第23話:太陽の刻印
氷の回廊に、絶望を咀嚼するような湿った音が響き渡る。
ヴァルガスの喉を震わせる咆哮は、もはや人間のそれではなく、死に物狂いの獣の叫びだった。
ロゼリアの振るう剣閃は、冷徹なまでに無駄を削ぎ落とした死の軌跡を描き、飛来するワーバットの翼を次々と叩き落としていく。
彼女は時折、短縮詠唱による氷結魔法を織り交ぜ、孤高の剣士としての格の違いを見せつけていた。
だが。
その狂乱の死闘から、ルシア一人だけが残酷なまでに隔絶されていた。
彼はその場に立ち尽くしていた。
両手で握る伝説の剣――その緋色の刃は、もはや武器としての体を成していない。
ただ、持ち主をこの場に縛り付ける呪いの楔として、その圧倒的な質量を誇示していた。
重い。
あまりにも、重すぎる。
それは物理的な斤量を遥かに超越していた。
あの日、あの神聖不可侵なる福引の儀において、世界の理が抽出した「特賞」という名の運命。
「英雄」という、望んでもいない役割を強制された者の背負うべき重圧。
それが今、ルシアの細い腕を、そして精神を、泥沼のような絶望へと引きずり込んでいた。
(……俺は、ここで何を見せられているんだ?)
自嘲的な思考が、冷気に混じって脳裏を侵食していく。
目の前で、仲間たちが血を流している。
一歩間違えれば命を落とすような死線の真っ只中に、彼らはいる。
対して自分はどうだ。
伝説の武器を手にしながら、一太刀も浴びせることができず、ただ守られるだけの「不随物」と化している。
――いや、それこそが世界の望みなのかもしれない。
理によって選ばれた「英雄」は、ただそこに存在するだけでいい。
周囲の人間がどれだけ命を削ろうとも、主役が輝くための舞台装置に過ぎないというのか。
その事実が、怪物に噛み砕かれる恐怖よりも深く、ルシアの心を鋭く削り取っていった。
その時。
戦場の均衡を乱す、不浄なる影が動いた。
乱戦の隙間。
影に潜んでいた、一際巨大なワーバットが音もなく飛翔した。
それは死肉を好み、弱者を嘲笑う下等な魔物。
だが、その濁った瞳はこの瞬間、世界の理に導かれるように、無防備なルシアの死角を捉えていた。
「ルシア、危ないッ!」
ロゼリアの鋭い警告が響くが、彼女の剣は目前の群れに阻まれ、届かない。
回避する術は、ルシアにはなかった。
ただ、迫り来る死の予感に、反射的に目を瞑ることしかできなかった。
蝙蝠の鋭利な鉤爪が、空気を切り裂き、ルシアの額に迫る。
そこには、あの不可避の儀式の直後、逃れようのない宿命として刻み込まれた「紋章」があった。
――瞬間。
迷宮の深淵に、本来存在してはならない「絶対の理」が顕現した。
ドォォォォンッ! という地響きのような衝撃波と共に、爆発的な閃光が回廊を埋め尽くす。
それは松明の揺らめきでも、魔導士が紡ぐ高位呪文の輝きでもなかった。
天上界に君臨する真昼の太陽そのものを、無理やり地底の奥底へ引きずり下ろしてきたかのような、暴力的なまでの白銀。
それは温かな光などでは断じてない。
不純物を。
そして運命に背こうとする不心得者全てを焼き払う、神聖不可侵なる「拒絶」の波動であった。
「キィイ、アアアアアアアアッ!?」
断末魔の悲鳴が、氷の壁に反響し、鼓膜を劈く。
ルシアの額に触れた個体は、燃え尽きる暇さえ与えられず、一瞬で分子レベルへと分解され虚空へ消えた。
それだけではない。
回廊を埋め尽くし、仲間たちを包囲していた数百の影が、太陽の直射を浴びた残雪のように、音もなく消失していく。
闇が、光に喰われていく。
捕食者であった魔物たちが、理という名の圧倒的な力によって、存在そのものを否定されたのだ。
やがて。
迷宮に、静寂が戻った。
先ほどまでの血の匂いと喧騒が嘘のように、ただ光の残滓だけが、雪のように宙を舞っている。
ヴァルガスも、ロゼリアも、リフルも。
死線を潜り抜けてきた熟練の冒険者たちが、一様に、言葉を失った彫像のように固まっていた。
その視線の中央に、一人の青年が立っている。
伝説の剣を杖のように突き、肩で息をする、どこにでもいるはずの青年が。
「ルシア殿、これは……なんと……」
ヴァルガスの震える声には、称賛ではなく、根源的な「恐怖」が混じっていた。
「ちょっと……何今の。冗談でしょ……?」
リフルが、信じられないものを見たというように目を見開く。
彼女はベルシュタイン家の令嬢として、古今東西のあらゆる魔導や伝承を英才教育で叩き込まれてきた。
だが、今の「現象」は、彼女の知識の範疇を完全に逸脱していた。
リフルは震える手を隠すように、大好きなロゼリアの背後へ一歩寄り添った。
「英雄殿……やはり、貴方は、選ばれたお方だったのですね……」
唯一、司祭エルド・アッシュマンだけが、狂信的な恍惚をその瞳に宿していた。
法の番人である彼にとってこの惨状は、世界の理が正しく機能していることを示す、何よりの福音に他ならなかった。
「あ、え、……? 俺、どうなってんの?」
ルシアは、まだ残像がちらつく視界の中で、おそるおそる己の額に触れた。
熱くはない。痛みもない。
だが、そこには何かが、圧倒的な質量を持って居座っている。
一度回したら最後、二度と取り消すことのできない「特賞」という名の呪縛が確かにそこにあった。
「いきなりぶつかってきたと思ったら、勝手に光るなんて……。参ったよ、本当に。なぁ、もう敵はいないんだろ? ほら、あそこに出口らしきものも見えてるじゃないか」
彼は、自分を見つめる仲間たちの、あまりにも鋭く、そして崇めるような視線に耐えかねた。
その視線から逃げるように、再び緋色の剣の柄を握る。
ズルり、ズルり。
岩肌を削る鈍い音が、静まり返った回廊に響く。
「さあ、行こう。早く帰って、柔らかいベッドで寝たいんだ。……こんな重い剣、もうこりごりだよ」
その背中には、伝説を背負った英雄の気高さなど微塵も感じられない。
ただ、身の丈に合わない運命を無理やり着せられた小市民の、悲哀と困惑が滲んでいた。
だが、その歩みが止まることはない。
彼がどれほど「ただのルシア」であろうと願っても、世界はそれを許さない。
理の歯車は、より残酷に、より正確に、彼をさらなる深淵へと押し流していく。
終わりの始まりを告げる光が、今、迷宮の奥底で燻っていた。
ルシア、まだまだ軽い!
明日も20時予定です!




