
「あなたの言う理が正しいのか、我々のやり方が正しいのか。それを決めるのは、神でも制度でもない」
「――結果です」
沈黙が部屋を支配した。
エルドは、ゆっくりと、折れそうなほど細い肩を揺らしながら立ち上がった。
「……この町は、危険だ。グレースランドの教えとは、あまりにかけ離れすぎている」
「ええ」
男は否定しなかった。彼はまた、次の書類にペンを走らせ始めている。
「ですが、見えない運命に怯えて滅びるよりは、ずっと“人間的”でしょう?」
部屋を出るルシアの耳に、ストーリアの冷ややかな囁きが届いた。
「……ルシア。あの男、嘘は言ってない。でも、肝心なことを隠してる。この町の記録にあるのは『キラー』だ。
君の『スレイヤー』じゃない。その“差額”は、一体誰が支払ったんだろうね?」
一行は、さらに深い闇へと足を踏み入れようとしていた。
コレはなかなかに難しい問題だ…
明日は多分8時!




