第10話:深淵の口と、紅蓮の先導
その穴は、まるで世界が流した黒い涙の跡のように、不気味な口を開けていた。
周囲の森は、鳥の声一つしない死の静寂に包まれている。エルド司祭の放った大魔法の余波か、あるいはダンジョンそのものが放つ「拒絶」の気配か。
冷たい風が穴の奥から吹き出し、ルシアの頬を撫でていった。
「……さて」
ルシアは、腹の底に溜まった重い澱を吐き出すように、深く、長くため息をついた。
一睡もしていない頭は鉛のように重く、視界の端が時折ちかちかと明滅する。
今すぐこの場に倒れ伏して眠りにつきたい。だが、背後に控える騎士団の熱い視線と、エルドの逃げ場を許さない圧迫感が、ルシアの足を一歩前へと押し出そうとしていた。
(行くしかない……。ここを乗り切れば、いつかはあの『カフェ』の静かなテラスに戻れるかもしれないんだ。……いや、戻る。戻ってやるぞ、絶対に)
ルシアが震える拳を握りしめ、死地へと踏み出す覚悟を決めた、その瞬間だった。
「待たれよ、英雄殿」
氷の刃を突き立てるような、凛とした声が響いた。
驚いて振り返るルシアの横を、一陣の清冽な風が通り過ぎる。
ロゼリア・ウォーハート。
彼女はルシアに視線すら向けず、流れるような所作で騎士団の荷馬車へと近づくと、備え付けの松明を一掴みで奪い取った。
「先頭は、私が務めます。……道も分からぬ暗がりに、素人を放り込むほど無謀ではないわ」
ロゼリアはそのまま、迷いのない足取りで穴の入り口に立った。
彼女が空いた左手の指先を松明の芯に添え、「灯れ(イグニス)」と短く呟く。
すると、魔法の火花が鮮やかに散り、瞬く間に紅蓮の炎が闇を切り裂いた。その手際の良さは、訓練された戦士のそれであり、同時に一種の芸術品のような美しさを湛えている。
「(……はあ、この人。何から何まで完璧なんだよなぁ)」
ルシアは、呆気に取られてその背中を見つめていた。
松明の明かりに照らされたロゼリアの横顔は、名剣ソード・オリヴィアの刃紋のように鋭く、冷たい。
彼女は魔法すらも呼吸をするように使いこなし、迷いなく死地を先導していく。
(……やっぱ苦手だわ、こういうタイプ。こっちは立ってるだけで精一杯だってのに、住む世界が違いすぎるだろ……)
ルシアは内心で毒づきながらも、先頭という「生贄」の役割を免れたことに、深い安堵を覚えていた。しかし、その安堵を見透かしたかのように、背後から重厚な声がルシアの鼓膜を叩く。
「ふむ……。流石はウォーハートの末裔ですな。気が利きますぞ、ロゼリア殿。お主のその献身、法の名において高く評価いたしましょうぞ」
エルド・アッシュマンが、魔力切れで真っ青になった顔を隠すように、尊大に頷きながら進み出てきた。彼は杖を重々しく突き、ルシアの肩をその細い指で掴んだ。
「ルシア殿、何を呆然としておるか。お主は我が騎士団が守護する中心……いわば、この行列の『核』として歩んでいただきますぞ。
ヴァルガス殿、お主らも油断召されるな。伝説の眠る場所……何が起きても不思議ではありませんぞ」
「はっ! 承知いたしました、司祭様! 英雄殿の指先一つ、傷つけさせはいたしません! 者共、続けッ! 伝説をその手に掴むのだ!」
騎士団長ヴァルガスの豪快な号令が森に響き渡り、五人の精鋭騎士たちが一斉に抜剣した。
ルシアは、前後を屈強な男たちに挟まれ、文字通り「英雄」として、あるいは「最高級の荷物」として、暗い穴の奥へと引きずり込まれていった。
一歩、中へ入れば、そこは別世界だった。
岩壁からは不気味な粘液が滴り落ち、カビと埃の匂いに混じって、どこか甘く、胃を攪拌するような特異な魔力の匂いが漂っている。
「……な、なんだ? 急に体が重いような……」
ルシアが呟く。それは気のせいではなかった。
進めば進むほど、空気そのものが密度を増し、体にまとわりつくような感覚。
ロゼリアの灯す松明の火が、まるで何かに吸い取られるように細く、青ざめていく。
「……ふむ、待たれよ。お主ら、気づきませぬか? この空間……我らの魔力を、少しずつ吸い取っておるようですぞ」
エルドの声に、緊張が走る。
魔力切れ寸前の彼にとっては、この「吸魔の環境」は致命的だ。
だが、ロゼリアは動じない。彼女はオリヴィアの柄に手をかけたまま、淡々と歩みを続けた。
「……構いません。魔力が枯れれば、剣で斬る。それだけよ」
その言葉はルシアの耳に、まるで自分に対する当てつけのように聞こえた。
ルシアはポケットの中で、じっとりと汗ばんだ手で「運のタネ」を握りしめる。
自分には、魔法も、優れた剣技も、ウォーハートのような高貴な志もない。あるのは、一睡もしていない重い体と、いつ炸裂するか分からない最悪の「不運」だけだ。
(……ああ、本当に。薬草さえあれば、それで良かったのに……)
松明の明かりが届かない背後の闇。そこには、平穏だった日常が完全に遮断されたという、残酷な真実だけが横たわっていた。
一行は、さらに深く、光の届かぬ深淵へと飲み込まれていく。
この先に待ち受けるのが、英雄の栄光か、それとも名もなき死か。
ルシアのギラついた瞳は、揺れる炎の向こう側に、不吉な「何か」が蠢くのを予感していた。
やっとこさダンジョン突入!




