第22話:竜の回廊
「リフル殿……お主、今なんと申された……!」
エルドの掠れた声が、湿り気を帯びた回廊の壁にぶつかり、幾重にも反響した。
その瞳には、聖職者としての信仰心を通り越し、世界の禁忌――その最奥に隠された「真理」に触れてしまった学究者特有の、狂気にも似た悦びが揺らめいている。
リフルは薄暗い闇の中で、どこか超越的な、見る者の背筋を凍らせるほどに美しい薄笑いを浮かべたまま、視線をさらに暗闇の深淵へと据えて答えた。
「そうよ。ここは、内臓なの。
……さっき、お姉様の神聖な魔力と私の感覚が繋がった時、見えてしまったのよ。岩肌だと思っていたものは、肥大化した細胞の壁。
迷宮の拍動は、絶え間なく繰り返される蠕動運動……。比喩でも空想でもない、これが剥き出しの真実。すごいでしょ? 私たちは今、神話の化身の胎内に飲み込まれているのよ」
「そうだ……間違いない! 私が先ほどから感じていた、この奇妙な魔力の波長、そして空間そのものが歪むような全能感。
このダンジョンは、ドラゴンの内臓そのものではないか! 一度奈落まで下がり、そこから再び天を突くように急上昇するこの不自然な構造……
まさしく、巨大な生物の胃と腸の配置そのものだ。これぞ古の禁書にのみ記された『生ける迷宮』の正体……
数千年前、天を焦がした伝説の龍の死骸そのものが、長い歳月をかけて迷宮化したという禁忌の仮説が、今ここで証明されたのですな!」
エルドの興奮を裏付けるように、一行が進む急勾配の下り坂は、唐突に壁が脈打つような不気味な震動と共に、猛烈な上りへと転じた。
ルシアは荒い息を吐き、膝を突きそうになりながら、一歩一歩、粘着質な石畳を登り切った。
その先に広がっていたのは、もはや「広間」と呼ぶにはあまりに生々しすぎ、あまりに冒涜的な空間であった。
うねるような岩壁は、松明の光を吸い込むほどにどす黒い赤色を帯び、岩肌からは正体不明の、鼻を突くような酸っぱい臭いを放つ粘液が滴り落ちている。
むせ返るような獣の臭い。そして、肌にまとわりつく湿り気を帯びた、粘着質な気配。
ここは、静止した石の迷宮ではない。今もなお、何かを喰らい、消化し続けている「巨大な生命の残滓」そのものだ。
その時。
――キィィィィィィィィィッ!!
鼓膜を直接、熱く焼けた針で突き刺すような、不快な高周波の絶叫が闇の奥から飛来した。
「な、なんだ……っ!」
ルシアが声を上げるより早く、ロゼリアが動いた。
抜刀の金属音すら置き去りにする、神速の『ソード・オリヴィア』の一閃。
白銀の閃光が闇を切り裂き、直後、ドサリという重苦しい衝撃音と共に床に叩きつけられたのは、人間ほどの大きさがある巨大な蝙蝠――「穴棲みの吸血翼」の死骸だった。
それはもはや生物というより、悪意が皮を被ったような醜悪な肉塊だった。
だが、それは地獄の幕開けに過ぎなかった。
松明を掲げ、闇の天井を見上げれば、そこには数え切れないほどの緋色の眼が、星のように不気味に瞬いていた。何百、何千という飢えた瞳が、新たな獲物の飛来を待ち構えていたのだ。
「こ、こんなにいるの⁉︎」
ロゼリアの構えが明らかに変わる。
「来るぞ! 総員、陣形を組めッ! 一歩も退くな!」
ヴァルガスの顔が、一瞬にして戦場を支配する「鋼の壁」の威厳へと変貌した。いつもの豪放な笑いは微塵も残っていない。
重厚な鎧を鳴らし、巨大な盾を構えるその姿は、荒れ狂う怒濤の中でも決して揺るがぬ絶壁のようだった。
ルシアは咄嗟に、右手の緋色の剣を構えようとした――。
「……ッ!? 動か、ない……っ!」
腕に青白い血管が浮き出るほど、折れんばかりの力を込めても、伝説の剣『ドラゴンスレイヤー』は、まるで地面に根を張った巨大な鉄柱のようにルシアをその場に縛り付ける。
抜くのではない。ただ持ち上げる。それだけの、本来ならば容易い動作が、今のルシアには「世界の質量を片腕で支える」ことと同義であった。
「きなすったな! さて、特賞を引き当てた幸運の英雄殿の御前だ。存分に暴れさせてもらうぜ!」
ヴァルガスの大剣が、戦場に旋風のごとき轟音を響かせて唸る。飛び込んできた蝙蝠の群れを一撃で肉片へと変え、その圧倒的な膂力で空間を支配していく。
ロゼリアは白銀の死神と化していた。彼女の剣筋は、一滴の血もその身に通わせぬほどに速く、そして正確。闇の中から放たれる無数の牙を、機械的なまでに冷徹に切り刻んでいく。その姿は美しく、そして残酷なまでに完成されていた。
「待ってました! お家の中じゃ、こんなに暴れられないんだから! 全力で行かせてもらうわよ!」
リフルは歓喜の声を上げながら、重力を嘲笑うかのような跳躍を見せた。ベルシュタイン財閥の令嬢という肩書きを脱ぎ捨て、一人の武闘家として覚醒した彼女のしなやかな体躯。
そこから放たれる、鋼の如き硬度を持った拳と蹴りが、墜落した獲物の頭蓋を次々と砕き、迷宮に鈍い破壊音を響かせる。
「英雄殿は下がっていなさい! 援護は、このエルドにすべてお任せを!」
エルドが懐から取り出した、伝説的な治癒力を秘めた黄金の薬液を、躊躇いなく喉に流し込む。
無理やり絞り出された強大な魔力が彼の瞳に冷徹な青い火を灯し、一行を包む障壁と、戦士たちの疲労を瞬時に焼却する癒やしの光が、洞窟内を神々しく、しかしどこか禍々しく照らし出した。
その熱狂と怒号、そして血の飛沫が舞い踊る渦の中で。
ルシアは、ただ一人立ち尽くしていた。
最強の剣を手にし、伝説の紋章を刻まれたはずの男が。
その剣の「重み」という名の、あまりに単純で、あまりに絶望的な物理法則に敗北し、命を懸けて戦う仲間たちの背中を、ただ呆然と見送るしかない。
(……なんだよ、チクショウ……。なんなんだよ、これ……っ!)
伝説の武器。天に選ばれた証。
それらは今、この血生臭い戦場において、ルシアを誰よりも無力な、ただの「無能な観客」へと貶めていた。
剣は、ルシアの右手の中でトクン、トクンと、嘲笑うような脈動を続けている。
まるで、「お前のような虚飾に満ちた男に、私を振るう資格など微塵もない」と宣告しているかのように。
「……動けよ……動いてくれよッ! 俺の腕を、千切っても構わないから……ッ!」
ルシアの悲痛な叫びは、戦士たちの勇壮な咆哮と、蝙蝠たちが上げる断末魔の叫びに飲み込まれ、誰の耳に届くこともなく虚空へと消えていった。
目の前で、リフルが獲物に噛みつかれそうになり、ロゼリアがそれを鮮やかに救う。
自分だけが、この歴史の転換点において、何もできずに泥を噛んでいる。
「英雄」という名の称号が、鎖となってルシアの四肢を縛り付けていた。




