第16話:氷壁の祭壇、眠れる伝説
つ、ついに
闇の中を一時間、ただひたすらに歩き続けた。
一歩ごとに響くのは、湿った土を蹴る軍靴の音と、重苦しい全員の呼吸音だけ。
松明の赤暗い光に照らされた岩壁は、どこまで行っても同じ顔をして一行を嘲笑っているかのようだった。
ルシアの意識は、すでに自分の肉体を離れ、どこか高い場所から自分を見下ろしているような、奇妙な浮遊感に包まれていた。
眠気はすでに「眠りたい」という欲求を超え、神経を鋭利な剃刀に変えていた。
その時だった。
「――ッ! おいみんな!見てみろ!奥に灯りが!」
静寂を爆破するように、騎士団長ヴァルガスの怒号が響き渡った。
全員が弾かれたように顔を上げる。
一時間、泥のような暗闇に慣らされていた網膜を貫いたのは、針の穴ほどの、だが刺すように鋭い「青白き光」だった。
「ついに……ついに来ましたな。我が法が手繰り寄せた、真理の終着点ですぞ!」
エルド司祭の声が、これまでにないほど激しく震える。
一行は吸い寄せられるように、駆け足でその光の源へと向かった。
狭い回廊を抜け、視界が爆発するように開けたその瞬間、全員が「声」を失った。
そこは、迷宮の最深部――氷の伽藍。
天を仰げば、幾千もの氷柱がシャンデリアのように垂れ下がり、足元は見渡す限りの透明な氷原が広がっている。
壁一面を覆う永久氷壁は、ヴァルガスたちの掲げる松明の火を幾重にも反射し、暗黒の底に「青と赤の万華鏡」を作り出していた。
「な、なんて美しいの……」
リフルが、ロゼリアから借りた外套を握りしめ、恍惚とした声を漏らす。
だが、その幻想的な美しさに反比例するように、空気は一瞬で肺を凍らせんばかりの極寒へと変貌していた。吐き出す息は白く濁り、まつ毛が瞬く間に凍りつく。
そして、その広大な氷の広間の中央。
大地の底から突き出した巨大な氷の牙――結晶が複雑に絡み合った祭壇の上に、「それ」はあった。
装飾など一切ない。ただ、ひたすらに鋭く、ひたすらに重厚な。
伝説に謳われる竜の鱗さえも紙のように引き裂くという、絶対的な死の象徴。
「あ、あれが!」
一同は口を揃える。
その見事な美しさを誇る剣を前にし、再度言い放つ。
「……ドラゴンスレイヤー」
皆が呟いたその言葉が、氷壁に反射して何度も何度も繰り返される。
騎士たちは、その神々しいまでのプレッシャーに圧倒され、一歩も踏み出すことすら忘れ、立ち尽くした。
「何という……。ルシア殿、見ましたかな。あれこそが、世界を救う『特賞』の正体ですぞ」
エルドが、ルシアの肩を震える手で掴んだ。その瞳には、信仰心というよりは、巨大な名声と富を手中に収めようとする「下俗な歓喜」が渦巻いている。
「ルシア殿、何を呆然としておるか。お主の運が、我らをこの聖域へと導いた。さあ、その手で伝説を掴み取り、我が騎士団の、いや、このエルドの名を歴史に刻むのですぞ!」
「(……ああ、やっぱりこれか)」
ルシアは、氷の祭壇に刺さった剣を、血走った目で凝視していた。
皆が「お宝」や「栄光」を見ている中で、ルシアだけは、その剣から放たれる「拒絶」の気配を敏感に察知していた。
一歩、氷の床を踏み出す。
ギィ……。
氷が軋む音が、静寂の中に鋭く響く。
ルシアの脳裏に、先ほど見た「小さく丸い目をしたドラゴンの子」の幻影が蘇る。
(あんな可愛いトカゲを、この物騒な鉄の塊で斬れってのか? ……冗談じゃない)
極限の眠気のせいで、ルシアの思考は正常な恐怖から、どこか冷めた「怒り」に近い感情へと変質していた。
「福引き」という軽薄な理によって選ばれた勇者という名の代理人。
ただ薬草を欲し、探していただけの男に、こんな重苦しい伝説を背負わせようとする世界。
「気をつけて、ルシア。……あの剣の周囲、魔力が異常に収束しているわ」
背後でロゼリアが、氷のように冷たい声で警告を発した。
彼女は既にソード・オリヴィアを抜き放ち、祭壇の周囲を油断なく睨んでいる。彼女だけは分かっているのだ。これほどの秘宝が、無防備に置かれているはずがないことを。
「ワクワクしてきたね! ねえ、ルシア、早く! 私、あのお宝がどんな輝きをしてるのか、近くで見たいわ!」
リフルの屈託のない声が、凍てついた空気をかき回す。
ルシアは、一歩、また一歩と祭壇へ近づく。
一睡もしていない体が、悲鳴を上げている。
視界の端で、氷の影が「小さく丸い目」のように蠢いた気がした。
ルシアが祭壇の目前まで辿り着いたその時、それまで静止していた氷の結晶が、共鳴するように高く、鋭い音を立てて震え始めた。
「え、何!」ロゼリアとヴァルガスが反応する。
「まずい!待たれよ! ルシア殿!まだ触れてはなりませぬぞ!」
エルドの制止も、もはやルシアの耳には届かない。
彼はただ、この忌々しい「伝説」をさっさと終わらせて、ふかふかのベッドで眠りたかった。
そして、ルシアの手がドラゴンスレイヤーの柄にゆっくりと伸びる。
その瞬間、氷の広間に、先ほどとは比較にならないほど巨大な「心臓の鼓動」がドクン、と響き渡った。
触れてはダメだ〜
続きは明日の20時!




